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※夢主の親族が出てきます。
※視点いろいろ。

 

 

 

水を打ったように静まり返る屋敷の回廊を、初老の男が足早に通り過ぎた。
母家から隔てられた小さな離れへと至る渡り廊下には他に誰の足音もなく、燃え落ちる間際の夕日が男の影だけを長く長く伸ばしている。早春の冷たい風に煽られた髪を忌々しげに撫でつけてから、男は突き当たりの簡素な引き戸を大きく開け放った。

確かめねばならない、と男は強く思っていた。
数週間前、この家に呼び戻した彼の姪のことである。普段は顔を合わせずに暮らしている彼女の姿をふと目にしたのは、昨日の夕方のことだった。鎮守の森へと入っていくその手に携えられた、細長い何か。一年前にここから出ていったとき、あのようなものは持たせていなかったはずだ。

極端に荷物の少ない部屋の中で、それは存外に容易く見つかった。
洋服箪笥の奥、僅かな数の服を敷布のようにして恭しく置かれた一振りの刀を手に取る。見た目よりずっと重量のあるそれをじっと睨んで、男は絞り出すような声で呟いた。

「――五条家の、紋……」

鍔にあしらわれた家紋には見覚えがあった。不本意ながらも呪術界と少しでも関わりのある者ならば、知らぬはずのない紋様だった。
刀身を包み隠すように巻かれた帯は、かつて男の姉が好んで身につけていたものによく似ている。節くれだった手に力がこもると、日に焼けた花模様がくしゃりと形を変えた。

「……やはりあの娘、まだ……!」

やがて男が出て行くと、部屋は元の通りの無人となった。弱々しく注ぎ込む入り日の名残りすら掻き消すように、窓の外では風が強く吹きつけている。
遠く、雨の気配がした。

 

* * *

 

『――五条先輩』

雨音にも似た囁き声だった。

『大丈夫ですよ』

ふわりと笑う吐息が耳元を掠める。遠慮がちに伸ばされた細い指先が背を撫でる感触に、たまらない気持ちになる。張り詰めた呼吸を緩めて深く息を吸い込めば、柔らかく甘やかな匂いが身体中を満たした。

これは夢だと、すぐにわかった。それでもなお、濡れそぼって冷たくなった手首をきつく握りしめる。
もしもこのままこの手を攫って、もう二度と、離さなければ――。

「――る、……おーい、悟」

は、と顔を上げると、片方だけ垂れ下がった前髪が目の前でぷらりと揺れた。

「次、きみの番だけど」

こちらを覗き込む傑の顔の向こう、テレビ画面には双六ゲームのカラフルな盤面が大きく映し出されいてる。騒々しいBGMに揺り起こされるように意識が浮上して、いつの間にか強く握りしめていたコントローラーの存在をようやく思い出した。

「……あーごめん、ぼーっとしてたわ」

取り繕うように言って、ゲームを進める。
ピコピコとボタンを押していくが、さっきまでの流れはまったくと言っていいほど思い出せなかった。

久しぶりの休日、朝からゲームをしようと寝起きの傑を半ば無理やりに誘った。なのにどうにも気が散って仕方がないのは、昨夜の夢のことばかりを繰り返し考えてしまうせいだろう。原因など考えるまでもなく、自ずと舌打ちが出る。寝る前に気まぐれで眺めていた映画の再放送がいけなかった。あれは、去年の夏の終わり、あいつと観た。

「気になってるんだろう」

自分のターンを終えてコントローラーを投げ出した俺に、傑は含みのある声で言った。何が、と明言しないのがこいつの憎たらしいところだ。答えを考えるのも億劫で、傑の隣から抜け出し背後のベッドに寝転がった。傑は相変わらず床に胡座をかいてゲーム操作を続けながら、俺が枕にしようとしたクッションを片手でさらりと奪い取っていく。くそ、俺の部屋だっつの。

「あの子のこと」

……だから、誰のことだかはっきり言えよ。
苛つきながらも頭に浮かぶ顔がちっとも消えないあたり、これが図星というやつなのだろう。いまさら傑相手にシラを切ったところで意味はない。意味はないが、認めてしまえばどこまでも加速していきそうで、結局は携帯を弄るふりをすることくらいしかできなかった。

「……なってねーよ別に」
「あまり家族との折り合いが良くないと聞いたけど」
「知らねー」
「元気にやってるのかな」
「だから知らねーって」
「実は昨日、彼女に電話をかけたんだ」
「知ら、……は?」
「でも番号が解約されてしまったみたいでね、通じなかった」

