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映画館を出た私たちは、昼食を摂るために駅前のファストフード店に入っていた。五条先輩には先に席を取りに行ってもらい、私はレジカウンターに並ぶ。ひとりになれたことに、心のどこかでほっとしていた。

ここへ来るまでの間、私は感想のひとつも言えていなかった。当たり前だ、後半のストーリーをまるで覚えていないのだから。がらんどうになった私の頭の中にあるものといったら、暗がりの中で感じた先輩の手のひらの温度だけだった。

あれは、怖がりの私を安心させるためにやってくれたことだ。わかっているのに不遜な気持ちを抱いてしまう自分が嫌だった。口を開けばちぐはぐな相槌ばかりで気の利いた一言も出てこないし、隣を歩いていてもまともに目を合わせることすらできなかった。『お前なんかと来るんじゃなかった』って顔をされたらと思うと、怖かった。

(……五条先輩、つまんないと思ってるだろうな)

何気なく吐き出した溜息も重く濁っている。取り繕うようにお洒落をしたって、中身まで変えられるわけじゃない。どこまでいっても私はただ背伸びをしただけのガキンチョのままで、魔法みたいに可愛い女の子になれるわけでも、話し上手になれるわけでもなかった。

「――お兄さん、おひとりですかあ?」

レジで商品を受け取って五条先輩の元へ戻ろうとしたとき、鈴を転がすような声がして私は足を止めた。

「超イケメンですね~! 大学生?」
「……あー、連れいるんで」

私からはテーブル席に座っている五条先輩の後頭部しか見えなくて、ただめんどくさそうに答える声だけが聞こえる。
先輩に声をかけているのは、二十代前半くらいの女性二人組だった。これは俗に言う逆ナン、というやつだろうか。ふわふわに巻かれた茶色い髪や、曲線の綺麗な身体のシルエット、溌溂とした笑顔。五条先輩は関心がなさそうに携帯を弄っているけれど、女性たちは気にする素振りもなく話しかけ続ける。

心臓が嫌な音を立てた。

「じゃあお友達も一緒に、みんなで遊びません?」「私たちこれからカラオケ行くんですけど」弾んだ声が重なり合って、ずしん、と頭の奥に響く。

――嫌だな、あそこに入っていくの。
トレーを持つ手にぎゅっと力がこもる。このまま、違う席に座っちゃおうかな。どうせあと一時間もしないうちに、私はここを出なきゃいけないし。ああいう綺麗でお喋り上手な人たちといたほうが、先輩も楽しいんじゃないのかな。だいたい、私なんか最初からオマケみたいなもので、いてもいなくても。

「ナマエ」

何かを探すようにくるりと視線を巡らせた五条先輩が、こちらに気がついて声を上げた。ああ、もうだめだ。じりじりと後退りを始めていた足をどうにか動かし、席に近づく。
女性たちは大きな瞳をきょとんと丸くして私を見ていた。目が合う。どうしよう。何か、言わないと。

「……あ、あの」

口を開いたはいいものの、言葉が続かなかった。五条先輩のほうを窺っても、私の位置からでは座っている先輩の表情は見えない。
この人は、私の先輩で。一緒に映画を観に来てて。だから、……だから? だから、なんだっていうんだろう。

「えっ、かわいー! 妹さん? 中学生?」
「……え、」
「お兄ちゃんとあんまり似てないんだね〜! なんか、綺麗系と可愛い系? みたいな」
「ちが、あの、私」
「ねえねえ、よかったら妹さんも一緒に」

女性たちが親しげな笑顔を私に向ける。
そっか。妹、かあ。妙に納得するのと同時に、ずきん、と胸に痛みが走る。ここは妹ってことにしておいたほうが、丸く収まる、かな。

「――遅かったじゃん。待ちくたびれた」

ぐい、と身体を引っ張られた。
トレーに乗った飲み物が揺れ、しゃらしゃらと氷の音を響かせる。女性たちが驚いたように目を見開くのが見える。五条先輩の腕が私の腰に回、る。

「……で、妹がなんだっけ?」

すぐ耳元で低い声がする。私の身体をぴたりと抱き寄せ、頬ずりでもしそうなほどこちらに顔を寄せて、五条先輩は静かな声で言った。女性たちは呆気に取られた後、ごめんね、と気まずそうに告げて離れていく。
あまりのことに、私は息を止めたまま一歩も動けなかった。少しでも呼吸をすれば、きっとその息遣いのひとつまで先輩の耳に届いてしまう。それくらい近くに、五条先輩の顔があった。

「……勝手にどっか行こうとすんなよ」

ぱっと手を離された瞬間、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。一拍遅れて、心臓が思い出したようにどくどくと大きく脈打ち始める。

なに、何、いまの。

覚束ない足で向かいの席に辿り着き、座る。椅子を引く音がやらたとうるさく聞こえる。
スカートの裾を握りしめて俯いたまま、顔を上げられなかった。いま自分がどんな顔をしているかわからない。五条先輩の顔も、見られない。

