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※夢主の親族が出てきます。また、呪霊と戦う描写、夢主が大きな怪我をする描写があります。

 

 

 

いままでに感じたことのないような、禍々しい呪力だった。
部屋から一歩踏み出しただけで足が竦みそうになる。見えない力に捻じ伏せられるような心地だった。

「何これ……どうして……?」

いくら準二級の私が張った結界といえど、そう簡単に破られるようなものではないはずだ。それに、こんな市街地から遠く離れた人の少ない場所で、これほど強力な呪霊が自然発生するとも思えない。訳もわからず呆然とするだけの私の耳に、空気を切り裂くような悲鳴がいくつも聞こえてくる。

(……行かなくちゃ)

ひとつ深く息を吸って、氷のように冷えた自分の頬を両手で強く叩いた。
原因を考えるのなんか後でいい。ここで動けないなら、いままで何のために呪術を学んできたんだ。
束の間、ぎゅっと結んだ瞼の裏に大きな後ろ姿を思い描く。そうして次に目を開くと同時に、私は暗い色の空の下へと駆け出した。

 

違和感を感じたのはすぐだった。あんなに派手な土煙が上がっていたのに、境内はびっくりするほど綺麗なままだったのだ。まるで時間が止まっているみたいに静かで、人の気配も消えている。みんなうまく逃げられたのだろうかと安堵する反面、妙な胸騒ぎを覚えた。

とにかく、まずは電話のある場所まで行って高専に連絡を取るのが最優先だ。そうすればきっとすぐに応援を寄越してくれる。誰かがすでに通報してくれていればいいが、それを確かめる術もない。
現時点で確実にわかることは、たったひとつ――このレベルの呪霊を私ひとりで相手にしても、到底勝ち目はないということだけだった。

喘ぐように開いた口をきゅっと引き結ぶ。いま私がやるべきことは、呪霊の祓除よりも先に避難誘導と救援要請だ。落ち着いて、私が誰よりも冷静にならなくちゃ。心の中で何度もそう言い聞かせながら、本殿の角を曲がったときだった。

「……叔父様!?」

柱の影に隠れるように身を竦めている人影が見えた。白の混じる髪を乱し、肩で息をしている。着物が汚れるのも厭わず地面に蹲る姿は、普段の彼からは想像もつかなかった。

「こんなところで何を……! 早く逃げてください、それから高専に連絡を」

駆け寄ると、叔父は青褪めた顔でこちらを振り仰いだ。同時に、その左手が何かを隠すようにさっと身体の後ろへ回る。見えたのは一瞬だけだった。けれど。

「っ、それ……!」

確かに見覚えのある花模様だった。手を伸ばした私に、叔父はびくりと肩を震わせ逃げるように後退りをする。日に焼けてくたびれた帯と、そこからはみ出した無骨な柄。間違いようがない。
――この人だったのだ。私の部屋から刀を取って行ったのは。

「返して……返してください!」
「だ、駄目だ! これはわたしのものだ!」
「大切なものなんです、それがないと私……っ」
「やめろッ! 触れるな!!」

叔父は嫌々をする子供のように大きくかぶりを振りながら、私の手を払い除けた。バチンと音がするほどの強い力と必死の形相に思わず息を呑む。
叔父の額にはびっしりと汗の玉が浮かんでいた。呪いに当てられているのか顔色が悪く、呼吸もずいぶん乱れている。一刻も早くここから離れさせなければ危険な状態だった。非術師といえど、この絡みつくような異様な気配には叔父自身も気づいているはずだ。

「落ち着いてください、とにかくここを離れないと」

叔父の腕を掴む。今度は振り払われなかったが、その身体が小刻みに震えているのがわかった。

「……今度こそ」
「え?」
「これを渡して、今度こそわたしが、」

うわごとのように呟かれた言葉の最後は、聞き取れなかった。

何かがおかしいと気づくより早く、全身から冷たい汗がぶわりと噴き出していた。振り返る余裕はない。叔父の身体を抱えて、ありったけの力で遠くへ投げ飛ばした。同時に後ろから強烈な呪いの気配が押し寄せ、突風に捲かれる小石のように私の身体は地面を転がっていた。ぎゃ、と上がった声が叔父のものか自分のものか、それとも呪霊の笑い声だったのか、それすらもわからなかった。

