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「硝子さあん……」
「うん」
「わた、わたし、変じゃないですか……?」
「情けない声出さない」
「だって〜……」
「ほら口閉じて」
「んん」

むうっと結んだ唇に、硝子さんが慣れた手つきで何かを塗りつける。リップクリームとは違うねっとりとした感触のそれがなんだか気持ち悪くて、すぐにでも舐め取りたくなるのを必死に我慢した。
「はい、できた」と手渡された鏡を覗き込めば、可哀想になるくらい緊張した面持ちの見慣れた顔が現れる。目を覆いたい気分だった。頬と唇を彩る淡いピンク色も、青褪めた肌の上ではすべて台無しだ。

「おーかわいーかわいー」
「絶対思ってないですよね!?」
「思ってるって……ふわあ」

大きく開けた口を申し訳程度に手のひらで覆い、硝子さんはいかにも眠たそうな欠伸を漏らした。昨日も遅くまで急患の治療に当たっていたらしいのに、こうして朝っぱらから私の身支度に付き合ってくれているのだ。おろしたてのサックスブルーのワンピースも、少し背伸びをしたレザーのブーツも、この日のためにわざわざ一緒に選んでもらったものだった。

「めっちゃ緊張してんのウケるね」
「硝子さんがデートなんて言うから……」
「デートだろうが任務だろうが、ただ一緒に出かけるってだけでしょ」
「全然違いますよ!」

だいたい、私はともかく五条先輩はデートだなんて露ほども思っていないだろう。みんなの都合がつかなかったから消去法で私になったというだけで、別に私じゃなくても、むしろ他の誰かのほうが、先輩にとってはきっとよかったに違いない。
そこまで考えて、途端に気分が重くなる。だとしたらこんな風にお洒落をしてひとりで浮かれている私は、ちょっとまずいんじゃなかろうか。意識しすぎって思われたらどうしよう。そもそもこの服、似合ってるのかな。メイク浮いてない? 髪型これでいい? ……ああ、もう何もわからない。

「……やっぱり制服にしようかな……」
「いまさら何言ってんの。せっかく私が見立ててあげたんだからちゃんと着な」

ほら襟乱れてる、と硝子さんは私のよれた襟元を正してくれる。

「……硝子さん」
「なに?」
「いまから一瞬でスタイル良くなる方法ってないですか……?」
「観念しろ」
「だって、」

硝子さんは小さく息をついて、ごねる私の頭の上にそっと手を置いた。そのまま優しい仕草で髪を撫で、緩く巻いた毛先まで指を滑らせる。ヘアアレンジなどろくにできもしない不器用な私が、硝子さんに手伝ってもらってやっと完成させたハーフアップ。後ろの編み込みが崩れていないか気になり、何回も手をやってしまう。そんな私と目を合わせ、確かめるようにひとつ頷いた硝子さんは、ふにゃりと口元をゆるめて微笑んだ。

「……うん。かわい」

ありがとうございます、と蚊の鳴くような声で返すのが精一杯だった。なんだかふわふわと落ち着かないのは、たぶん緊張のためだけではない。
――例えば、もし、今日の相手が私じゃなくて硝子さんだったら、五条先輩は。
そんなことを考えてしまう、自分の弱虫のせいだった。

 

土曜日の朝の寮は静かで、ただでさえ騒がしい心臓の音が余計に大きく響くようだった。
玄関へと向かう足取りはのろのろと重たい。五条先輩とはついこの間、一緒に買い出しに出かけたばかりなのに、そのときとはまったくわけが違った。それもこれも全部、‟デート”だなんてたいそうな名前が頭にこびりついてしまったせいだ。たったそれだけのことで、服も髪型も、階段を下りる足音ひとつさえも、いつもと同じではいられない。

(ただ映画を観るだけ。それだけだから……)

こんなに緊張していたら、余計に変に思われてしまう。普段通りにしようと自分に言い聞かせ、最後の一段を下りきったときだった。

「やーっと来た」

談話室の壁に凭れた五条先輩が目に入り、私の頭は完全に思考を止めてしまった。長い脚をさらに強調するようなスキニーパンツとラフなジャケット。どちらもシンプルだけれど、だからこそスタイルの良さが際立つ。ここだけブランドの広告かな、と錯覚してしまうくらい、格好いい。
その姿だけで、もう胸がいっぱいだというのに。大きな一歩で距離を詰めてきた先輩にたまらなくなり、ぎゅうと目をつむって俯いた。