「……お前さ」
「……」
「俺がああいうのに声掛けられて嫌じゃねーの」
「……」
「……ナマエ」
「……わ、わかんな」

嘘だ。本当はわかってる。わからないことにしたかった。何も考えたくなかった。ずっとぎりぎりのところで持ち堪えていた何かがぷつんと切れて、自分の身体が内側からばらばらに壊れていくような心地がした。必死に掻き集めて繋ぎ止めようとしても、もう元に戻らない。

「……なんつー顔してんだよ」
「え……?」
「耳まで真っ赤」
「っ、」

全身が沸騰したかのように熱を持つ。咄嗟に両腕で顔を覆ったけれど、手遅れだ。

「……ちが、ご、ごめんなさ……っ」

――どうしよう、全部バレてしまう。こんな惨めな劣等感も、汚い嫉妬心も、まだ五条先輩を好きなことも、全部、見られてしまう。
五条先輩はどんな気持ちであんなことをするのだろう。私が先輩のことを好きだから、特別に捉えすぎてしまうだけなんだろうか。手を握ったり、抱き寄せたり、誰にでも同じようにするんだろうか。私じゃなくても、硝子さんでも……知らない誰かでも?

おもむろに、五条先輩の手が私の腕を掴んだ。抵抗したくても、震える手にはちっとも力が入らない。先輩の手のひらが、さっきよりもずっとずっと熱く感じた。

「ナマエ」
「ち、ちがうんです、わたし」

その手で他の誰にも触れてほしくない。触れられてほしくない。そんなことを思う自分に愕然とする。
ただそばにいられるならそれでいいって、確かに思ったはずだった。なのに結局のところ私はずっと、心の底でこんなにも欲深い気持ちを抱え続けていたのだ。本当に馬鹿みたいだ。浅ましい。恥ずかしい。消えてしまいたい。

「――なあ」

五条先輩が口を開いたとき、私の鞄の中で携帯が鈍く震えた。すみません、と掠れる喉でどうにか告げて、逃げるように席を立つ。椅子の脚に爪先を引っ掛けてひどい音がした。でも、とても振り返ることなんてできなかった。

 

「電話、誰から?」

電話を終えて席に戻ると、五条先輩が短く訊ねてきた。すでに食事を済ませたようで、くしゃくしゃに丸められたハンバーガーの包み紙がいくつもテーブルに転がっている。
向かいに腰を下ろすと、先輩と目が合った。さっきのことを訊かれるかと思ったけれど、何も言われなかった。

「えと、家から、でした」

電話の相手は実家にいる叔母だった。予定の時間にはまだだいぶ余裕があるのだけれど、あの人たちにとって私の都合など始めからないに等しい。
いまからあそこへ行くのだと思うと、足元から暗い沼へ沈み込んでいくような気持ちになる。振り払うように、無理やりに口角を上げた。

「早く来いって催促されてしまって」
「ずいぶんせっかちなんだな」
「ひ、久しぶりなので、たぶん、ゆっくり話したいのかも」
「……ふうん」

五条先輩の指が包み紙をころころと弄ぶ。
先輩は表情も口調もいつも通りに見えた。やっぱり、私が気にしすぎてしまっただけなのかもしれない。きっと先輩にとっては大したことではなかったのだ。それはそうか。五条先輩が私に特別な感情を抱くなんて、あるわけが、ないし。

「……五条先輩、あの」
「なに」
「……、……あの」

ふと、あのとき先輩は何を言おうとしたんだろうと思った。あのまま電話が鳴らなかったら、私が席を立たなかったら、どうなっていたんだろう。
そこまで考えて、小さく頭を振った。どう転んでいたとしても、いい結果になどなるはずがない。このまま、うやむやに終わったほうが。

「……えと、今日はありがとうございました。私、あの、都心の大きい映画館って初めてで。挙動不審だったかもしれないですけど、気にしないでくださ」

い。言いかけた唇の先に、ハンバーガーの包みが突きつけられる。すっかり冷めてしまった、てりやきチキンバーガー。

「……え、っと」
「飯食う時間くらいあるだろ」
「え、はい、じゃあ先輩は先に」
「待っててやるから食えよ」

ぽとり。思わず差し出した手のひらにハンバーガーが落ちてくる。

「……どうせこの後も暇だし。近くまで付き合う」

言って、五条先輩は読みかけの映画のパンフレットを取り出して捲り始めた。ぱらぱら、ぱら。一瞬、音が止んだ合間に、ちらと視線を上げた青い瞳がサングラスの隙間から覗く。

「お前、ほっといたら電車乗り過ごしそうだし」
「……だ、大丈夫ですよ。それくらい」
「その割には不安そうな顔してるけど?」

前髪をくしゃりと撫でられ、息が詰まる。早く食えよと促されるまま、どうにか包みに指をかけた。
あんなにも身の千切れるような思いをしたのに、それでもまだ一緒にいられて嬉しいなんて思ってしまう私は、本当に救いようのない馬鹿だ。

 

 

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