「――な、ァに、しでル、のォ?」

金属音にも似た、耳障りな声だった。
饐えた臭いが鼻をつく。私の背丈の何倍もある巨大な呪霊の身体は、ひしゃげた風船をいくつも繋ぎ合わせたような歪な形をしていた。爛れた皮膚から細い手が何本も生え、顔と思しき場所には異様に小さな目と鼻のようなものも見える。
その巨体の真ん中を横断して、大きな口が開いた。剣山のように並んだ無数の鋭い牙が剥き出しになる。ねっとりとした舌を覗かせ、呪霊はケタケタと笑った。丸い輪郭とは不釣り合いなその獰猛さが、ひどくグロテスクに映った。

「ワタシの、おにワで、あそボ」

調子外れの声を聞きながら、震える足を叱咤して立ち上がる。左腕には力が入らない。折れているのかもしれないが、痛みはまったく感じなかった。頭の芯のほうでずっと警鐘が鳴っている、けれどそれを止める方法がない。逃げることは、もう叶わない。
ようやくわかったのだ――ここは、この呪霊の領域の中だ。

 

「はあ、はあ……っ、は」

さっきから、何分経ったんだろう。もしかしたら数十秒しか経っていないのかもしれない。地面を蹴って飛び退ると、たったいま私が立っていた場所を抉るように大きな穴が空いた。

(こいつ……本当に遊んでるんだ)

呪霊が愉快そうな笑い声を上げる。
初めから、こいつはわざと私が避けられるギリギリを狙って攻撃してきている。その気になれば私なんかすぐにでも潰してしまえるはずなのにそうしないのは、“遊んで”いるからだ。

それでも躱すだけで精一杯だった。何度も吹き飛ばされているうちに身体中がぼろぼろになって、いま頬を伝い落ちているのが汗なのか血なのかもわからない。
不幸中の幸いは、この呪霊の領域がどうやら未完成であるらしいということだった。そうでなければもう何回も死んでいる。

ぎゅっと唇を噛む。砂と鉄の味がした。数少ない手持ちの呪符は早々に使い切ってしまった。それも避けきれなかった攻撃をいなすだけで、相手には傷ひとつ付けることすらできていない。どうにか反撃の隙を作れたとしても、私の術式ではダメージを与えられない。倒すなんてもってのほかだ。準二級の、しかも武器もない私では、文字通り手も足も出ないのだ。
だったら、せめて時間稼ぎくらいは。

「……っ!」

再び身体が宙を舞い、崩れかけの塀に背中から打ちつけられる。受け身もまともに取れないまま地面に落ちて、息が詰まった。

なんて情けないのだろう。確かに一生懸命鍛えてきたはずなのに、いざというときこんなにも無力だ。お腹に力を込めようと息を吸っても、喉はぜいぜいと鳴るばかりで、ちっともうまく機能してくれない。咳き込んだ口の端から血が滴り落ちて、地面にいくつも染みを作った。
どうにか顔だけを持ち上げ、辺りを見回す。目が霞んであまり遠くまで見えないけれど、叔父の姿はないようだった。うまく逃げられただろうか。助けを呼んでくれただろうか。

すぐそばには、一緒に吹き飛んできたらしいあの刀が転がっていた。破れた帯の隙間から覗く柄に手を伸ばす。指先が触れると同時に、ぐんと強い力で頭を引っ張られた。
呪霊が私の髪を掴んで持ち上げているのだった。もはや悲鳴を上げる力もない私を覗き込むように、呪霊が顔を近づけてくる。肉の腐ったようなひどい臭いがした。

