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ミョウジの神社の敷地内、本殿を中心とした半径一キロメートルほどの範囲に、五角形に張り巡らされた結界がある。本殿に祀る御神体と一族の人間を守るため、古くから受け継がれてきたものだった。結界を支える五本の御神木に呪力を込めた呪符を貼り、祝詞を捧げて構築する。結界術の基本的な手法のひとつであったが、祖父が亡くなって以降、一族の中でこれを扱える者は、もう私しかいなかった。

「先輩、お待たせしました」
「ん」

最後の一箇所を終え、ふうと息をつく。呪符に込めた呪力が尽きるころ、また張り直しに来なくてはならない。半年後か、もって一年後か。それまでは、ここに来ることもきっとないだろう。
五条先輩は少し離れた場所から私の作業を眺めていた。天頂から西に傾き始めた日の光が木々の隙間から零れ落ち、白い髪を瞬かせる。この暗い森の中で唯一、美しいと思える光景だった。

「お前、いつもひとりでこれやってんの?」
「あ、はい、そうです」
「……いつから?」
「祖父が亡くなってからなので……ちょうど四年前くらいでしょうか」

初めてひとりでこの森に入ったのも、こんな風に寒い冬の日だった。
祖父がいなくなり、結界はそこかしこが緩み始めていた。何度か目にしただけの手順を思い起こしながら、時には綻びから入り込んだ蠅頭を払い除けながらの作業は遅々として進まず、気がつけば辺りはすっかり暗くなっていた。
――怖気が立つほどの大きな気配を感じたのは、ようやく最後の呪符を貼り終えたときだった。

「……あの。先輩は、もう覚えてないかもしれないんです、けど」

ちょうど、いま五条先輩が立っている辺り。あの日、自分の背丈より何倍も大きな呪霊の姿を前にして、一歩も動けなくなってしまった私が倒れ込んだ場所だった。いまにして思えば、おそらく二級程度の呪霊だったと思う。けれど真っ暗な森の中で、たったひとりで、大した力も持たなかった私には、それが死神のように見えた。
助けに来てくれる人はいない。私が消えて喜ぶ人はいても、心配してくれる人も、悲しんでくれる人も、きっといない。だったらもう、ここで死んだっていいとさえ思った。
その人が現れるまでは。

突然、強い風が起こって、私に襲いかかろうとしていた呪霊が横様に吹き飛んでいった。呪霊がいた場所には背の高い男の子の後ろ姿があった。月光にも似た白銀の髪が踊るように揺れるのを、私は呆然と見上げていた。振り返ったその瞳ははっとするほど深く澄んで、目が合った瞬間、刺し貫かれたように息が止まった。

『――こんなとこいて、楽しいの? お前』

胸を揺さぶられるようだった。そんな風に訊かれたのは初めてのことだった。いつだって私の居場所は選ぶ前から決まっていて、与えられた場所で与えられた役割を全うすることでしか、私は存在できないのだと思っていた。
私が何かを答える前に、男の子は私の手を取って屋敷まで連れて帰ってくれた。玄関先で振り返ったときには、もう彼の姿は幻のように消えていた。その日の夜は、眠れなかった。

「なんっか見覚えあるんだよな、このへん」

記憶の中よりも一段と低い声で、はっと我に返る。五条先輩はしきりに首を捻りながら、目を眇めて周囲を見渡していた。

「……え?」
「そのヘタクソな呪符の貼り方とかさー」

私の隣にやってくると、先輩は貼り終えたばかりの呪符をそっと指先で撫でた。
あのとき見たのと同じように、けれどもっと高いところで、白い髪が風に揺れる。

「……先、輩。私、四年前にここで、白い髪の男の子に助けてもらったんです」
「は?」
「いつか、ちゃんとお礼を言いたいと思ってて。でもずっと言い出せなくて」

勝手な期待だという自覚はあった。でも、覚えていない、人違いだと言われるのが怖くて、躊躇ってしまった。吹けば飛ぶような儚い、一瞬の夢みたいな記憶。ずっと忘れられなくて、ふとしたときに取り出して眺めては、ただひとつの道しるべのように大事に抱え続けてきた思い出。
あの男の子は、やっぱり。

