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※夢主の親族、家事情などがいろいろ出てきます。
※夢主の親族が夢主や五条さんに対して侮辱的な言葉を吐く描写があります。
※捏造設定多め。

 

 

都心から電車を乗り継いで一時間と少し。そこからバスで数十分。降り立ったバス停のすぐそばから、鬱蒼とした鎮守の森が続く。
周囲に民家は少なく、時折通る自動車のエンジン音以外、辺りはひっそりとしていた。苔に隠されるように佇む細い石造りの階段をしばらく上って行った先に、私の母の生家がある。
その家は代々続く神社の家系だった。もっとも呪術師を何人も輩出するほどの力はなく、ただ世間一般の人間よりも多少“視える”者が生まれやすいだけの、呪術界と一般社会の狭間に位置するような家だった。

両親が亡くなってすぐ、私は母方の祖父に引き取られてこの家にやってきた。祖父は寡黙な人だった。最低限の術式の扱いや体術を教えてくれる他はほとんど喋らず、食事を共にした記憶も数えるほどしかない。私は母屋から隔てられた離れでひとり、ひっそりと過ごすことが多かった。
祖父について、よく覚えていることがひとつだけある。暇に任せて読み漁った祖父の本から得た知識で、初めて結界術を使ったとき、それは子供の手遊びじみて拙い代物だったが、一度だけ頭を撫でてくれた。長い年月をかけて少しずつ丸みを帯びた流木のような、あたたかくて乾いた手のひらだった。その祖父も、私が中学に上がる少し前に亡くなった。

両親が死んだときと同じで、私の処遇については親族の中でそれなりに揉めたようだった。一族のうち大半の人間は呪霊の姿も視えない非術師だったから、前当主の祖父よりも強い力を持つ私のことを、みな気味悪がって遠ざけようとした。

「――だから、私を養子に迎えてくれた叔父夫婦には感謝してるんです」

石段を上りながら、隣を歩く五条先輩に話しかける。先輩は相変わらず関心がなさそうだったけれど、ここまで来てもらった手前、何も説明しないというのも失礼な気がした。
頭上を覆い尽くす常緑樹の葉が午後の日差しをまだらに切り取り、私たちの足元に歪な模様の影を落とす。昼日中でもこの森は薄暗い。子供の頃は、迷い込んだら二度と帰れなくなるような気がして、ひどく恐ろしかった。

「感謝ねえ」
「……いい人たちなんです。高専に入ることだって許してくれましたし」
「だったらもっとマシな顔すれば?」
「んあ」

先輩の指が伸びてきて、私の鼻をきゅっと摘まんだ。痛い。鼻が取れそう。ふがふがと抗議する私に先輩は意地悪く笑うと、また前を向いて歩き始める。私は寒風にかじかんだ指で、形を確かめるようにそうっと鼻の頭を撫でた。

「ていうか五条先輩、ここまで来ていただかなくてもよかったんですよ……?」
「ポンコツの親戚がどんな顔してるか見てみたいじゃん」
「わ、悪口」

“近くまで”と言っていたはずの五条先輩は、電車を乗り換えても、バスから降りても、一向に帰る素振りを見せなかった。それどころか岐路に差しかかるたびに「次どっち?」と訊ねてきては、私が答えるや否や先に立って進み始めるので、解散するタイミングをすっかり見失ってしまったのだった。

「……見ても面白くないですよ、きっと」
「別に面白さ求めてねーよ。暇潰しだっつの」

面白くない暇潰しなんてあるんですか。喉まで出かかった言葉は、小さな溜息に変えて吐き出した。
高専の石段に比べればだいぶ緩やかな道のりのはずなのに、一歩進むごとにどんどん足が重たくなっていく。早く、帰りたいな。十年近くを過ごしたこの場所よりも高専のほうが恋しく感じるなんて、私は薄情だろうか。

「さっさと済ませて帰るぞ」

五条先輩の手がぽすんと頭に乗る。それでほんの少しだけ、顔を上げることができた。

 

石段を上りきると、正面に朱色の鳥居が建っている。久しぶりに目にしたそれは記憶の中よりもくすんだ色をしていた。玉砂利の敷かれた境内は静かで、参拝者の姿もない。市街の中心部から離れた立地と、辺り一面を取り囲む深い森の存在によって、普段から外部の来訪者は少なかった。閉ざされた箱庭のような空気に、きゅっと息が詰まる。

「わりとでかい神社じゃん」
「そうですね、この辺りでは一番大きいかもしれないです。まず敷地が広いので……」
「ふーん」
「私、用事済ませて来ますね。先輩はここに、」
「――ナマエちゃん? 遅かったじゃないの」

