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師走とはよく言ったものだ。師どころか一介の学生でしかない私ですら、十二月は西へ東へと日本全国を飛び回っていた。三級と準二級とでは、びっくりするくらい任務の数が違うのだった。当たり前のことだけれど、呪霊の等級が上がれば上がるほど対処できる術師は限られる。そりゃあ特級の先輩たちなんて引っ張りだこになるに決まってるな、と私はしばらく姿を見かけていない上級生二人を思い浮かべては、ひとり勝手に納得した。

そんなわけで、高専生になって初めての冬は、クリスマスの気配も感じないままに気がつけば大晦日を迎えている。

「あっ、いた! 夏油先輩」

談話室をひょっこり覗き込んで、私は声を上げた。ずっと探していた黒髪の頭をようやく発見したのだ。ソファの背もたれ越しにこちらを振り向いて、その人はきょとんと目を丸くした。

「ナマエ、どうしたの」
「先輩が帰省しちゃう前にお渡ししたいものが……あれ」

駆け寄りながら、私はふと首を傾げた。いつもお団子にまとめられている夏油先輩の髪が、珍しくすとんと肩に下りている。白いTシャツとのコントラストが際立って、なんだかいつもよりさらに大人びて見えた。

「髪、珍しいですね」
「ああ。ちょうどお風呂から上がって、乾かしてきたところだったから」

昨日は帰ってきてそのまま寝落ちしてしまって、と先輩は苦笑を漏らす。やはり私の比ではなく忙しいようだった。聞けば、二週間も休みなしで任務に駆り出されていたらしい。いくら優秀な呪術師だからって、ちょっとひどすぎないだろうか。下っ端の分際で、私は見たこともない上層部とやらに対し腹立たしい気持ちになる。

「大丈夫ですか? 体調とか……」
「心配ないよ。今日からもう休みだし」
「そうですか……。あの、お正月はゆっくり休んでくださいね。いっぱい寝て、美味しいもの食べて、ゴロゴロしてゲームとかして、それから」
「あはは。うん、そうするよ」

夏油先輩がおかしそうに目を細めて笑う。そうすると彼の纏う空気も同じように緩む気がして、私はどこかほっとした。
私たち学生には、今日から三ヶ日いっぱいまでの休暇が与えられている。例によって山のように出された冬休みの課題を除けば、いくらかはゆっくりできるのだった。

「それで、渡したいものって何かな」
「あっ、そうでした!」

穏やかな声に促され、当初の目的を思い出す。左手に提げた紙袋を漁り、透明なプラスチックの箱を取り出した。赤いリボンの掛けられたそれを差し伸べると、夏油先輩は不思議そうに私を見上げた。

「この前お買い物に付き合っていただいたので、お礼です!」
「そんな、気にしなくていいのに。元はと言えば私から誘ったんだし」
「いいんです! この前だけじゃなくて、いつもたくさんお世話になってますので」
「……ありがとう。じゃあ、遠慮なくいただくよ」

夏油先輩の手に無事、細長い箱が収まる。それを見届けて私は再び胸を撫で下ろした。五条先輩とは別の意味で、この人は受け取ってくれないのではないかと心配していたのだ。

手に取った箱をしげしげと眺め、夏油先輩は首を傾げた。「これは何?」「ヘアオイルです!」「ヘアオイル」。へえ、と呟く声は、あまりピンときていないようだ。
正直なところ、何をあげたら喜んでもらえるのかわからなくて、夏油先輩との唯一の共通点とも言える髪の長さに着目して選んだものだった。『迷ったときは自分が使ってみてよかったものを贈る』というのは、いつか読んだ雑誌の受け売りだ。

「夏油先輩はすでに髪さらさらなので、必要ないかもですけど……でもすっごくいい匂いで、寝る前に使うと疲れも癒されるので!」
「そうなんだ。こういうの使ったことなかったなあ。どうやるの?」
「こう、手のひらで伸ばしてスルスル~っと……あ、いまやってみてもいいですか?」
「私の髪に?」
「はい、ちょうどお風呂上がりですし」

触っても大丈夫でしたら、と手を差し伸べる。夏油先輩は一瞬だけ箱をこちらへ戻しかけ、そしてすぐにぴたりと止まった。

「……あー、いや。後で自分で試してみるよ。ありがとう」
「え、そうですか?」

ゆるりと細められた目は、私を通り越して後ろのほうへ向けられている。つられて振り返ろうとしたら、頭のてっぺんに何やら固いものが乗ってきて、私はあえなく動きを封じられた。

「なーにやってんの」

低い声がびりびりと頭の中に響いてくる。
頭蓋骨を抉るかのように押しつけられているのはたぶん、いや間違いなく、五条先輩の顎だった。あの形の良いシャープな顎である。しかも折り曲げた上半身の重みをすべて預けるように、容赦なく。

「ご、五条先輩、刺さって、刺さってます」
「ナマエがプレゼントをくれたんだよ。ヘアオイル」
「ヘアオイルぅ?」
「先輩、あの、顎が刺さって」
「ナマエのお気に入りだそうだ」
「なにお前いっちょまえにそんなもんつけてんの」
「はいすみませんつけてま、いた、痛い……」
「……ふーん」

