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「ちょっと無理しすぎなんじゃない?」

ちょきん、と耳の横で小気味良い音がして、そのすぐ後に呆れ混じりの声が落ちてくる。伏せていた瞼をそろりと持ち上げて仰ぎ見れば、いましがた私の腕や頭に巻きつけた包帯の残りをくるくると器用に丸めながら、硝子さんは深い溜息をついた。その美しいかんばせが予想よりも遥かに険しく歪んでいたから、胸の奥がきゅっと痛くなる。

「すみません、いつも治していただいて……」
「それは別にいいけどさ、そうじゃなくて」

続きを発することのないまま、薄い唇が閉じる。
硝子さんが何を言いたいのかはよくわかっているつもりだ。最近の私は、時間さえあれば任務の予定を詰めこんでいた。低級のものから少し無理がいる案件まで、何でもいいから回してほしいと先生にお願いしたのだ。
比例して怪我の頻度も高くなった。ツギハギみたいにそこらじゅう反転術式で治してもらいながら、それでも休むことができなかった。立ち止まったら、もう二度とどこにも進めなくなるような気がした。

「……暇にしてると、余計なこと考えちゃうので」

頭の中から一切の空白を消し去りたい。少しでも隙間があれば、そこから燃え広がるようにあっという間に私の思考は仄暗い何かで埋め尽くされてしまう。授業と任務にすべての力を使い切って、帰ったら泥のように眠る。それくらいがちょうどよかった。

私が高専の呪術師でいられる時間は、あとほんの僅かだ。最後に何か、何でもいいから、私にもできることがあったと証明したかった。この一年間がただの夢じゃなかったんだって、自分を納得させたかった。

「もうそんなに頑張らなくてもいいのに、って言ったら怒る?」

ふわりと空気が揺れる。硝子さんが窓を開け放つと、冷たい風が私たちの間をすり抜けていった。

「……怒らないですよ」

さらさらと靡く茶色の髪の向こうで、吐き出された紫煙が細く長く絡み合いながら窓の外を流れる。
……煙草、身体に悪いからやめてくださいって、最後くらいお願いしてみてもいいかな。

「寂しくなるな」

少しだけ振り向いた硝子さんがぽつりと呟く。私は結局、何も言うことができなかった。

 

(さすがにちょっと、疲れたな……)

医務室から寮への道のりがやたらと長く感じた。傷自体は反転術式で塞がっているとはいえ、消耗した体力や気力まで戻るわけではない。渡り廊下の大きな窓から差しこむ夕日が眩しくて、目の前がチカチカした。

部屋に戻ったらすぐに布団に入ろう。じゃないと明日の任務に支障が出てしまう。明日が提出期限の課題は早起きして終わらせて、授業の合間に任務用の呪符の用意をして、昼食は移動中に済ませて……あれ、明日の任務先ってどこだったっけ。寝る前にもう一回、資料読んでおかないと。
取り留めもないことをぐるぐると考えながら、廊下の角を曲がったときだった。

(……あ、なんかこれやばい、かも……)

急に暗がりに入ったせいか、ひどい眩暈に襲われた。ぬかるみに嵌まってしまったように身体がふらついて、まっすぐに立つこともできない。膝から力が抜けてくず折れそうになったところを、何か強い力に支えられた。

「――また怪我してんのかよ」

息が止まった。
ずっと聞きたくて、聞きたくなかった声だった。霞んだ目で見上げれば、きゅっと眉を顰めた端整な顔がすぐ近くにあった。

「……ご、じょ、先輩……」

名前を口にすることすら、久しぶりだ。途端に煮えるような感情が喉元までせり上がってきて、呼吸ができなくなる。思わず顔を背けた私の肩を、先輩の手がぐいと押した。抵抗することもままならず、背中が壁にぶつかる。

「辞めるって、何」

押し殺すようにして、五条先輩が言った。

高専を辞めるということを自分の口から説明していないのは、あとはもう目の前のこの人だけだった。自分でも驚いたのだけれど、同期の二人や、硝子さんや夏油先輩には、意外なほど冷静に話すことができた。事情があって学校を辞める、これからは家の手伝いをして暮らしていくのだと、何でもないみたいに笑って言えた。

でも、五条先輩にだけはどうしてもだめだった。この人の前に立つことを考えただけで胸が苦しかった。言いたいことはたくさんあるはずなのに、そのどれもが掴もうとした途端に鋭利な刃へと形を変えて、私の思考をずたずたに切り裂いた。

「……なんとか言えよ」

制服の上から腕を掴まれ、焼けるような痛みが走る。まだ完治していない傷のある場所だった。勝手に任務を詰めこんで勝手に怪我をしている私に、先輩は呆れてしまうだろうか。この期に及んでまだそんなことを考えている。もうすぐ、なんの意味もなくなるのに。