「ねえェえ、もっと、アソ、ぼ、よォ」

心底楽しそうに、歌うように呪霊が言った。
私の命はいま、この呪霊に握られている。歪な形をしたその手の一捻りで、あるいは真っ黒な呪力の一突きで、私の心臓なんて簡単に止まってしまう。それをわかっていながら、こうしてじわじわと弄ぶようにして嬲り殺すのだ。吐き気がした。

「……舐めないでよ……」

手繰り寄せた呪具をぎゅっと握りしめる。歯を食いしばっていないと取り落としてしまいそうだった。

私はやっぱりどこまで行っても弱くて、こんなにも悪意に満ちた呪霊を前に、逃げ回ることだけで精一杯だ。
それでも、あの頃とは確かに違う。ちっぽけな力だとしたって、戦う術を教えてもらった。——だから、諦めるわけにはいかないのだ。

「私だって、呪術師だ」

あとはもう、瞬きひとつの合間だった。
逆手に持った刀で、呪霊に掴まれた髪を切り落とす。それでほんの僅かバランスを崩した巨体の中心めがけ、勢いのままに刃を突き立てた。身体中から振り絞った呪力をすべて刀に流し込む。
全身が燃えているみたいに熱かった。この後どうなるかなんて考えることもできなくて、ただただ一心不乱に、ありとあらゆる力を注ぎ続けた。

呪霊が咆哮しながら大きく身体を揺すり、無数の手を振り乱す。そのうちの一本に脇腹を薙ぎ払われ、両足が地面から離れた。ポケットから飛び出した何かが鈍い銀色に光って落ちていくのを、視界の端で捉えた。

「っ、あ……」

――もう、身体のどこにも力が入らない。なす術もなく瓦礫の山を転がり落ち、仰向けに投げ出されたままひゅうひゅうと短い呼吸をする。見上げた灰色の空からぽつりと雨粒が落ちて、私の頬を濡らした。

(……私、このまま、死ぬのかなあ……)

最後くらい、綺麗な青空が見たかったな。
そう思った途端、両目からとめどなく涙が溢れた。

悲しいとか恐ろしいとかそんなことよりも、ただ恋しかった。やり残したことはたくさんある。でもいまこの瞬間に心に浮かぶのは、たったひとりの姿だけだった。

やっぱりあのときもう一度、好きだって言えばよかったな。ありがとうって、もっとたくさん伝えればよかった。地面にはらはらと散ってしまったこの髪も、あなたに触ってほしくて一生懸命伸ばしていたこと。本当は、ずっと一緒にいたかったことも。叶わなくたって、何度でも口にすればよかった。

だってもう、本当に、二度と会えない。

「……五、条、せんぱ……、」

夢でもいいから、どうか、神様。
自分にさえ聞こえないような掠れた声で、呟いたときだった。

こちらに手を伸ばしていた呪霊が、大きな爆発音とともに吹き飛んでいった。一秒前まで呪霊がいた場所を大きな土煙が覆う。その狭間に、涼やかな白銀の色を見た気がした。

「――ナマエ!!」

ああ、と吐息が漏れた。なんて、都合のいい夢なんだろう。
駆け寄ってくる背の高い人影が、あの人に見える。こんなところにいるはずがないのに。

「ナマエ、おい、目ェ閉じんな!」

あたたかい手のひらが頬に触れる。その優しい温度が、匂いが懐かしくて切なくて、また泣きそうになった。
きっと神様が最後にご褒美をくれたのだ。頑張って毎日鍛錬してたおかげかなあ。それとも私があんまり泣いているから、可哀想に思ってくれたんだろうか。どっちでもいいや。どっちでもいいから、もう一回、もう一回だけ伝えるまで、どうか消えないで。

「……五条、先輩」

ほとんど感覚のない腕を持ち上げて、指先で骨張った手の甲をなぞった。冷たい雨粒の代わりに、私の名前を呼ぶ声がいくつも降り注いでくる。あったかい。すっごく、いい夢。

「……だいすきです、五条先輩……」

徐々に狭くなっていく視界の中で、綺麗な空色が揺れている。その光だけを瞼の裏に残して、私はゆっくりと目を閉じた。

 

 

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