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※引き続き夢主の親族が出てきます。夢主や五条さんに対して侮辱的な言葉を吐く描写があります。暗いです。

 

 

五条先輩と顔を合わせなくなってから、二週間が過ぎた。正確に言えば、“顔を合わせないようにし始めてから”二週間だ。
廊下の先で、寮の共有スペースで、任務帰りの車寄せで、先輩の姿を見つけるたびに私は逃げ出した。五条先輩は遠くにいてもうんと目立つから、視線が交わる前に、声をかけられる前にその場を離れるのは、意外と難しくなかった。

(……夢だったらよかったな)

まだお昼を回ったばかりだというのに、ベッドに転がったままちっとも動く気になれない。ちらりと時計を見やった拍子に、机の上に飾ったガラスの瓶が目に入った。白い砂に埋もれながらも艶々と光る桜色の貝殻は、あの日の海辺で拾ったものだった。

どうしてあんなことになったのか、私には何ひとつもわからないままだ。

冷たい海風を遮るようにして私の唇に触れた柔らかな熱。伏せられた長い睫毛。少し掠れた低い声。どれもこれも、頭の中にこびりついて離れない。なのに考えれば考えるほど現実味は薄れていって、代わりに胸が押し潰されるような息苦しさを覚えた。
――声を聞きたい。何も聞きたくない。まっすぐに見つめたい。目を背けていたい。
心はずっとぐちゃぐちゃで、どんな顔をして先輩の前に立てばいいのか、全然わからなくなってしまった。

「……ごじょうせんぱい」

口にすれば、痛みにも似た熱がじわりと全身に広がっていく。
寝返りを打って、枕に強く顔を埋めた。

部屋の片隅に潜ませた紙袋には淡い灰色のマフラーが収まっている。返すタイミングを見失ったまま、あの日からずっと私の手元にあった。

先輩に、会うのが怖い。
『あんなの冗談だよ』って、『特別な意味なんてなかった』って、否定されるのが怖い。そんな風に思ってしまうのはきっと、私が不遜な期待を抱いているからなんだろう。

時計の針が午後一時を指す頃になってようやく私は起き上がり、のろのろとコートを羽織って部屋を出た。休日だというのに寮内に人の気配はない。すんと吸い込んだ空気は痛いくらいに冷たくて、不意に泣きそうになった。

 

「――お久しぶりです。叔父様」

殺風景な部屋に、私の声はひどく大きく響いた。
座敷の最奥、床の間の前に唯一しつらえられた大きなカウチソファに半ば寝そべるようにして、初老の男がこちらを睨んでいた。
古ぼけた畳張りの部屋にはおよそ不釣り合いな深紅のベルベットが、障子越しの僅かな光を集めて鱗のようにぬらぬらと輝く。外国から取り寄せたというその巨大な家具は、男が身じろぎをするたびに藺草の床を容赦なく踏み鳴らし、この部屋を蹂躙する獣のようにも見えた。

「……先日はご挨拶もできず、申し訳ありませんでした」
「挨拶などどうでもいい。学校は順調か?」
「はい……」
「めでたいことだな」

冷たい笑みを含んだ声に、息が詰まる。

久しぶりに足を踏み入れた屋敷の中は、相変わらずぴりぴりとした空気に満ちていた。
母屋の玄関からこの奥座敷へと至る長い廊下を辿っている間もずっと、遠巻きにこちらを窺う幾人もの気配を感じた。ねっとりと絡みつくような、嫌悪と好奇と恐怖の入り混じった視線。それを誰も隠そうとしないのも、ここでは普通のことだ。私も努めていつも通りに、自分の爪先だけを見つめながら足早に歩いた。

この家では、呪術師は忌避の対象だ。
視えないものを視、不可解な力を持って生まれた子供は、幼い頃から隔離して育てられる。そうしていずれ、一族の安全と安寧を守るためだけに当主の名を受け継ぐのだ。そこには権威も敬愛も伴わない。ただ結界を保ち、神事をこなして氏子を集め、あとはひっそりと息を潜めるようにして生きていく。――一生、ここから離れることもなく。

『生まれたときから、そう決まっているのだ』

祖父の声がずっと忘れられない。
術式を持って生まれた者の務めだと祖父は言った。呪いのように繰り返されるその言葉が恐ろしくて、私はいつもぎゅっと目を閉じ口を噤んでやり過ごした。
きっと母も同じ気持ちだったのだ。だから母は――。

「だったらもう充分だろう、学生ごっこは」

突き刺すような声で我に返った。
叔父はひどく無関心な目で私を見ていた。そうしてひとつ短い溜息を落とした後、淡々と、決まりきったことをなぞるだけのような平坦な声で言った。

「随分と我儘を聞いてやったからな。本来なら屋敷から出ることも叶わない身分だ。もう満足しただろう? お前には近々、ここへ戻ってもらう」

唐突に投げられた言葉を受け取り損ねて、私はただ呆然と立ち尽くした。
満足。ここへ戻る。断片的に耳に入ってくる単語の意味を何も理解できないままに口を開けば、やっぱり何の形も成さないような返事しか出てこなかった。