「……い、家、の、手伝いをするんです。叔父と叔母だけでは人手が足りないですし、結界のこともあるし、戻ってきてくれたら助かるって、言われて」
「お前それ本気で言ってんの?」
「痛っ……!」

腕を掴む力が俄かに強くなって、堪えきれず悲鳴が漏れた。いまさら唇を噛んでも手遅れだ。はっとしたように青い瞳が見開かれ、それからゆっくりと手が離れていく。

「……ふうん。よかったじゃん、‟家”に帰れるようになって」

誰もいない廊下はおかしなほど静かで、先輩の声が耳に突き刺さるようだった。心臓が脈打つのに合わせて頭がズキズキと痛む。

「……雑魚がいなくなって清々するわ。お前、弱いし。このまま残っていつか目の前で死なれでもしたら、こっちも寝覚め悪、」

ずっと、先輩に会うのが怖かった。
こうやって突き放されるのがたまらなく怖かったのだ。
もしかしたら――もしかしたら五条先輩も私のことを好きでいてくれるんじゃないかって、そんなおこがましいことを考えていたから。

「……なん、で……」

頭は必死になって違う言葉を探そうとするのに、口が勝手に音を紡ぐ。やけに視界がぼやけて変だなと思ったら、瞬きとともに涙がいくつも頬を伝っていった。頭と心と身体がばらばらになって、美しく光る青の色の他には、何もわからなかった。

「だったら、なんで、あんなことしたんですか……」

私はあまりにも身勝手だ。自分から離れようとしているくせに、まだこの人に何かを期待している。痛くても、辛くてもいいから、ずっと捕まえていてほしいって。そうしたら、私は。

「――わかんねーなら、もう一回してやろうか」

離れたはずの手のひらが私の頬を包み込む。五条先輩の顔がゆっくりと近づいてくる。掠れた声が私の名前を呼ぶ。
からかわれているだけなのかもしれない。私はもうすぐいなくなるから。後で気まずくなるようなこともないから。でも、それでもよかった。
このまますべて放り出して、身を任せてしまいたい。私の恐怖も後悔も何もかも、奪ってほしい。

そう思って閉じた瞼の裏に、あの日の叔父の声が蘇った。

『あの家の嫡男に――』

――だめだ、私がそばにいたら。

「や……っ!」

思わず突き出した両手は、いとも簡単に五条先輩の身体を押し返していた。普段だったら絶対にありえないことだ。驚いたように大きく見開かれた青い瞳を見て、呆然とした。

「……ごめんなさ、い」

逃げるようにその場から走り去った。寮の階段を駆け上がって、部屋に入って鍵を閉めて、ドアを背にずるずると蹲る。もう何も考えたくない。このまま透明になって、消えてしまいたかった。

 

高専を去るその日の朝は、憎たらしいほど穏やかに晴れていた。

少ない荷物を取り去っただけの部屋は、それでもずいぶんと広く見えた。私の手元に残ったのは小さなスーツケースと、返しそびれたままのマフラーと、すっかり手に馴染んだ小太刀が一振り。元から誰も住んでなどいなかったようにさっぱりとした部屋を一度だけ振り返って、静かにドアを閉めた。

七海と灰原は昨夜から地方出張に出てしまっていた。実習も兼ねているそうで、本当なら私も一緒に行っていたのだろう。代わりに一昨日の夜、これでもかというほどのお菓子とジュースで盛大に送別会を開いてくれた。
硝子さんには今朝早く、手紙とお礼のプレゼントを渡した。元気で、と短く言って、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「もう準備は済んだのかい?」

寮の階段を降りると、談話室には夏油先輩がいた。

「荷物を運ぶの手伝いに行こうかと思ってたんだが、出遅れてしまったかな」
「ありがとうございます。でもこれだけなので」
「少ないね」

私でも片手で持てる大きさのスーツケースを見て、夏油先輩は驚いていた。女の子はもっといろいろ大変なのかと思ったと苦笑されたけれど、服とかほとんど持ってないので、と返したら妙に納得したようだった。
出発まで少し時間があったので、先輩に促されるまま、並んでソファに腰を下ろした。この大きなソファから見る景色も、これが最後だ。いろんなものを目に焼きつけておきたくてぐるりと視線を巡らせる。色褪せたカーテン。誰かが溢したジュースの染みが残るカーペット。向かい合ってご飯を食べたテーブル。古びた木枠の窓は、風が吹くとカタカタ鳴ってうるさかったな。

いまさら、誰かを恨む気持ちはなかった。そういう家に生まれただけのことだ。そこには私にしかできないことがあって、私が頑張れば救われる人がいる。ここで学んだことだって、きっと活かせる。

「……ねえナマエ」
「はい?」
「非術師を守るために生きるのは、辛くないか」
「……え」

どきりとした。
見上げた横顔は、ぼんやりと窓の外を眺めている。
夏油先輩に家の事情は詳しく話していない。五条先輩が話すとも思えない。なのに心の中をぴたりと言い当てられたようで、咄嗟に返事ができなかった。
まごついている私の様子を察したのか、先輩ははっとしたように口を噤んだ。