「五条先輩。……あのときは本当に、本当にありがとうございました。先輩に出会ったから私、頑張ってみようって思えたんです。ここから外に出て、自分の意志で生きてみようって」

五条先輩は目を丸くして私を見ていた。きっと先輩はあのときの私のことなんて覚えていないだろう。痩せっぽちで、背だっていまよりもっと低くて、力も弱かった。そんな私でも、五条悟の背中を追いかけてここまで走って来られた。命を救ってもらったことだけじゃない。もっともっと大切なものを、私にくれた。

「――もう一度、会えてよかった」

胸の内で、何かがすとんと落ちたような気がした。ああ、やっと言えた。感謝の言葉なんていままで何回も伝えてきたけれど、今日のはやっぱり、特別だ。

「……そーゆーのって普通さあ、最初に会ったときに言うもんじゃねーの」
「だって先輩、私の話ちっとも聞いてくれなかったじゃないですか」
「お前がいきなり公開告白するからじゃん」
「そっ……の節は、すみません、でした……」
「声ちっさ」

まだあの話するんだ。耳を塞ぎたい気持ちで身を竦めていると、先輩は何か言いたげにこちらへ視線を寄越した。からかわれるものと思ったのに、その目を見つめ返す前にふいっと顔を逸らされる。「……卒業したら」ぽつりと呟くように、先輩が言った。

「またここに戻ってくんの?」
「……そう、ですね……まだわからないです。でも」

私にとって、“家”と呼べる場所はもうここしか残っていない。それを捨ててしまう勇気が私にはまだなかった。
頑張っていれば、いつか誰かが私を認めてくれるかもしれない。そんな淡い幻想を抱いていないといえば嘘になる。今度こそみんなを守れるくらいに強くなれたら、叔父も叔母も私を私として受け入れてくれるんじゃないか。そうしたら、この家が自分の居場所なんだって、胸を張って言えるようになるんじゃないか、なんて。
それに、私がいなくなったら誰がこの結界を守るのだろう。それがあるからこそ、私はここに引き取ってもらえたのだ。

取り留めもないことを考えていると、真上から先輩の手のひらが降りてきた。ぽん、ぽん、と子供をあやすようなリズムで私の頭を撫でる。いつもみたいに髪を掻き混ぜるような乱暴な触れ方じゃない。それが嬉しいような、少し切ないような、不思議な心地がして胸がぎゅっと締めつけられた。

「まだ時間あるし、どっか寄ってくか」
「えっ」
「せっかくこんなとこまで来て、ババアの小間使いだけじゃ腹立つだろ」
「ば、ばば……」
「……どこでもいーよ。お前の行きたいとこ」

言われて、真っ先に思いつく場所があった。窓からしか見たことのなかった景色。いまの時期はまだ寒いかもしれないと思いながら、気がつけば口を開いていた。

「……海」
「は?」
「海、見たいです」

 

「――うわあ!」

バスを降りると、目の前にはもう海岸が広がっていた。びゅうと吹きつける風は冷たく、湿った潮の香りを孕んでいる。行き交う車が途切れるのを待って道路を渡り、コンクリートの階段を降りれば、足元でじゃりじゃりと砂が鳴った。

「さっむ!」
「寒いです!」
「なんで真冬に海なんだよ!」
「どこでもいいって先輩が言いました!」
「言ったけどさあ……」
「一度来てみたかったんです、海!」

潮風に暴れる髪を押さえつけて振り返れば、先輩はマフラーの中に隠れるように首を竦めて、いまにも舌打ちをしそうな顔でだらだらと歩いていた。そんな顔でもついて来てくれるんだからやっぱり五条先輩は優しい。なんだか嬉しくなって思いきり駆け出すと、「走るな!」と後ろから声が飛んできた。構わずに波打ち際まで走り抜ける。
ずっと遠くまで、澄んだ青が続いていた。午後の日差しを受けて水面がきらきらと輝く。見渡す限り私たち以外には誰もいなくて、穏やかな波の音と、五条先輩が砂浜をゆっくりと歩いてくる足音だけが聞こえた。

