33

ぴろりん。
軽快な音が鳴って、私は窓拭きの手を止めた。黒ずんだ雑巾を片手に持ったまま、もう片方の手で机の上の携帯を取り上げる。

『買い出し行くから五分後に玄関』

届いたばかりのメールは、ずいぶんと簡潔なものだった。差出人の名前を見なくてもすぐにわかる。これは遅れたらやばいやつ。すぐさま雑巾を放り出し、部屋の簡易キッチンで手をすすいだ。
下側三分の二だけが綺麗になった掃き出し窓からは、だんだんと濃紺に呑まれつつある夕方の空が見える。あとで脚立を借りてこようかと考えた後で、そんなものがなくても軽々と上まで届いてしまいそうな大きな背中を思い浮かべ、慌てて頭を振った。

夏油先輩も帰ってしまうと、いよいよ寮の中は静かだった。大掃除をしようと思い立った理由の半分くらいは、静かすぎて落ち着かなかったからだ。ふとした瞬間、五条先輩は何してるかな、なんて考えてしまって、とてもじゃないけれどじっとしてなどいられなかった。大晦日だというのに雑念まみれの私は、せめて部屋くらい綺麗にしておかなければ歳神様にも呆れられてしまいそうな気がした。

慌ただしく支度を整え、申し訳程度に髪を梳かして、五分きっかりで部屋を出る。玄関にはすでに五条先輩が待っていた。「おっそ」と不機嫌そうにのたまう先輩は、スウェットの上に厚手のパーカーしか羽織っていない。防寒に防寒を重ねた自分の格好がおかしいのかと一瞬疑いたくなった。

「先輩、寒くないんですか?」
「お前とは鍛え方が違うんだよ」
「そうなんだ……うわ寒い寒い寒い」

先輩が扉を開けると、冷たい空気が一気に流れ込んできた。やっぱり寒い。五条先輩は平気な顔ですたすたと歩いていってしまう。筋肉量が多いから体温も高いのかな。私ももっと鍛えたら寒くなくなるだろうか。すんと鼻を啜り上げたら湿った匂いがして、雪の気配を感じた。

「雪、降りますかねえ」
「そういや天気予報でそんなこと言ってたな」
「積もったらみんなで雪合戦とかしたいです」
「お前すぐ死にそー」
「あっ、五条先輩の後ろにいれば当たらないのでは」
「なんで味方前提だよ。やるならバトルロイヤルに決まってんじゃん」
「え」
「ちなみに俺は真っ先にお前狙うから」
「なんでですか!?」

ぴゅうぴゅうと吹きつける風に首を竦めながら、高専の石段を下っていく。私はいつもより少しだけ早足で、五条先輩はたぶん、少しだけゆっくりと。

「なんか買いたいもんある?」

しばらく歩いて大通りに出る頃、先輩が言った。そういえばどこに向かっているんだろうと尋ねてみると、最寄りのスーパーマーケットの名前が返ってくる。ついでに、お前さあ、という溜息混じりの言葉も。

「行き先もわかんないでついて来てんの? そんなだからすぐ誘拐されんだよ」
「さ、されてないですし、いつの話ですか!」
「いつもだろ」

いつもじゃない。夏の一回きりだ……たぶん。

「馬鹿みたいに他人に懐くなよ」
「……他人じゃなくて五条先輩だから大丈夫、です」

憮然として呟けば、少し先を行く先輩がちらりと振り返る。私だって誰彼構わずついて行くわけじゃないのだ。寮に残ってくれて嬉しいのも、たった五分で部屋を飛び出してきたのも全部、五条先輩だからなのに。それなのに『他人』なんて言われるのはちょっとだけ、寂しい気がした。

「……そんで、買いたいものは?」

先輩がほんの一瞬、足を止める。私が追いつくのを待って再び歩き始めた足取りは、さっきよりもさらに緩やかだ。その腕に肩が触れそうになり、私はそっと半歩分の距離を取った。

「買いたいもの……あ、ティッシュが切れそうなのでほしいです。あと窓拭きの洗剤が終わっちゃったのでそれと、歯磨き粉と」
「そうじゃなくてさあ」
「はい?」
「……だから、大晦日じゃん。食いたいもんとかねーの?」

――あ、本当に晩ご飯、一緒に食べてくれるんだ。
思わず隣を見上げると、五条先輩は携帯を開いて何かを調べていた。「つっても、ほとんど店閉まってるからスーパーかコンビニで買えるやつな」「そ、そうですよね」大晦日に食べるものってなんだろう。おせち……はこれから用意するのは難しいし。お蕎麦だけでは物足りないだろうし。お祝いに、みんなで食べるもの……パーティー……。

「フライドチキン……?」
「それクリスマスじゃね」
「えっ」
「いーけど」
「え、待ってください考えます、えっと、」
「別になんでもいーよチキンでもピザでも」
「……ピザ……!?」
「……ピザ屋くらいなら開いてると思うけど」
「た、食べたいです!」

さっと挙げた手は、うるせえ、と無理やり下げさせられてしまった。それでもわざわざ近くのピザ屋さんに電話をかけて、帰りにピックアップできるように予約をしてくれるから五条先輩は優しい。
――優しくて、ちょっと困ってしまうくらいだ。“他人”よりももっと近づきたいって、いつまでも願ってしまうから。