思わず声を上げてしまったのは失策だった。こちらを振り仰いだ傑は素知らぬような口振りで「いけなかった?」などとうそぶく。さっきよりも大きな舌打ちが出た。

ナマエがいなくなって数週間が経っていた。準二級の後輩がひとり抜けたところで、俺たちの生活に何ら影響はない。退屈な座学を受け、実習をこなし、任務に駆り出され、呪いを祓う。笑ってしまうくらいいつも通りだ。まるで初めからそんなやついなかったみたいに。
メールも、電話も、あいつからは何ひとつ音沙汰はなかったし、こちらからも連絡を取ることはしなかった。自分の意思で出て行ったのなら、もう関わるべきではないと思った。

「……まあ、冗談はさておき」

ぷつん、と千切れるような音を立ててテレビが消える。ゲームは傑の上がりで終わったようだった。そこそこの音量で流れていたBGMが途絶えると、狭い部屋の中は耳が痛くなるほど静かだった。

「これでも、割と本気で心配してるんだよ。あの子はなんでもかんでも我慢してしまうし、我慢していることにすら気がついてないときがあるから」

あっちでうまくやれているなら、それでいいんだけど。傑が独り言のように呟く。

――うまくやれてなどいるものか。あの腐りきった家で。
暗い森の中でひとり震えていた、四年前のナマエの姿を思い出す。叔母だという女の言葉に唇を噛んで泣いたあの日のことも。それだけで、あそこがあいつにとってどんな場所なのか、これからどんな生活が待っているのか、部外者の俺にすら簡単に想像できるというのに。

「正直、悟は引き止めると思ってた」
「……なんで」
「わかってるだろ?」

わかりたくもなかった。こんな感情。

あいつが残したものは、そのどれひとつをとってもあまりに些細で、吹けば飛んでいく小さな花びらみたいだった。だから姿を見なくなれば、声を聞かなくなれば、すぐに薄れると思っていた。なのにどれだけ時間が経っても、降り積もったものは重さを増していくばかりで、一向に消える気配がない。それこそ、夢に見るくらいに。

「お前こそ、なんでそんなにいつまでも気にかけるわけ」

胸の内にわだかまったものを咀嚼しきれないまま口を開いたせいで、思った以上に不機嫌な声が出る。思わず顔を顰めた俺に、傑はきょとんと目を丸くした後で「安心してくれ、そういうつもりじゃないよ」と困ったように眉尻を下げた。笑ってんじゃねーよ。

「ただ、悟にとってのナマエみたいな子はもう現れないんじゃかいかと思って」
「……どーゆー意味」
「きみの生まれや立場やひねくれた性格なんかお構いなしにきみのことが大好きで、何があってもただひたすらに信じてくれる、そんな馬鹿みたいに素直な子」

そう言って、傑は眩しいものを見るみたいに目を細めた。
……当たり前だ。あんなのが何人もいてたまるか。こっちが引くほど素直でお人好しで、嘘をつくのがドヘタクソで、ぴーぴー泣くくせにすぐ自分を犠牲にしたがるような馬鹿なヤツ。どこからどう見たって呪術師になんか向いていない。そんなのはどれもこれも全部、最初からわかっていたことだ。

「……ここにいたって死ぬだけだろ、あんな雑魚」

昇級してから明らかに怪我が増えたことには気づいていた。それでへらへらと笑っているあいつに腹を立てもした。本人がいくら努力したところで、そんなもの簡単に踏み躙られるような世界だ。ただただ理不尽に、道端の花を手折るような無邪気さで。

だからこそ、手を離した。

無理やりにでも奪ってしまうことは簡単だ。あいつが泣いて嫌がっても、どんなに痛がっても、思いきり抱きしめて、離さなければ。そんな風に考えるたび、掴んだ腕の感触が蘇ってくる。少し力をこめれば容易く壊れてしまいそうな細くて頼りないその手に触れることを、初めて恐ろしいと思った。

「……やっぱ邪魔くせー」

たとえ望んだ形じゃなくても、ナマエはあの場所に帰ることを選んだ。だったらもう俺にできることは何もない。こっちを選ばなくてよかったと思える未来がいつか訪れることを、願うくらいしか。

「悟、傑、いるか」

空気を震わすような太い声が聞こえたのはそのときだ。かと思えば部屋のドアが勢いよく開いて、髭面のデカい男が押し入ってきた。思わず「げえ」と舌を出した俺を傑が横目だけで諫める。
あまりにも持ち主の見た目にそぐわない可愛らしいぬいぐるみが、岩石のような拳にぶら下がって揺れていた。ところどころ糸が飛び出しているあたり、製作途中のまま持ってきたのだろう。趣味の悪いものを人の部屋に持ち込まないでもらいたい。

「センセー、ノックもなしで生徒の部屋に入るのはデリカシーに欠けると思いま〜す」
「緊急事態だ」

ベッドから起き上がることもしない俺にはお構いなしに、低い声が短く告げる。何かを察知したらしい傑がぐっと背筋を伸ばす気配がした。途端にびりびりとした緊張感が走って、さすがの俺も口を噤む。