「すごい! おっきーい! きらきらしてます!」
「テンション上がりすぎだろ……」
「あっ、先輩見てください! わかめ!」
「おーそりゃよかったな」
「これ食べれますか?」
「やめとけ」

せっかく拾い上げた海藻はすぐさま海へと投げ返され、波間に消えていく。ラーメンに入れたら美味しいかと思ったのに。私の考えを見透かしたように、隣で先輩が大きな溜息をついた。

「……すごい。綺麗ですねえ」

冬空の色を溶かし込んだような海はよく凪いで、小波がいくつも白い花を咲かせていた。さらさら、ざざん。静かに響く潮騒は子守唄のように優しい。耳を傾けていると、胸の底にわだかまった暗い気持ちまで攫っていってくれるような気がした。

「……五条先輩」
「なに、寒いから帰る?」
「違いますよ」
「じゃあなんだよ」
「……やっぱり内緒です」
「はあ?」
「あっ! 綺麗な貝殻!」
「だから走るなって、」

引き止めようとする手を振りきって再び駆け出した。楽しくて、嬉しくて、なのにどうしようもなく胸が詰まった。余計なことを、言ってしまいそうだった。

綺麗なものを見ると泣きたくなるって本当だ。きっと余計なものが全部洗い流されて、まっさらな感情だけが残るからだ。剥き出しになった心に、潮風が沁みるからだ。

息が切れるほど走り続けていたら、足が縺れて派手に倒れ込んだ。真冬の砂浜に四つ這いになったまま、自分の浅い呼吸を聞いていた。ぎゅっと目を閉じると、眦から丸い雫がふたつ、ぽたりぽたりと落ちて砂地に吸い込まれていった。

「――勝手にどっか行くなって言ったろ」

ざくざくと近づいてきた足音が止まり、大きな手が私の身体を一息に抱え上げる。あんまり簡単に浮くものだから、そのまま空に飛び立てるような気がした。ブーツの両足はぶらりと宙を舞って、それからゆっくり砂の上に着地した。
振り返れば、高く晴れた青い空を背負って五条先輩が立っていた。海面に反射した光に白い髪が瞬いて、眩しくて目を細めた。

「……へへ」
「ああ? なに笑ってんだよ」
「すみません、なんか、楽しく、て」

こんなにも胸が苦しいのは、走ったせいだと思いたかった。
この人のことが好きだ。もうどうにもならないのだ。どんなに押し込めたって、何度でも返す波のようにずっとずっと消えてくれなかった。きっとこの先いつになっても私は思い出すだろう。今日の空よりも海よりも深く澄んだ青い瞳や、大きくてあたたかい手のひらや、心地よく鼓膜を震わす低い声を、忘れられる日なんて来ないのだろう。例えばいつか、こんな風にそばにいられなくなってしまったとしても。
それが切なくて愛おしくて、いっぱいに溜まってしまった涙が零れないように、私は精一杯に笑った。

「……変なヤツ」
「わっ、ぷ」

おもむろに、五条先輩がマフラーを外して私の首にぐるぐると巻きつけた。柔らかな熱が、海風に晒された私の頬を温める。痺れるような香水と、少しの汗のにおい。思わず息を呑んだ私の顔に、五条先輩はサングラスを引っかけた。視界が真っ暗になる。

「――ナマエ」

呼ばれて顔を上げるより早く、マフラーごと引き寄せられた。黒いレンズ越しに、大きな影が降りてくるのが見えた。

「せん、――」

唇に、何かが触れた。
ずり落ちたサングラスの向こうで、白い睫毛がふわりと伏せられている。瞬きをしたら触れてしまいそうなほどの距離だった。それがゆっくりと持ち上がって、青い瞳と視線が絡まって、先輩の顔が離れていっ、て。

「――へ、?」
「……帰るぞ」

鼻先からするりとサングラスを抜き取られる。五条先輩が私の手首を掴んで歩き出す。
帰りのバスの中でも、電車に乗っても、高専に着いてからも、先輩は一言も喋らなかった。

打ち寄せる波の音だけがずっと、耳鳴りのように頭から離れなかった。

 

 

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