ふっと頭上の重みが消える。かと思えば今度は髪を雑に引っ張られ、ひ、と情けない声が出た。ずいぶん長くなった髪は頭上まで持ち上げられて、急勾配の吊り橋みたいになっている。
五条先輩に髪を触られるのは、これで何度目だろう。いつになっても慣れないものだ。骨張った指が戯れに毛先まで滑る、そのほんの僅かな時間が、永遠みたいに長く感じられる。どうか途中で引っ掛かりませんように、なんて祈るように目を閉じてしまう。こればっかりはもう、どうしようもないのだ。
ちょっとだけ奮発して買ったヘアオイルの効果あってか、私の髪はするりと先輩の指を通り抜け、無事に肩に戻ってきた。ほっと息をつくと、かぎ慣れた淡い花の香りが鼻先を掠めた。

「つまり、これをつけたら私はナマエとお揃いってことになるわけだ」
「僭越ながらそういうことになりますね……」
「羨ましい?」

夏油先輩の質問は五条先輩に向かっている。「……別に」五条先輩はなんだか不服そうにくしゃりと顔を顰めた。羨ましい?

「五条先輩も髪、伸ばしたいんです……?」
「ちげーわ」

心底馬鹿にしたような大きな溜息と共に、デコピンに見舞われる。ちがうのか。立ったままおでこを押さえる私をどけて、五条先輩は夏油先輩の向かいに腰を下ろした。テーブルの上に長い脚が投げ出される。相変わらずお行儀が悪い。言えないけど。

「傑、もう帰んの?」
「ああ。一度部屋に戻って着替えたら出るよ。悟は?」
「俺は今年はパス」
「へえ。家は大丈夫なのか?」
「三ヶ日中にちょろっと顔出しときゃいいだろ」
「じゃあ、ナマエひとりにならなくてよかったね」
「え」

不意に話を振られ、ぼけっとしていた私は目を瞬かせた。

「年越しも寮に残るって硝子から聞いたけど」
「あ、はい。私はそうなんです、けど」

年中忙しい呪術師たちにとって、まとまった休みというのは貴重だ。だから七海も灰原も硝子さんも、三、四年生の先輩たちも早々に帰省してしまった。いま残っているのはここにいる三人だけ。夏油先輩ももうすぐ帰ってしまう。いつも賑やかな寮内がひっそりと静かなのは、なんだか落ち着かない気分だった。

「五条先輩も残るんですか?」
「……そーだけど。文句ある?」
「いえ、そうじゃなくて、あの……」
「なんだよ」

五条先輩が訝しげに眉を顰める。
これは決して変な意味ではなくて。一緒に過ごしたいとか、そんな大それたことでもなくて。
でも、ただ、ちょっとだけ。

「……う、嬉しい、です……」

思わず言ってしまった後で、はっと我に返った。五条先輩の目がビー玉のように丸くなる。待って、ちがう、そういう意味じゃない。

「あっ、えっと! 誰かがいてくれると思ったら、年越しも心強いといいますか……!」
「お前の年越しの概念どうなってんだよ」
「概念は、わかんないですけど……」

うまく言い表せない。この気持ちは、なんだったっけ。

ずいぶん前から、私にとってのクリスマスとかお正月は、誰かと喜びを分かち合うようなものではなくなっていた。そういうのはずっと昔に終わってしまったのだ。もう写真の中でしか会えない、声も思い出せない両親がいなくなったときに。
慣れたと思っていた。浮き足立つ街並みやテレビの中の楽しそうな人たちはみんな、どこか遠い国の風景みたいで、羨ましいと思うこともなかった。ひとりで過ごすのだって、得意になったはずだった。でも、高専へ来てそんなものすっかり忘れてしまっていたらしい。
いつも近くにあった誰かの気配も、笑い声も、喧嘩の音さえも恋しく感じて、それでようやっと私は思い出したのだ。

ああ、“寂しい”ってこういうことだったな、なんて。

「……まあ、晩飯くらいは一緒に食ってやってもいいよ」

そっぽを向いて呟かれた言葉にも、たまらなく頬が緩んで、少しだけ泣きそうになってしまう。私はどうやら自分で思っているよりもっと単純で、そしてずっとずっと果報者のようだった。

「私も年始は早めに帰ってくるよ。みんなで新年会しようか」
「え!? いいんですよ夏油先輩は、限界までゆっくりしてきてください!」
「おい俺にもゆっくりしてほしがれよ」
「悟は帰省したほうが大変だろ」
「はー? 俺なんか上げ膳据え膳だわ」
「なら帰れば?」
「…………」
「わ、私が上げ膳据え膳します!」
「いらねーよ!」

そういえば、五条先輩はどうして帰省しないんだろう。御三家は年中行事が大変だと夏休みのときに聞いたけれど、だったらなおさら五条先輩がいなくては困るんじゃなかろうか。
踏み込んで尋ねていいのか迷っているうちに、夏油先輩がのそのそと腰を上げた。帰り支度をすると言って部屋に戻りかけ、思い出したようにこちらを振り返る。

「そうだ。ナマエ、部屋の鍵はきちんと閉めて寝るんだよ」
「? はい」
「悟と二人きりなんだからね」
「誰がこんなの襲うかっつの」
「え? どういう意、うわ!?」
「……いーよお前はわかんなくて」

傾けかけた頭を真上から押さえ込まれ、髪をぐちゃぐちゃにされた。からからと笑う夏油先輩の声が、静かな談話室をほんの少し揺らした。

 

 

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