「……ほっ、本日は、お招きにあずかりまして、まことに」
「来るの遅……ってかなんで目ぇ瞑ってんだよ」
「ちょっと直視できないので……っ!」
「はあ?」

うっすらと目を開けて見上げれば、これでもかと怪訝そうに眉根を寄せた五条先輩がいる。でも、どうにも普段通りになどできそうになかった。

だって、気づいてしまったのだ。先輩の白い首元を覆っている、それは。

「……つーかお前、そういう服も持ってたんだな」
「へ、変ですか!?」
「別に……たまにはいーんじゃねえの」

いっつもだせえジャージだしな、なんて悪態をついたその口元を、長い指に引っ張り上げられた灰色が覆い隠す。春の曇り空と同じ色をしたそのマフラーにどうしようもなく顔が火照って、私は先輩の後ろをついて歩きながら、しばらくまともに口も利けなかった。

 

まだ朝の時間帯だというのに、都心の映画館は多くの人で賑わっていた。ショッピングビルと一体になった大きなシネコンで、話題作がいくつも同時に上映されているからだろう。周りはきらきらにお洒落をした若い人が多く、なんだか気後れしてしまう。

慣れない格好をしているせいなのか、今日はいつにも増してうまく振る舞えなかった。駅の階段で躓くし、改札では残高不足で引っかかってしまうし、どうってことないような会話にもちぐはぐな受け答えをしてしまって、変な沈黙が流れたりした。
その度に五条先輩が少し困った風で口を噤んでしまうのも、いたたまれなかった。いつもみたいに馬鹿にして、からかってくれたほうがまだよかったかもしれない。率直に言って、泣きたい気分だった。

「――ほら。落とすなよ」
「あ、ありがとうございます。あの、お金を」
「傑の奢りだっつったろ」

カウンターでポップコーンと飲み物を買っている間も、周囲の視線が五条先輩に集まっているのがわかる。お会計を先輩に任せて列から離れるとき、大学生くらいの綺麗なお姉さんたちが「ねえ声かけてみる?」とはしゃいだ声で囁き合っているのが聞こえてしまった。

私と五条先輩が並んでいても、きっとカップルに間違われることはないだろう。せいぜい兄妹、もしかしたらただ偶然に隣に立っているだけの赤の他人と思われているかもしれない。だって、ちっとも楽しそうに見えないだろうし。

(……もし、私が)

五条先輩に釣り合うような、大人っぽくて綺麗な女の子だったら、先輩の隣でも自然に笑えたのだろうか。そうしたら、先輩ももっと楽しく過ごせただろうか。そう思うと、鉛を飲み込んだみたいに胸の底が重くなる。

五条先輩に楽しんでもらいたい、笑ってもらいたいと思うのに、空回るばかりでどうしたらいいのかわからない。それどころかまともに会話すらできない、私は。

「ナマエ」
「うあ!? はい!」

急に名前を呼ばれ、片手に持ったポップコーンのカップを思いきり握りしめてしまった。弾みで黄色い粒がひとつ、ころころと床に転がり落ちる。キャラメルを纏ったそれはすぐさま五条先輩の指に摘まみ上げられ、あっという間に無下限に押し潰されて消えた。目の前にいた私にしか見えないくらいの早業だった。

「いや緊張しすぎだろ」
「緊張!? し、してないです!!」
「嘘ヘタクソかよ」

おもむろに、たったいまポップコーンを消し去ったのと同じ手が額に向かって伸びてくる。思わず首を竦めたけれど、その指先は思いのほか柔らかい仕草で私の頭にそっと触れただけだった。

「……そんな怖いならやめるか?」
「え」
「そーいやホラー苦手だったじゃん、呪術師のくせに」

そこでようやく、今日観る予定の映画が『全米を恐怖の渦に陥れた』と謳われるパニックホラーだったことを思い出す。
いまからでも違うやつ取るか、と踵を返そうとする先輩の服の裾を慌てて掴んだ。だめだ、今日は五条先輩の観たい映画を観るためにここに来てるのに。

