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※五条視点

 

 

辛気臭い場所だと思った。

まだ高専に入学する前のことだ。単独任務に赴いた先で対象の呪霊を早々に祓い終え、送迎車との待ち合わせ場所に向かう途中だった。寂れたバス停の横を通り過ぎたとき、ふと別の気配を感じて足を止めた。
頼りない街灯に照らされた歩道から一歩逸れると、途端に黒々とした背の高い木立が頭上を覆う。見るからに陰気な森だった。湿り気を帯びた地面には真新しい残穢がこびりつき、奥へ向かって点々と続いていた。
先ほど対処した一級呪霊に比べ、大した呪いでないことはすぐにわかった。ぱっと見た感じ二級か、高く見積もっても準一級。雑魚だ。――自分にとっては、だが。

一瞬の損得勘定の後、ひとつ溜息をついてそのまま歩を進めることにした。至極億劫ではあったが、ここで知らぬフリを決め込んだところで、何らか被害が出た後に責任を問われでもすればそれこそ面倒なことになる。隙あらば人の足元を掬ってやろうと待ち構えている人間はどこにでもいるのだ。

果たしてその心配は杞憂ではなかったようで、真っ黒に塗り潰された森の中、いまにも呪霊に捕って食われそうな女を見つけた。
年の頃は自分と大して変わらないように見える。けれど細っこい手足と不安に歪んだ顔はあまりに幼く、弱々しかった。今日ここで呪霊に遭遇しなかったとしても、明日には勝手に霞んで消えてしまうのではないか。そんな考えがよぎるほど、ちっぽけな女だった。

呪霊を吹き飛ばした俺のことを、女は地面に転がったまま呆けたように見上げていた。その手にはくしゃくしゃになった呪符がきつく握りしめられている。すぐそこの木の幹に貼ってあるのと同じ紋が描かれていた。

(……ヘッタクソな結界。こいつが張ったのか)

少しつつけばすぐにでも綻んでしまいそうな、歪な結界。日の暮れた森の中に年端もいかない少女がひとりきり。辺り一帯に漫然と漂うきな臭い空気。それらの事実だけで、碌な環境でないことは容易に察しがつく。

まあ、よくある話だ。往々にして呪術師の家が“こう”なのはいまに始まったことではないし、それをこの女が甘んじて受け入れようがどうだってよかった。だから口をついて出た言葉の中身は労わりでも同情でもなく、純粋な好奇心と呆れと、あとはほんの少しの当て擦りでしかなかった。

『こんなとこいて、楽しいの? お前』

いまになってみればわかる。楽しいはずがないのだ。けれど、そんな意地の悪い問いを放った俺に、女は萎れた花のようだった青白い頬をぱっと紅潮させた。まんまるく見開かれた瞳はみるみるうちに輝きを増していき、まるで初めて夜明けを知ったとでもいうような顔で俺を見た。

ああ、面倒なのに当たってしまった。
なんだか居心地が悪くなって、答えも待たずに冷えた手を捕まえ、近くに見えた屋敷まで半ば強引に連れて行った。何か言われるのも訊かれるのも煩わしかったから、女が振り向く前に姿を消した。

辛気臭い場所で、変な女に会った。たったそれだけのことだったのに、しばらくの間、妙に心の端に引っかかっていた。まっすぐで透明な、じっと見つめられると胸の底がむず痒くなるような彼女の瞳をたびたび思い出した。それは、いままで“五条悟”に向けられたどんな眼差しとも違う色をしていた。

それでも人間の記憶とは不確かなもので、日に日に増えていく任務に忙殺されるうち、その夜の出来事は頭の引き出しの奥底へと沈んでいった。再びあの場所を訪れるまで、忘れたことさえ忘れていた。
だから、まるで気がつかなかったのだ。

『ご、ごじょ、五条先輩! 好きです! 付き合ってください!!』

出会い頭に突拍子もない告白をかましてきた後輩の女のことなど、気にも留めなかった。
五条の家を出て高専に入り、それなりに外部との接触が増えるようになってから、“そういう”目的の輩には飽きるほど出くわしてきた。
家柄に目が眩んだヤツ。見てくれを何よりも優先するヤツ。単に好奇心丸出しのヤツ。そのどれであっても、無視するか適当に利用してやっているうちに、大抵は向こうから勝手に離れていった。あいつもきっと、そんな大勢の中のひとりで終わるのだと思っていた。

