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「夏油先輩」
「うん」
「折り入って、お願いがございまして」
「うん。ヤダ」
「ヤ……!?」

愕然とした。
床にぴしっと正座をした私の頭上、ソファに悠然と腰掛けてこちらを見下ろすその顔は、まるで仏様みたいに穏やかだった。なのに出てくる台詞はとんでもなく無慈悲だ。こんなにいい笑顔でヤダって言う人、初めて見たよ。

「な、な、なんでですか前は教えてくれたじゃないですか……!?」
「いやーあのときは夏休みで暇だったしね。今日はこれから任務だから」
「そんな殺生な!」
「それに、たまには自分の力でやらないと意味がないだろう」
「うっ」

なんという直球の正論。私は声にならない呻きを漏らして項垂れた。膝の上で握りしめた分厚い冊子が目に入る。――私の天敵、数学の問題集、である。

「で、でも、でも、明日、小テストなんですよ……っ」
「そうか、頑張るんだよ」
「赤点取ったら、二週間毎晩みっちり補習だって……!」
「それは大変だ」
「げとうせんぱいいい!!」

お願いですなんでもしますから、と縋りついた私を軽々とひっぺがし、先輩は朗らかに笑った。

事の発端は、今日の五時間目の授業だった。午前中に任務を終えて高専に戻り、お昼を食べて、いい感じに眠たくなってきた頃、座学の先生が唐突に言い放った。

『明日、テストをしますからね』

ひどい仕打ちだった。私が座学の中で数学を一番苦手としていることを知っての狼藉ですか先生。だいたい呪術師に数学が必要だろうか。二次関数で呪霊が倒せるのか。
すっかり眠気の吹っ飛んだ頭の中で滔々と文句を並べ立てているうちに、出題範囲と地獄の補習についてさらりと言い渡し、終業のチャイムとともに先生は去って行った。

困った。硝子さんは急患で呼び出されてしまったし、七海にはすげなく断られたばかりだし、灰原に至っては共倒れになる可能性すらある。これで夏油先輩もだめだったら……あとは、だって、ほら。

「じゃあ、悟に教えてもらいな。部屋でうたた寝してるはずだよ」

私の思考を先取りしたかのように夏油先輩が言った。確かに五条先輩は数学、得意そうだけど。だけど。

「五条先輩が素直に教えてくれると思います……?」
「『なんでもしますから』って頼み込めば大丈夫じゃないかな」
「そんなこと言ったら後で何させられるかわかったもんじゃないですよ!!」

そうでなくたって普段からいいように振り回されているというのに。大袈裟なほど震え上がってみせると、夏油先輩は切長の目をすっと細めて微笑んだ。

「本当にそう思う?」
「え」
「悟がナマエにひどいことさせるって、そう思うかい?」

ぴたりと口を噤んだ。夏油先輩はちょっとだけ首を傾げて、試すような眼差しでこちらを見る。何も言えなくなってしまった私を面白がっているのは明らかだった。

「……夏油先輩って、たまにびっくりするくらい意地悪ですよね」
「ああ、やっと気づいた?」

涼しい顔で言い放った先輩に、大きく溜息をつく。自分はあっさり断ったくせに、よく言うよ。

 

(五条先輩、寝てるかな……起こしたら殺されるかな……)

結局ここに来てしまった。男子寮って、何回来てもなんだか慣れない。造りは女子寮と変わらないのに、匂いも雰囲気も全然違うのだ。いや別にクサいとかではなくてですね。
五条先輩の部屋の前をそわそわと三往復した後、意を決してそのドアを叩く。出てきてほしい気も、気づかずに寝ていてほしい気もした。数秒の沈黙の後、中で人が動く気配がして、扉が開く。眠たげな顔にいつものサングラスはなくて、こちらを見て瞬きをした青に一瞬、胸が高鳴った。

「……ナマエ?」
「お、……」
「なんか用か?」
「お休みのところ、大変、恐れ入ります……」
「なに」
「あの、あのですね」
「なんだよ」

五条先輩は訝しげに目を窄めた。すみませんやっぱり怖いです。二週間みっちり補習と、五条先輩の言いなりと、どっちがマシだろう。頭の中で天秤がぐらぐら揺れている。
……補習,嫌だなあ。数字を見ていると、だんだん頭がきゅうっとなってくるのだ。それを毎晩、二週間。京都校の人たちと出かける予定だってあるのに。それに引き換え五条先輩のパシリだったら慣れているし、先輩が私に求めることなんてたかが知れているだろう。ただの雑魚でガキンチョの私にできることは少ないから。それに、五条先輩は――。

夏油先輩の意地悪く吊り上がった口元を思い出し、唇を噛んだ。結局、全部あの人の言う通りだ。

「べ、勉強、教えてください!!」
「はあ?」
「明日、数学の小テストで! 赤点取ったらみっちり補習で! だからお願いします!」
「赤点ってお前どんだけ、」
「なんでもしますから!!」

もうここまできたら、あとは勢いだ。問題集をぎゅっと胸に抱いて五条先輩を見上げる。

「わ、私にできることなら、お礼になんでも言うこと聞きます……!」

本当に大したことはできないですけど。ていうか普段から大抵の命令は甘んじて受け入れてますけど。決意を込めてまっすぐに見つめると、先輩は丸く目を見開いた後、ぱっと顔を逸らしてしまった。や、やっぱりこんなんじゃだめか……。

「……おっまえ、そういうさあ……」
「お願いします、五条先輩しかいないんです……」

これで断られたら私の小テストは終わりなのだ。必死で懇願する私に、五条先輩はむっと唇を結んで踵を返し、部屋の中へと引っ込んだ。かと思えば、サングラスを手にしてすぐに戻ってくる。後ろ手で部屋の扉を閉め、無言のまま私の横を通って階段のほうへと向かう鼻先には、不服そうに皺が刻まれている。……んん?

