34

カチャリ。

「……うん?」

自室の扉を開けようとして、違和感に動きを止めた。
五条先輩と夕食をとった後、お風呂を済ませて部屋に戻ってきたところだった。冷えた真鍮のドアレバーに手を掛けたまま、私は首を捻った。鍵は開けたはずなのに扉が開かない。もう一度、さっきよりゆっくりとレバーを押し下げる。途中で何かに引っかかる感触があり、レバーは先ほどと同じく半端な位置で止まってしまった。

もしかして、錠が回りきっていないのだろうか。以前から建てつけが悪いとは思っていたけれど、そろそろ本格的に修理を頼まなくてはいけないかもしれない。お正月明け、用務員さんに相談しようかな。
そう考えている間にも濡れた髪から冷たい雫が首筋に落ち、背中がぞわりと粟立った。寒い。早く部屋に入りたい。肩を竦めながら、ハーフパンツのポケットから再び鍵を取り出す。鍵穴に差し込み、捻る。……回らない。

「……あ、あれー……?」

なんだか嫌な予感がした。ガチャガチャ、ガチャン。焦る気持ちのままに二回、三回、四回とレバーを上下させては引っ張るが、固く閉じた扉は一向に開く気配がない。

「……嘘でしょ?」

――鍵、壊れた。
呆然と立ち尽くす私を嘲笑うように、遠くの空で除夜の鐘がひとつ、鳴り響いた。

 

五条先輩とふたりだけの小さな宴会は、寮の共有スペースの片隅で執り行われた。
まるでお祭りみたいに楽しい時間だった。テーブルに乗り切らないくらいのご馳走と、テレビから聞こえてくる華やかな歌合戦の声。思わず一緒に口ずさんでは「ヘタクソ」と笑われたり、先輩がいろんなジュースをブレンドした“大晦日スペシャル”なるものを飲まされたり――いやこれはあんまりいい思い出にはならなそうだけれど、あとは夏油先輩や硝子さん、七海に灰原と順番に電話をかけてはお喋りしたりもした。

二十二時を過ぎた頃、共有スペースの空調が切れるタイミングでお開きとなり、「よいお年を」と少し照れくさい挨拶をして、それぞれ部屋に戻った。私は散らかしっぱなしだった掃除用具を片づけ、いまだふわふわと夢の中にいるような心地のまま、お風呂セットを携えて共同浴場へ向かった。およそ一時間前のことだ。そこまでは、よかった。

――どうしよう。
しんと冷えた寮の廊下を右往左往しながら、私は胸元のお風呂カゴをぎゅうと抱きしめた。
夢見心地はもう遥か彼方だ。目の前には五条先輩の部屋があった。ノックするべきか否か。意を決して拳を持ち上げては下ろし、を先ほどから何回も繰り返している。

私の部屋のドアはどうあっても開いてくれそうになかった。叩いたり捻ったり押したり引いたり撫でたり、思いつく限りのあらゆる手段を講じてみたところでまるで効果がない。無情なまでに頑なであった。
かろうじて持ち合わせていた携帯で用務員室に電話をかけてみたが、当然のことながら今日この時間に誰かがいるはずはなく。まさか勝手に外部の鍵屋さんを招き入れるわけにもいかない。詰みである。

何もこんな日に壊れなくたっていいじゃないか。こんな真冬でなかったら、談話室のソファで一夜を明かすくらいどうってことないのに。床から昇ってくる冷気に思わず腿を擦り合わせる。すぐに部屋に戻るつもりでTシャツにハーフパンツしか身に着けてこなかったのも悪かった。浮かれすぎて天罰が下ったのだろうか。

考えれば考えるほど、自分が不甲斐なくなってくる。やっぱり、こんなことで五条先輩を頼るのはよそう。今日だけでも数えきれないくらいお世話になったのだ。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思って、踵を返したときだった。

ぴろりろりーん。

あんまりにもタイミングが悪かった。胸に提げた携帯から間の抜けた音が鳴り響いた。たった一秒足らずのその電子音が、静まり返った廊下に幾重にもこだまする。慌てて抑え込んだところで後の祭りだ。

「――は? ナマエ?」

背後から声がかかり、私はその場で飛び上がった。ぐぎぎと音がしそうな首をどうにか動かしてゆっくりと振り返る。言うまでもなく、その部屋の主が呆けた顔でこちらを見下ろしていた。

「……こ、こんばんは……」
「……何やってんの」
「……あの、あのですね、これは」

なんと説明すればいいのだろう。部屋の鍵が壊れました。寝る場所がありません。服を貸してください。ついでにドライヤーも。何からどう伝えても先輩にとって厄介事でしかないのは明白で、けれどこんな姿を晒してしまった以上、何事もなかったように立ち去ることもできない。
えっと、その、あの、と口籠る私に痺れを切らしたのか、先輩は部屋の中を顎で指して苦々しげに言った。

「……とりあえず、入れば?」

 