「未確認の一級呪霊が発生した。すぐに向かえ。場所は――」

なんだ一級程度か、と息をついたのは束の間のことだ。続けて飛び出してきた言葉に、跳ね起きずにはいられなかった。

「――は……?」

 

* * *

 

『――ナマエは大きくなったら何になりたい?』

いつだったか、母に尋ねられたことがある。

『何でもいいんだよ。何にだってなれる。どこにだって行けるから』

もう写真を見なければ顔も思い出せない。穏やかに語りかけてくれたその声がどんな色をしていたのかも、忘れてしまった。ただあやふやな形をした思い出だけがあって、それは時折優しく柔らかな光を放っては、私の胸をぎゅっと締めつけた。

『好きなように生きて、自分の居場所を見つけるの』

そうして、きっと幸せになるんだよ。
そう言って私の頭を撫でたあたたかな手のひらの感触を、私はあとどれくらい覚えていられるのだろう。

「――おかあさん……」

目が覚めて、視界に映る景色に一瞬、困惑した。
煤けた薄茶色の天井と、飾り気のないペンダントライト。障子紙を透かして入り込む日の光は弱く、暗い色に沈んだこの部屋を照らすには心許ない。
ひとつ深く息をして、布団から身体を起こす。そうすると覚えのある匂いが身体を巡って、ようやく自分がどこにいるのかを思い出すのだった。

霞む目を擦り、のろのろと立ち上がる。簡素な部屋の作りも家具も幼少期からほとんど変わらず、けれどどこか他人行儀な顔をしていた。たった一年離れていただけで見知らぬ場所のように思えてしまうのは、どこかに未練を残しているからだろうか。

ここへ戻ってきてから、よく両親の夢を見るようになった。
母は術式こそ持たなかったものの、呪力に恵まれ、私と同じように結界術が得意だったそうだ。弟である叔父には呪術の才がなかったから、母が祖父の後を継ぐはずだった。

私と母のひとつ大きく異なるところは、母は若くしてここを出て、それから二度と戻らなかったということだ。外の世界で父と出会い、私が生まれた。親族はみな母のことを男に誑かされたのだと噂したけれど、幼い私の目に映るふたりはいつも幸せそうだった。

(……ごめんなさい、お母さん)

私は弱くて、自分の力で居場所を見つけることはできなかった。好きな人のそばに立ち続ける勇気も持てなかった。

――それでも、まだ私にもできることはあるよね? ここにいていいんだって思えるときは、きっと来るよね?

問いかけても、誰も答えてはくれない。
鳥のさえずりさえも許さない静寂が、私はここにひとりきりなのだと痛いくらいに突きつけてくる。

(着替えなくちゃ……)

無意識に握りしめていた寝間着の浴衣の帯を、そのまましゅるりと解いた。
全身がぎしぎしと強張っているように感じるのは、昨日、慣れない接待を長時間続けたせいだろう。間近に控えた婚礼を前に、ここしばらくいろんな相手との顔合わせが続いていた。重たい礼装で形式ばかりの挨拶を繰り返すのは、思った以上に疲れるものだ。少し前までジャージ姿で砂にまみれていたのが嘘みたいだった。

脱いだものを畳む気にもなれずに布団の上に放り出し、洋服箪笥に手をかける。
違和感を覚えたのは、そのときだった。

「あれ……?」

見た目にはどこもおかしくない、なのになぜか胸が騒いだ。
勢いのまま、箪笥の引出しを上から順に引っ張り出していく。一段目、二段目、三段目。僅かばかりの服や雑貨が、いつも通りに退屈そうな顔をして仕舞われているだけだ。
しかし最後の四段目を開けた瞬間、全身からさっと血の気が引いた。

「――ない」

刀が、ない。

五条先輩からもらった呪具。誰にも存在を教えていないはずだった。元よりこの部屋に近づく人間などいない。昨日の昼には確かにあったのに。どうして。なんで寝る前にちゃんと確認しなかったんだろう。昨夜は遅くに戻ってきて、疲れてすぐ眠ってしまって、それで。
回らない頭で必死に考える。とにかく探しに行かなくては。でも、どこに?

いてもたってもいられず、手近な服を身に着けてすぐに踵を返した。翻った上着のポケットから何かが零れ落ちる。音を立てて畳の上に転がったのは、銀色のイルカのネックストラップがついた携帯電話だった。もう電話もメールも通じない、けれどお守りのようにずっと持ち続けている。

――もし、もしもあの刀を失くしてしまったら、私は。

拾い上げた携帯をポケットの中でぎゅっと強く握りしめ、障子を開け放つ。

次の瞬間、ドン、と何かが爆発するような音がして、母屋のほうで土煙が上がった。

 

 

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