「待っ、てください、それは、どういう」
「何度も言わせるな。お前の縁談がまとまった。来月には籍を入れるよう進めている」
「え……?」

真っ暗な穴に突き落とされるような心地がした。
全身の血がすうっと引いていって、心臓だけが狂ったように脈打っている。一体誰の、何の話なのだろう。縁談なんて一言も聞いたことがない。何かの間違いだと信じたかった。だって、そうじゃなければ。

「き、聞いていません、そんな、急に」
「京都の××家の次男だ。大した家じゃないが、婿に寄越すと言うから受けた」
「叔父様、だって、話が違います……卒業までは自由にしていていいって、それで一級に上がれたら私のこと認めてくださるって、そう仰ったじゃないですか」
「そんな出来もしないことをまだ夢見ていたのか?」

ばさりと乾いた音がして、足元に分厚い封筒が投げつけられた。中から滑り出てきた写真には見知らぬ男の人が写っている。スーツ姿でこちらに向かって微笑む、明らかに私より十は年上の。

「お前ももう十六だろう。早く子を産んで、家の役に立て」
「で、でも、わたし、まだ……っ」
「何のためにお前を養っていると思ってる? たいそうな術式とやらを持ってるのはお前だけなんだぞ? いい加減に自分の役目を理解しろ」
「叔父様、お願いです、話を聞いてください」
「拾ってやった恩を仇で返すつもりか」

冷たい手に心臓を掴まれているようだった。足が竦む。喉が締めつけられる。怖い。この人に見放されたら、この世界に私の帰る場所はなくなってしまう。血の繋がった“家族”も、もう。
縋りつきたい自分と、いますぐに逃げ出したい自分とがせめぎあって、身体がばらばらになってしまいそうだった。

「……さ、祭事のお手伝いは、きちんとします。神社の運営やお金のことにも、口は挟みません、お約束します……! 私はただ、ここから外に出て、もっと」

震える唇からようやっと紡いだ言葉はあまりにも弱々しくて、きっとどこにも届かない。叔父が嘲笑うように鼻を鳴らした。それだけで、私はもう何も言えなくなった。

「……ふん。外、外と、親子揃って言うことは同じだな。お前の母親もそうやって男を作って出て行った」

ぎしりと床を軋ませながら、叔父はゆったりとした足取りで私の目の前までやってきた。決して背が高いわけではないのに、押し潰されそうな圧迫感がある。
五条先輩はもっとずっと大きいのに、隣にいても怖くなかったな。そんな場違いなことが、頭の隅に浮かんで消えた。

「――五条家か?」

弾かれたように顔を上げた。どうしてその名前が出るのだろう。驚いた私の顔が気に食わなかったのか、叔父は俄かに目つきを鋭くして、乱暴に私の胸倉を掴んだ。たたらを踏んだ足元で紙の散らばる音がする。見知らぬ男の人の写真が笑っていた。

「あの偉そうな呪術師どもの家とつるんで、何を企んでいる?」
「……ご、じょう、は、関係ありません……っ」
「知っているぞ。あの家の嫡男に媚を売ってるらしいな。気に入られたか? 妾にしてやるとでも言われたか」
「ちがっ……!」
「それとももう手籠めにされたのか? どうなんだ、言ってみろ」
「やめて、」
「万が一にも五条の子など孕んだら――」
「やめてください!!」

無我夢中で叔父の手を振り払った。シャツのボタンがひとつかふたつ弾け飛んで、小さな音を立てながら薄暗い部屋の奥へと転がっていく。
崩れるようにしてその場に蹲ったまま、もう立ち上がれなかった。

「……もう、やめて、ください……」

心が、剥がれ落ちていく。あんなにもきつく胸に抱きしめていた想いすら、いとも容易く。

耐えられなかった。吐き出される呪詛のひとつひとつが、あの人を穢していくようで。大切な思い出をどす黒く塗り潰していくようで。
もう、どこにも行けなくたっていい。学校も辞める。全部諦めるから。だからせめてこれ以上、私の大事なものを踏み躙らないで。きっと夢を見ていたんだって、そう思うことにするから。頑張っていればいつかすべて叶う、そんな、幸せな、夢。

「……さっさと退学手続きを済ませて戻ってこい。婚姻の手配はこちらで進める」

いつかはこうなるかもしれないって、わかっていたはずだ。ずっと見ないふりをして過ごしてきた。これは、そんな私への罰なのか。

「――呪術師なんぞにこの家を好き勝手されてたまるか。お前はここで、死ぬまでミョウジ家にだけ尽くしていればそれでいい」

苛立たしげな足音が去ると、暗がりに私だけが残った。空っぽの部屋はひどく寒くて、ぎゅっと身体を丸めても震えが止まらない。

祈るように目を閉じれば、いつかの日の降り注ぐような青い眼差しが、無愛想に私の名前を呼ぶ声が、優しく髪を撫でてくれた大きな手のひらの温度が胸を焼く。もう二度と手を伸ばすことは許されない。やっぱりこれは、罰なのだ。

 

 

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