「……下でやるぞ」
「え!?」
「教えてやるって言ってんの」
「いいんですか!? あっ、でもわざわざ降りていただかなくてもここで」
「いいから早く来い」
「はいすみません!」

先を行く背中を追いかけながら、ありがとうございますと声をかけると、振り向きざまに頭をぐちゃぐちゃにされた。

 

「――だから、ここ因数分解して」
「え? も、もう一回お願いします」
「はあ? 何がわかんねーんだよ」
「えっと、これとこれが……?」
「これがここにかかるだろ」
「あ、あー……?」
「お前中学からやり直せ」

文字通り匙を投げるような様相で、五条先輩はペンを放り出した。金色の星の飾りがついたボールペンはノートの上をころころと転がり、鉛筆を握りしめる私の拳にぶつかって止まる。ああ、このファンシーなペンを握っている五条先輩が可愛かったのに。

「諦めろよもういーじゃん補習で」
「嫌ですよ!!」
「なんで」
「毎晩補習なんか受けてたら、数字の呪霊に襲われる夢見そうじゃないですか……!」
「ねーよ」
「あっ! 先輩これ、解けました!」

やっとまともに一問解けた。書いては消し、書いては消しを繰り返して黒ずんだノートを先輩に向かって広げてみせる。テーブルにだらんと突っ伏していた五条先輩は面倒そうな顔をしながらも、どれ、と体を起こしてノートを覗き込んだ。前髪が触れそうになり、少しだけ距離を取る。

五条先輩は、やっぱり優しい。
映画の途中で部屋に戻ってしまったあのときだって、メールで謝った私に怒ることもしなかった。私は、その優しさに甘えている自覚がある。だから、なんでもします、と言ったのは本心だった。私が役に立てることが、何かひとつでも恩を返せるようなことが、あったらの話だけれど。

伏し目がちに文字を追う横顔をぼんやりと眺める。もう蓋をしたはずなのに。これ以上好きにならないって決めたのに。こうして隣にいるだけでほんの少し心が動いてしまうのは、どうしたらいいんだろう。

「あー合ってる合ってる」
「ほんとですか! じゃあ次も、」
「ナマエ」

名前を呼ばれて、ノートから顔を上げる。頬杖をついてこちらを向いた五条先輩が、反対の手を私の肩口に伸ばした。「え」「動くな」震えそうになる身体を押し留める。先輩は指先で私の髪を一房掬い上げて、ぼそっと呟くように言った。

「消しカスついてる」
「あ、ありがとう、ございます」

なんだ消しカスかびっくりした。思わず息をついた私の髪を梳いて、骨張った指が滑る。春からずっと伸ばしているから、だいぶ長くなったなあ。ぼうっと見つめていると、毛先まで降りたところで先輩の指先は動きを止めた。白い睫毛に縁取られた双眸が、サングラスの奥から私を見ていた。はっとするほどまっすぐな眼差しだった。

「……なあ。なんでもするって言ったよな」
「は、はい。私にできることなら、ですけど……」
「あれさあ、」

なんだろう。いまここで使うんんだろうか。何かおやつ買ってこいとか? それにしてはやけに真剣な顔に見える。まさか本当にとんでもない命令が下されるのか。
五条先輩は一度口を噤んで、私の髪をそっと握り込んだ。やめて、やめてほしい。そんなことされたらまた、心臓が勝手に暴れ出してしまう。

「……相手が俺じゃなくても、同じこと言った?」

え、と吐息のような声が漏れた。どういう意味だろう。なんでもするから、は夏油先輩にも言ったけれど、でももちろん、誰にでも言っていいと思っているわけじゃない。どう答えるべきか迷っていたら、玄関のほうから誰かが入ってくる気配がして、すぐに夏油先輩が姿を現した。

「げ、夏油先輩。早かったですね……」
「ただいま。……お邪魔してしまったかな?」
「いえ、そんなことは」

気がついたら五条先輩はもう立ち上がっていて、スウェットのポケットに手を突っ込んで談話室を出て行こうとしていた。ああ、もう行っちゃうんだ。まだ教えてもらいたいところあったのに。……さっきの答えも,きちんと言えていないのに。

「ちゃんと教えてあげたのか?」
「うっせーなクソが」

すれ違いざまに五条先輩に声をかけた夏油先輩は、にやにやと笑っていた。あの、びっくりするくらい意地悪なときの顔だった。

 

 

 

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