――いつからだろう。手放したくないと思うようになってしまったのは。

どんなに転がしても性懲りもなく近寄ってくる愚直さとか。いっそ痛々しいくらいにあけすけな恋心とか。そのくせ平気な顔で“好きな男”の部屋に上がり込もうとするような無防備さとか。
目が離せない。ころころと楽しそうに笑う声も、涙をいっぱいに溜めた丸い瞳も、躊躇いがちに服の裾を引く指先も、何もかも、自分だけのものにしたい。

そんな風に考える自分を、もう誤魔化せないところまで来てしまった。

 

「……あー……」

自室のベッドに寝転がって天井を仰げば、ぼやきとも溜息ともつかないような半端な声が漏れた。

積み重なった任務がようやく片づき、久しぶりにゆっくり休む時間ができた。なのにと言うべきか、だからこそと言うべきか、頭の中を占めるのはくだらない考えばかりだ。
瞼を閉じれば、考えたくなくても勝手に蘇ってくる。馬鹿みたいに晴れ渡った冬空と、真っ青な海原。水面を照らす光。触れた唇の温度まで。

間違えた。完全に。
したくなかったと言えば嘘になる。けれどあまりにも順番がおかしかったことくらいは、いくら俺でも自覚している。何せ相手はナマエだ。ちょっと手を握っただけで沸騰するんじゃないかと思うくらい真っ赤になるようなヤツだ。しくじったと言うほかない。どうせ初めてだったんだろうし……、……いやアレで初めてじゃないほうが驚きだ。

(どうすっかな……)

あの日から一ヶ月が経とうとしていた。その間、ナマエとは顔を合わせてもいなければ、メールの一通すら交わしていない。俺が任務続きでその機会がなかったせいもあるが、高専内で姿を見かけても、こちらから近づく前にするするとどこかへ行ってしまうのだ。まるで。

「……くっそ、避けてんじゃねーよ」

舌打ちとともに携帯をバチンと閉じる。
当然のように連絡は来ていない。くっそ。なんで俺がこんなに気を揉まなきゃなんねーんだ。次に見かけたら問答無用で追いかけて、捕まえて、胸の内を洗いざらい吐かせてやる。それから。

「――悟、帰ってるのか?」

こつこつと部屋の扉を叩く音に思考を中断された。俺が逆の立場なら問答無用でドアを開け放つところを、いちいち律儀にノックしてくるのが傑だ。起き上がるのも面倒で「開いてる」とだけ告げれば、蝶番の軋む音と共に見慣れた黒髪が現れる。任務帰りの制服姿のままだ。

「これ、明日の任務の資料。渡しておけって担任から頼まれた」
「あー、さんきゅ」

別に夕飯のときでもよかったのに。寝転んだまま紙の束を受け取り、読むともなしにぱらぱらとページを捲る。また弾丸日帰り出張かよ。だりーな。
用事が済んだはずの傑は、なぜかいつまでもベッド脇に突っ立っていた。訝しく思って「なに?」と尋ねると、珍しく少し口籠った後で「ナマエには会った?」と訊き返された。頭の中を読まれたわけでもないのに、妙に落ち着かなくなる。

「……いや?」
「……その様子だと、悟にも話していないのか」
「何がだよ」

海での一件以降、なんとなく俺たちの様子が変わったことには傑も気がついているようだった。けれどお互いに詳しく話すことも、掘り下げて尋ねることもしていない。ここでナマエの名前が出るということは、本人から何か聞いたか? 『五条先輩に無理やりキスされました』って? ……まあ間違ってはないけど。

「……私もさっき偶然、小耳に挟んだだけなんだが」

いずれにせよ、やけに神妙な傑の表情を見る限り、少なくとも俺にとって喜ばしい話ではなさそうだ。『相手の同意もなくそういうことを云々』と説教でも垂らされたらどう言い返すか、鈍い思考を巡らせる。

だが、傑の重たげな口から出てきた言葉は、そんなものよりも遥かに強い力で俺の頭を殴った。

「――ナマエが、高専を辞めるらしい」

 

 

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