「あの、明日は私、お雑煮作りますね!」
「料理できんのお前」
「人並みには……」
「正月から腹壊したくないんだけど」
「ちゃんと煮ますから大丈夫です!」
「そういう意味じゃねー」

 

高専から徒歩十五分ほどの場所にある大型スーパーは、いつになく空いていた。大晦日の夜、もうみんな買い物を済ませて帰った後なのだろう。今日は閉店時間も早いらしく、すでにお寿司やオードブルなんかは軒並み売り切れている。
飲み物を選んでくるという五条先輩といったん分かれて、私はお雑煮の具材を買い回った。お餅、鶏肉、人参、三つ葉、かまぼこ。調味料は共有のやつを借りよう。途中通りかかったお惣菜コーナーで、ひとつだけ売れ残ったフライドチキンを見つけたので思い切ってそれも買い物カゴに入れた。大晦日だから、少しくらい欲張ってもいいよね。

「あとは……」

最後にぐるりと辺りを見回す。松飾りや紅白の幕で彩られた店内はお祭りのように賑やかだ。中でも一際目を引くのは、やっぱりデザートの棚だった。プリンにワッフル、シュークリーム、カットフルーツの盛り合わせ、それからプラスチックの箱に二ピースずつ収められた色鮮やかなケーキ。つい立ち止まって眺めていると、いつの間にか隣には五条先輩が立っていた。

「買えば?」

短く言いながら、私の手からひったくるようにカゴを取り上げる。先輩の持ってきたジュースやらお菓子やらアイスやらがどかどか追加されて、オレンジ色のカゴはあっという間にいっぱいになった。これ知ってる。ラクトアイスじゃなくて正真正銘アイスクリームの、高いやつだ。

「でも」
「どれ?」
「……チョコケーキとショートケーキで、迷ってて」
「どっちも買えばいいじゃん」

言うが早いか、五条先輩はなんの躊躇いもなくケーキの箱を二つ、ぽいぽいっとカゴに放り込む。あまりの潔さに目を瞠ってしまった。「ふ、二つも……!?」「たかだか数百円だろ」だってまだピザもあるのに? 大晦日だからって、そんなことが許されていいのだろうか。

「わた、私、このチキン返してきます!」
「いーからそれも入れとけって」
「ひえ」

両手に捧げ持ったフライドチキンもすぐさま没収されてしまった。こんなに食べ切れるのかと心配になる一方で、頭の中はだんだんと『でも大晦日だしいっか』という根拠に乏しい言い訳で埋め尽くされていく。神様ごめんなさい。私は雑念まみれのまま年を越そうとしています。

「……贅沢……贅沢です……」
「お前ほんとやっすいやつだな」
「スーパーのケーキだって美味しいんですよ!?」
「論点ズレてんだよ」

だって、こんなのやっぱり贅沢だ。大晦日にひとりきりじゃなくて、美味しいご飯があって、デザートまでついてる。二つも。だめだ私、浮かれてるのかもしれない。

「……他には?」

舞い上がりそうになる気持ちを深呼吸で鎮めていると、おもむろに五条先輩が口を開いた。独り言かと思ったが、サングラス越しの瞳はまっすぐこちらを見下ろしている。

「他にはねーの、欲しいもの」
「え!? これ以上の我儘はさすがに……!」
「別に我儘でもなんでもないだろ、こんなん」
「もう充分ですよ! そもそも五条先輩がいてくれるだけで私は嬉しいんです、」

から。言い終わらないうちに、ぱっと顔を逸らされた。……あれ、私、変なこと言った? 大丈夫だよね? 普通のお礼として伝わってるよね?
気味悪がられたらどうしよう、と思ったけれど、五条先輩はちょっと目を細めて溜息をついただけだった。ほっとすると同時に、急に気恥ずかしくなって私も顔を俯けた。

「……お前よくそういうこと恥ずかしげもなく言えんな」
「だ、だってほんとに思ってるんですもん」
「もういいなら行くぞ」

レジに向かう先輩を追いかける。カゴから溢れんばかりに詰め込まれた今夜の食事を眺めながら、なんだか私は胸がいっぱいだった。
五条先輩はいつもそうだ。私が自分でも気がつかないような、小さな小さな願いを全部見つけて、拾い上げて、形にしてくれる。それがたかだか数百円のケーキだとしても、私にとってはきらきらの宝物みたいで。ひとつ、ふたつと積み重なっていくたび、無性に泣きたくなるのだ。

「――五条先輩」

背の高い上着の裾に手を伸ばし、躊躇いがちに引っ張った。少しの間をおいてから、なに、と降ってくる声はひどく柔らかく、淡雪のように私の胸の奥に沁み込んでは、小さな傷をつけて融けていく。

「……ありがとう、ございます……」
「……おーげさ」

大きな手が、ぽん、と私の頭に触れて離れた。

嬉しいとか幸せだとか、そんな純粋な感情ばかりでこの心を満たせたらどんなにいいだろう。
好きで好きで、ただひたすらに好きで、どうしようもなく手を伸ばしたいと思ってしまうこの気持ちは、いつになったら消えるのかな。早く融けてしまえばいい。そうしたら、あとは優しい思い出だけが残るのに。

 

 

>> 34


お財布を探している間に秒でお支払いを終えてくれている五条先輩なのでした。