「……すまない。知ったようなことを言った」
「い、いえ……」
「詳しいことは聞かないけど、辛くなったらいつでも連絡しておいで。力になるよ」

この話はおしまいとばかりに、分厚い手のひらが私の頭をぽんと優しく撫でる。
きっと、私があんまりしょげた顔をしているから気を遣ってくれたのだ。夏油先輩なら本気で飛んできてくれそうだと思った。平たい呪霊を空飛ぶ絨毯みたいに操っているところを想像して、くすりと笑えた。そうやって笑えた自分を、少しだけ褒めてあげたかった。

きし、と階段が軋む音がしたのはそのときだ。誰か来たのかと振り向こうとしたら、私の頭に乗っていた夏油先輩の手がするりと頬に降りた。

「……ナマエ,少しじっとして」
「え? は、はい」
「ここに何か汚れが」

夏油先輩は乾いた指先で私の横髪を梳いて耳にかけると、露わになったこめかみを覗き込むようにこちらへ顔を近づけた。そんなところに汚れ? 部屋の片付けをしたときに煤でもついたのだろうか。……それにしてもなんだか、距離が近い、ような。

「――傑ッ!!」

突然、矢のように鋭い声が飛んできて、びくりと肩が跳ねた。

「……なんだ、悟も来たのか」

夏油先輩が鷹揚な仕草で顔を上げる。恐る恐る振り返ると、サングラスの向こうで険しく細められた蒼眼と目が合った。いままで見たことのない、燃え立つような強い色をしていた。

「……何してんの」
「ナマエのおでこが汚れてたから、拭いてあげようとしただけだよ。怖い顔しないでくれ」
「……、……別にしてねえよ」
「悟こそどうしたんだ? てっきり今日は昼まで起きてこないつもりかと思ってたよ」
「喉渇いたからジュース取りに来ただけ」

言いながら、五条先輩はふっと顔を背けた。何か声をかける隙もなく、足早に私の後ろを通り過ぎて共有キッチンへ向かう。話しかけるなと言われているみたいで、胸の辺りをぎゅうと握り潰されるような痛みが走った。

「……あの、夏油先輩。汚れって」
「ん? ああごめん、気のせいだったみたいだ」

へらりと笑顔を浮かべた夏油先輩が私から距離を取るのと同時に、冷蔵庫のドアがひどい音を立てて閉まるのが聞こえる。

五条先輩はきっと、私の顔なんて見たくもなかったのだろう。あんな態度を取ってしまったんだから、嫌われても仕方がない。そう思うのに、気を抜くと泣きそうになる自分が情けなかった。

「……あの、五条、先輩」

これで最後にするから、もう一度だけ言葉を交わすことを許してほしい。祈るような想いで、キッチンで背を向けている五条先輩の後ろに立つ。震える喉から声を絞り出した。先輩は振り向いてくれなかったけれど、立ち去ることもしなかった。

「これ、お返しします。……マフラーは、いらなかったら捨ててください」

ずっと渡せなかった紙袋と、いつの間にか自分の一部のようになっていた小太刀を差し出した。
借りたばかりの頃はぴかぴかに真新しかった刀身には、たくさんの傷がついた。鞘の代わりに巻いた帯もずいぶんとくたびれた。武器の構え方も知らなかった私がこんなに戦えるようになったのは、全部、五条先輩のおかげだ。

「……そっちは返さなくていい」

俯いた視界の端から長い指が伸びてきて、紙袋だけを攫っていく。

「……え、で、でも、高価なものなんじゃ」
「それないとお前、ろくに戦えねーじゃん」

おずおずと顔を上げる。鋭く射るようだった眼差しは凪いでいた。何を思っているのかはわからない。ただ、深い海のように静かだった。

「……大切に、します」

手の中に残されたものをぎゅっと握りしめる。
この重みが、あの頃の私とは確かに違うのだと教えてくれる。ここにいた証をくれる。それだけで、もう充分じゃないか。

「私、もう行きます。補助監督さんが駅まで送ってくださるそうなので」
「……ナマエ、」
「最後に会えてよかったです」

何かを言いかけた五条先輩を遮って告げた。それがどんな言葉でも、聞いたらきっと泣いてしまうと思ったから。

「――お世話になりました、五条先輩」

さよならと、ちゃんとまっすぐに言えてよかった。最後にこの人の目に映るときに、笑っていられてよかった。本当は、ずっと好きだったってもう一度伝えたかったけれど、それはあまりにも贅沢だ。

小さなスーツケースと一振りの刀だけを持って、私はその日、高専を出た。
哀しいくらい綺麗に晴れた、春の始まりのような朝のことだった。

 

 

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