「どうも大変ありがとうございました……」

床に三つ指をついて礼をする機会なんてそうそうない。きっちりと揃えた私の膝の横には、先ほどまで身に着けていたTシャツとハーフパンツ、そして私の髪をすっかり乾かしてくれたドライヤーが置かれていた。温風って素晴らしい。しかもマイナスイオンの出るいいやつである。なるほど五条先輩のふわふわさらさらの髪は、このドライヤーによって作られているようだった。

「お前どんだけ間が悪いんだよほんと」
「すみません……」
「俺がいなかったらどうしてたわけ?」
「先輩がいなかったら……? ど、どうしましょう」
「いや知らねーよ」

職員寮行けば誰かいるんじゃねーの、と五条先輩はつまらなそうに言って、ふいっとそっぽを向いてしまった。完全に呆れられている。それもそうか。鍵が壊れたのは不可抗力にせよ、深夜にとんだご迷惑をおかけしたことには変わりないのだ。先輩はベッドに腰掛けて長い脚を組み、何もない壁をじっと睨んでいた。さっきから目も合わせてくれない。

ごめんなさい、と再び頭を下げた拍子に、ぶかぶかのトレーナーの肩がずり落ちる。五条先輩がクローゼットから引っ張りだしてくれたのは一年生の頃に着ていたというスウェットの上下で、いまはもうサイズが合わないらしいが、それでも私には相当大きかった。袖も裾も三回ずつ折り返しているのに、まだ丈が余ってしまう。ウエストは紐を絞って調節できたけれど、着古されて伸びきった襟ぐりだけはどうしようもなかった。

「先輩、一年生の頃からこんなに大きかったんですね……」
「……お前やっぱこっち座れよ」
「え? いいですよ私は床で、」
「いいから!」
「ハイすみません!」

苛ついたような声に思わず肩を竦める。先輩は一瞬、口を噤んだ後で、「……そこ、座られてると邪魔なんだよ」と気まずそうに付け足した。気を遣わせてしまっている。いたたまれなくなり、私はさっと荷物を持って立ち上がった。

「あの、私、大丈夫です。もうお暇しますので」
「どこ行く気だよ」
「談話室で寝ます……」
「はあ? また風邪引きたいの?」
「そ、それか、職員寮で誰かに泊めてもらいます」
「誰かって」
「先生か……いなかったら、申し訳ないですけど、顔馴染みの補助監督さんとか……あ、仮眠室使わせてもらえるかもしれないですし」
「……」

そうだ、最初からそうすればよかった。職員寮に行けば仮眠用のベッドが二つある。男女共用だし、どちらか一方は空いているだろう。

「……今日は当直の術師が使ってんだろ、仮眠室」
「でもきっと片方は空いてるので。服は明日ちゃんとお洗濯してお返、」
「相手が男だったらどうすんの」
「え? ……それは、まあ、男女共用なので……?」

相手が男性でも女性でも、事情を話して使わせてもらうしかない。少なくとも、誰かの部屋に無理やり泊めてもらうよりは遥かにましな気がした。

「……あーもー」

仮眠室どこだったっけ、と職員寮の内部を思い浮かべた私のつむじに巨大な溜息が落ちてくる。五条先輩は頭の後ろをがしがしと搔きながら、苦虫を嚙み潰したような渋い顔をしていた。

「いいからここいろよ」
「え」
「お前みたいな蹴られても起きなさそうなやつは『仮眠』って言わねーの」
「……でも、五条先輩にご迷惑が」
「いまさらだろ」
「う、」
「わかったらお前はベッドの上。座ってろ。壁際から動くな。息もすんな」
「息は無理なんじゃ……いえなんでもないです」

なけなしの抗議の言葉は、先輩の一睨みで呆気なく霧散した。捲し立てられるままに広いベッドの上で膝を抱える。壁にぴったりと背中をつけて、できるだけ小さく身体を縮めた。息を止めるのは無理だけれど、申し訳程度に両手で口元を覆う。余った袖口からはよく知った匂いがして、不謹慎にも鼓動が速くなるのを抑えられなかった。

五条先輩はベッドを背もたれにして床に座り、テレビのリモコンを弄っていた。夕食のときに見ていた歌合戦はすでに幕を閉じ、いまは除夜の鐘をBGMにした厳かな番組が流れている。その鐘の音がひとつ鳴り終わるのも待たず、先輩はチャンネルを変えた。今度は賑やかなお笑い番組。その次はニュース番組。グルメ。クイズ。旅。カチャカチャというリモコンの音に合わせて忙しなく画面が切り替わる。私はただ黙って、ぶつ切りの映像をひたすらに見送った。

結局、ほぼすべての局を行き来して、最終的にお笑い番組に落ち着いたようだった。誰かのギャグでスタジオが爆笑しているけれど、先輩の後頭部はひとつも揺れない。お互いに一言も発さず、笑いもせず、なぜこの番組を見ているのかもわからないまま、原色が弾けるような底抜けに明るい音だけが延々と部屋を満たしていく。

「……飲み物取ってくる」

しばらくして、五条先輩がようやく口を開いた。こんなにも騒がしい音で溢れているのに、静かなその声がやけに大きく響いて聞こえて、反射的に身体が動いてしまう。息を潜めることに疲れたせいもあった。

