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「はあ!? なんでだよ!」

午後の体術訓練を終え、同期ふたりと共に寮に戻ってきたときだった。

「だから、出張が入ったって言ってるじゃないか」
「休暇申請してたじゃん」
「緊急性の高い任務なんだ。私が行かないなら悟が行くことになるけど」
「……」

談話室の前を通りかかったところで、私たちは揃って歩みを止めた。隣の七海はあからさまに眉を顰めている。知らんぷりをしてすぐにでも立ち去りたいという顔だ。「じゃあチケットどうすんだよ」「誰か他に誘ったら?」というやり取りが聞こえたとき、するすると逃げるようにこちらへ寄ってくる硝子さんと目が合った。

「何かあったんです……?」
「知らん。映画の前売り券がどうとか」
「硝子ォ! お前行くだろ!?」

ソファに身体を投げ出した五条先輩が首をもたげて振り向いた。どうやら、次の土曜日が期限の映画の前売り券が余ってしまったらしい。会話の矛先を向けられた硝子さんは、七海にも引けを取らない見事な顰めっ面で溜息をつく。めんどくせえ、と顔に大きく書いてあった。

「パス」
「は? なんで」
「興味ないし、クズと出かけるほど暇じゃないし、何よりアンタといると雑誌だのなんだのっていちいち声かけられるからダルい」
「光栄の間違いだろ」
「冗談は睫毛の量だけにしろよ」
「いーじゃん、ポップコーン代も傑の奢りだって」
「こら悟、また勝手に」
「いらね~」

すげなく断られ、はあ~? と頬を膨らませる五条先輩は駄々っ子のようだ。けれどそんな表情すら絵になるのだから、ひとたび街に出たら衆目を集めることは間違いない。
五条先輩と硝子さんが並んで歩いているところを想像してみる。ふたりとも綺麗だし、すらっとして手足も長いし、確かにそのまま雑誌の表紙を飾ってもなんの違和感もなさそうだ。それこそモデルさん同士のカップルみたいに、きっとお似合いのふたりになるだろう。

(……カップル。カップルかあ)

素敵だな、という憧れの気持ちの裏で、ほんの少しだけ痛みが走る。勝手に膨らませた想像を消し去るべく、自分の頬をぺしんと叩いた。

「じゃあもう七海でいーや」
「遠慮します」
「ポップコー、」
「結構です」
「……じゃあ灰原」
「すみません! 自分、映画は可愛い女の子と観たいので!」
「よーし決めた。お前らにはもう二度とジュース奢ってやんねえ」

左右から間髪入れず飛び出してきた断り文句に舌を巻く。ふたりとも秒速で断るんだからすごい。灰原に至っては、満面の笑みで身も蓋もないことを言っている。半ば感心しつつぼけっと眺めていると、忌々しげに舌打ちをした五条先輩の視線がするりと動いて、私のほうを向いて止まった。ばっちりと目が合う。うん?

「…………行く?」
「へ」

あまりにも予想外で、間抜けな声しか出なかった。慌てて右を見て、左を見て、そうしてようやくそれが自分に向けられた言葉なのだと理解する。

「……え、私ですか!?」
「もう他にいねえじゃん」

嫌なら別にいいけど、と付け足され、ふいっとそっぽを向いてしまった横顔を咄嗟に引き止めたくなる。嫌なわけがなかった。本当なら二つ返事でついていくところだ、けれど。

「……す、みません。土曜日は、予定が」
「……は?」
「あっはははウケる、五条振られてやんの~」
「黙れ硝子」

クッソなんなんだよどいつもこいつも、と悪態をつきながら、五条先輩は勢いよくソファから起き上がった。靴底が苛立たしげに床を踏み鳴らす音がしたかと思うと、そこからたったの三歩で先輩は私の目の前に立っていた。視界があっという間に制服の黒一色に染まる。まるで巨大な塗り壁だった。思わず後ずさりしたら、すぐに同じだけ距離を詰められる。

「何、予定って」

見上げた青い瞳は明らかな棘を孕んでいた。頭のてっぺんから爪先まで、ひゅっと血の気が引いていく。そんなに怒らせてしまうとは思ってもいなかった。

「いや、あの」
「俺の誘いを断るからにはさぞ大事な予定なんだよな? なあ?」
「ひ、待っ、頭掴まないでくださ」
「悟。みんなに断られてショックだからってナマエに当たるんじゃない」
「こいつに断られんのが一番腹立つんだけど」
「ちが、ちがうんです」
「へえ。何が違うのか言ってみろよ」
「実家に、実家に呼ばれてて……!」
「……実家?」

何が違うのかは自分でもよくわからないまま、どうにか釈明の言葉を口にする。言い訳をするなと余計に怒られるかとも思ったけれど、意外にも私の頭を鷲掴みにしていた先輩の手からはふっと力が抜けた。

「……実家って、盆も正月もスルーのあの実家?」
「は、はい……なにか用事が、あるみたいで、それで……」

ふうん、と気の抜けたような声とともに頭が解放される。先輩はまだ不機嫌そうに唇を結んでいるけれど、さっき見せたような怒気はもう消えていて、ほっと胸を撫で下ろした。五条先輩と出かけるのが嫌なわけじゃないって、きちんと伝わっただろうか。

「……映画、行きたかったです……」

また誘ってください、なんて図々しいことは言えない。けれど、こればかりは仕方のないことだった。あの家に私が呼ばれるのは、私が必要なときだけだ。何をおいても、行かなければならない。

「それ何時から?」

てっきり話はそれで終わりだと思っていたから、さらに質問が返ってきて驚いた。五条先輩は片手で携帯を操作しながら私の答えを待っている。それ、というのは実家に帰る用事のことだろう。

「十五時頃に向こうに着くように行く予定ですけど……」
「お前の実家ってここから二時間ちょいだっけ」
「はい」
「午前の回観てからでも間に合うじゃん」
「そう……ですね……?」

話がよく飲み込めない。ぽかんとしていると、長い指におでこを弾かれた。五条先輩のデコピン、地味に痛い。

「じゃあ、土曜朝イチな」
「え」

傑、ゲームしよーぜ。額を両手で押さえる私を置き去りに、背の高い影がふたつ、颯爽と通り過ぎていく。後ろから硝子さんが内緒話でもするみたいに私の耳元に唇を寄せて、ふ、と小さく笑った。

「デートじゃん。よかったね」
「で」

デート。

 

 

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