不意に甲高い声がした。奥の屋敷から続く小道伝いに、細身の女性がこちらへ歩いてくるのが見える。無意識のうちに全身に力が入った。鳥居のところに五条先輩を残し、足早に歩み寄る。

「叔母様。……ご無沙汰しています」
「あら、少し見ないうちに大人っぽくなったのね」

女性――叔母は私の頭から爪先までを一瞥して、ゆるりと目を細めて微笑んだ。この人の舐めるような視線が苦手だった。その目が私の背後に向くのがわかり、ひやりと背筋が冷たくなる。遮るように視界に割り込んだ私に対し、叔母は俄かに眉を顰めた。

「あの方は?」
「が、学校の、先輩です」
「……いつからお休みの日に男の人と出かけるようになったのかしら」
「今日は、たまたま……私が電車に乗り慣れていないので、送ってくださって、それで」
「そう」
「あの、ご用事ってなんでしょうか?」

早く切り上げて用件を聞いてしまわなければ。つとめて明るく問いかけたにも関わらず、叔母は私のことなど見もしなかった。眉間に皺を寄せたままで、じっと五条先輩を見つめる目は冷ややかだ。「叔母様」呼ぶ声が震えそうになる。ようやくこちらを向いた叔母の口から出てきた言葉は、果たして私の望むようなものではなかった。

「……ねえあなた。まさか、寮でいかがわしいことされてないでしょうね?」
「え……?」

その意味をすぐに理解することができなかった。この人が何の話をしているのかわからない。何も答えられずにいるのを肯定と取ったのか、叔母はさらに表情を険しくして大きく溜息をついた。

「……はあ。だから嫌だったのよ、全寮制の共学なんて」
「ま、待ってください、何か勘違いを」
「仮にもミョウジ家の名を背負っているんだから、ふしだらなことはよしてちょうだい」

頭を殴られたような心地がした。
嫌な汗が一気に噴き出して、鼓動が早くなる。
嫁入り前の娘がはしたない。何のために学校に行かせてあげたと思ってるの。これだから呪術師って、倫理観が。
次々と浴びせられる言葉に、眩暈がしそうだった。どうして、どうしてそんなことが言えるのだろう。高専のことを、私たちのことを――五条先輩のことを、何も知らないで。

「あの人は、そんな人じゃありません!」
「……やだ、あなたもしかして」

思わず声を荒げた私を見て、叔母は驚いたように目を丸くした。それが瞬く間に憐れみの色を帯びていく。いたたまれなくて、唇を噛んで俯いた。握りしめた拳を叔母の生ぬるい手が包み込む。頭の中が煮えるようにぐらぐらして、吐き気がした。

「やめておきなさい。あなたみたいな地味な子、本気で相手にされると思ってるの?」
「……っ、」
「可哀想に。心配しなくていいのよ、時期が来たらあなたにもちゃんと然るべき伴侶を用意してあげますから」

――伝わらない。何も。
頭は破裂しそうなほどに熱いのに、指先からどんどん冷えていく。
この会話の一片でも五条先輩の耳に届いていないことを祈った。恥ずかしくて、情けなくて、でも何ひとつ言葉が出てこない。

「ああそうだ。今日は結界の張り直しをお願いね。終わったら帰っていいわ。また用事ができたら連絡するから」
「……は、い」

ナマエちゃんも、困ったことがあったらなんでも言いなさいね。元気づけるように私の肩に手を置いて、叔母は足早に去って行った。石畳を踏み鳴らす細いヒールの足音が鐘のように響いて、目の前がちかちかした。
昔から、こうだった。わかってもらいたくて手を伸ばして、必死に言葉を探して、けれど一度だって届いたことはなかった。仕方のないことだ。ここでは私は厄介者だし、自分の気持ちを伝えるのさえ下手くそで、だから諦めて飲み込んでしまうほうが楽だった。ずっとそうやって過ごしてきたツケなのかもしれない。……でも、それでも。

「――“いい人”、ね」

ふわりと頭を撫でられた。
身体の中で膨らんで目一杯に張り詰めていた何かが、しゅるしゅると形を失っていく。は、と短く吐き出した息は白く濁って、冬風に攫われて掻き消えた。

「……先輩、ごめんなさい」
「別に。ああいう嫌味なババアってどこにでもいるだろ。てかよく聞こえなかったし」
「……ごめんなさい……」
「だから、」

瞬きをしたら、ぽろりと一粒、涙が転がり落ちた。いまごろになって泣けてくるなんて、つくづく私は格好悪い。

「……泣くようなことじゃねーだろ」

乾いた親指が強引に私の眦を拭っていく。
――それでも、この人のことだけは、あんな風に言わせたくなかった。

 

 

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