「あ、それなら――」

私が行きます、と立ち上がろうとしたときだった。余った裾を思い切り踏んづけ、ベッドの上でバランスを崩した。足元が柔らかいせいでうまく身を躱すことができない。ちょうど同じように腰を浮かせかけていた五条先輩が、こちらを振り向いて目を見開くのが見えた。

「馬ッ鹿……!」

ああ、今日はつくづく間が悪い。一年の締め括りがこれなんて、なんだか自分の鈍臭さを象徴しているようだ。顔面から床に打ちつけられるのを覚悟し、固く目をつむった。
けれど、予想に反して衝撃はほとんどやって来なかった。恐る恐る瞼を開けば、床板の代わりに黒いスウェットを着た体躯が見える。私の身体は、五条先輩の胸にしっかりと抱き止められていた。

「え、」
「おま、ふっざけんなよほんと……!」
「! ご、ごめ、ごめんなさ、」
「だから動くなっつった――」

慌てて起き上がろうと顔を上げ、息を呑んだ。すぐ鼻先、吐息さえ触れてしまいそうなところに、五条先輩の顔がある。私の下敷きになった拍子に外れてしまったのであろうサングラスが先輩の胸元から転がり落ち、カシャンと小さな音を立てるのを遠くに聞いた。
透き通った青い瞳から目を逸らせない。早くどかなければ。どうにか身体を持ち上げようと身じろぎをしたら、腰に回っている先輩の手がそれをぐっと抑えつけた。なんで。うごけ、ない。

「ごじょ、先輩……?」

絞り出した声が掠れている。自分のものじゃないみたいに弱々しかった。顔が熱い。胸が苦しい。どうして、だめだ、涙、出そう。

「――っ、ナマエ」

先輩が苦しげにぎゅっと目を細めた、瞬間。

『――ハッピーニューイヤー!』

陽気な声と派手なファンファーレがテレビから飛び出して、はっと我に返った。ハッピーニューイヤー。あけましておめでとう。様々な音色の祝福の声が洪水のように流れてくる。

「あ……年、明け、っ!?」

思わずテレビのほうに向けた視界がぐるんと回った。瞬きひとつのうちに、私の身体はベッドの上に投げ出されていた。ぽいっとゴミ袋でも放るみたいな軽さでもって、五条先輩が私を投げたのだ。間髪入れずに上から降ってきた布団に押し潰される。可愛げの欠片もない悲鳴が漏れた。

「ぶッ、え、え!?」
「あーーーもうお前二度とそこから下りんなこっち来んな一瞬でも床に足つけたら潰す」
「そ、」
「潰す」

有無を言わさない口調だった。そのまま先輩は背を向けて座り込んでしまって、私は慣れないベッドの上でシーツを握りしめることしかできない。
……どうしよう。怒らせてしまった。

「っ、先輩」
「……言っとくけど、別に怒ってねーからな」
「う、うそ」
「嘘じゃねーし」

胡坐をかいた膝の上で頬杖をついて、先輩が低く呟く。ちらりとこちらを見た瞳はほんの少し揺らいでいて、でも怒気は含んでいなかった。「……だろ?」「はい……」布団の隙間から顔を出した私を一瞥すると、五条先輩はおもむろに立ち上がり、開きっぱなしだったクローゼットからブランケットを取り出した。そのままクッションを枕に床に横たわるのでぎょっとする。まさかそこで寝る、とか?

「だ、だめです!」
「はあ? 何が」
「床で寝るなら私が、」
「いーから大人しくしてろ」
「でも」
「……頼むから言うこと聞けって」

幼い子を諭すように言われ、口を噤む。そんな風に切実な声を聞いてしまえばもう何も言い返せっこない。大人しく布団に潜り込んだ私を見届けて、五条先輩はほっとしたように背を向けた。

「……寒かったり、身体痛かったりしたら、言ってくださいね」
「言ってどうすんだよ」
「交代します」
「だから、」
「ど、どうしてもだめって言うなら、嫌かもしれないですけど、一緒に布団入ってください……」
「……マジでもう黙って寝ろ」

テレビが消え、ついで蛍光灯の明かりが消えた。月も星もない夜、目を閉じれば、ぼうっと光る淡い青色が瞼の裏を焼く。
柔らかなシーツに鼻先まで埋もれて、すんと息を吸った。……五条先輩の匂い。どきどきするのに、ひどく安心する。抱き止められたとき触れた肌が、火傷みたいにじくじくと、いつまでも熱を持っていた。

 

翌朝、目覚めると五条先輩はもういなかった。
『蹴られても起きない』なんて言われたときには心外だと思ったけれど、部屋の主が出かけたことにも気づかず眠りこけていたのでは反論の余地もない。
充電が残り少なくなった携帯には、実家に呼び出されたから帰るという旨のメールが届いていた。

『雑煮、あとで食うから取っといて』

ふと思い出して付け足されたかのような一行を何度も読み返し、布団を出る。開け放たれたカーテンの向こうには、足跡ひとつなくまっさらな雪景色が広がっていた。

 

 

>> 35


これは一睡もできないまま夜通しゲーム(消音)していた五条先輩です。