「こ、怖くないです! 大丈夫です! 楽しみすぎて茫然としてました!」
「……」
「緊張して見えるのは、その、こういうの慣れてないからってだけで……あっ、こういうのって別に変な意味じゃなくて、つまり、なんというか、デ」

は、と口を噤んだ。

「……で?」
「で、で……、……」
「……、……」
「……んむっ!?」
「……怖くて食えなくなる前に食っとけ」

ぱくぱくと開け閉めを繰り返していた口に、ポップコーンを一掴み放り込まれる。五条先輩の手で一掴み。おかげで幸か不幸か、喋るどころではなくなってしまった。両頬いっぱいに詰まったそれを懸命に咀嚼する私を見下ろして、先輩は「リスみてー」とおかしそうに笑った。
熱を帯びた頬を隠すために、ポップコーンを噛んでいるふりをして下を向く。履き慣れないブーツの爪先が少し痛んだ。

……これはデートじゃない。デートじゃないんだ。

 

劇場内に入ってから、五条先輩は買ったばかりのパンフレットを熱心に読み込んでいた。先に読むかと訊かれたけれど、最新のCG技術がどうの、特殊メイクがどうの、オマージュがどうのといった、映画に詳しくない人間にはいまいちピンとこない内容だったので丁重にお断りし、私は手持ち無沙汰に任せてポップコーンをちまちまと摘んでいた。

ちらりと盗み見た横顔は、ジュースのストローを弄ぶように甘噛みしながら、監督インタビューのページに視線を走らせている。伏せられた長い睫毛の先を追っていたら、なんとなく目が離せなくなった。
綺麗な色。雪みたい。触れたら融けてしまいそう。

「……何?」

不意に青い瞳が振り向いた。しまった。私の視線、うるさいんだった。

「……あ、えっと」
「飲む?」
「えっ」
「コーラ」

ん、と差し出された紙コップをまじまじと見つめてしまう。黄色と白のしましまのストローがぴょんと跳ねてこちらを向いた。思わず口を近づけようとして、はたと気がつく。
……これ、いわゆる、間接キス、ってやつになってしまうのでは。

「……だ、大丈夫、です。オレンジジュース、あるので」
「……あっそ」

あっさり離れていったストローは、再び五条先輩の口元へと収まる。
ぱらり。パンフレットのページを捲る音がした。しばらくして開演のブザーが鳴るまで、私はポップコーンの山とずっと睨めっこをしていた。

映画が始まってしまえば、無理やりにでも意識をそちらへ集中させることができた。変なことを口走る心配も、赤くなった顔を見られる心配もないのはありがたかった。
さすが全米で話題になったというだけあって緻密な脚本が面白く、気がつくと夢中でスクリーンの中の主人公を追っている。時折、劇場内のそこかしこで息を呑む音が聞こえた。じりじりと焼けつくような緊迫感のあるストーリーが続いていた。

五条先輩との間にある肘掛けを掴んだのは無意識だった。主人公の背後からゆらりと近づいてくる影に気がついて、思わず身体が強張ってしまったのだ。
何回も言うけど別に怖いわけじゃない。ちょっとびっくりしただけだ。誰にともなく言い訳をしながらも、肘掛けを強く握ったまま離すことができない。張り詰めた空気に耐えきれず身じろぎをすると、シートがぎしりと軋んだ。

「――え、」

それは、画面の中で主人公が悲鳴を上げるのとほとんど同時だった。
肘掛けに置いた私の手を上から包み込むように、温かい手のひらが重なった。
五条先輩はまっすぐにスクリーンを見つめたままだった。夏の終わり、談話室で映画を観たときに触れ合った指先とは違う。手を引き抜こうとすれば、宥めるようにゆるく力を込められ、動けなくなった。

その後のストーリーはまるで覚えていない。
エンドロールが終わるまで、ふたつの手は微動だにせず重なっていた。場内が明るくなるのと同時に、先輩の手だけが蜃気楼のようにするりと離れていく。急速に冷えていく指先に、微かな甘い痺れを残して。

喘ぐように息を吸った。劇場を出るまでに、どうにかして普通に戻らなければいけない。なのに頭の中はぐちゃぐちゃで、震える手を必死に握りしめることしかできなかった。

すっかり氷の融けたオレンジジュースには結局、一度も口をつけることがなかった。

 

 

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