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『ナマエちゃん久しぶり。元気にしてる?』
『こんにちは! はい、元気いっぱいですよ』
『よかった。俺ら来週、交流会でそっち行くんだけどさ。次の日、飯でもどうかなと思って』
『ご一緒していいんですか? 任務の予定見てみます!』
『ありがとう! 会えるの楽しみにしてる』
『私も皆さんに会えるのたのし』

「なにニヤニヤしてんの?」
「!?」

不意に頭上から声が降ってきて、私は操作途中の携帯を危うく取り落としそうになった。深く腰掛けたソファの後ろから、背の高い影が差す。仰ぎ見れば案の定、怪訝そうに眉を顰めた五条先輩が立っていた。気配を消して背後から近づくのはよろしくないですね。

「びっ……くりしました……!」
「簡単に背後取られてんじゃねーよ」
「先輩どうやって足音消してるんです? 忍者?」
「アホか」

呆れ返った声とともに手刀が落ちてくる。痛……くはなかった。

午後の授業が終わり、しかし晩ご飯にはまだ早いという半端な時間帯だった。暇を持て余した私は、誰もいない談話室でうだうだと無為な時間を過ごしていた。本当は体術の稽古に行きたかったが、熱が下がったばかりだから安静にしろと硝子さんから釘を刺されてしまったのだ。仕方がないので課題でも片付けようかと教科書とノートを持ってきたはいいものの、いずれも一度も開かないままローテーブルの隅に追いやっている。たぶんもう今日の出番はないだろう。

いつもはおしゃべりに付き合ってくれる硝子さんも、デートだと言って早々に出かけてしまった。ジャージ姿でぽつねんと佇む後輩、つまり私に優美な流し目だけをよこし、黒いエナメルのハイヒールを高らかに鳴らして歩く背中はなかなかに格好良かった。しかしそんなにおめかしをしてどこへ行き何をするのか、私にはまるで未知の世界だ。
私もいつかあんな風に綺麗にお化粧をして、男の人と二人で出かけるのだろうか。一体誰と。想像できないなあ。まず私とデートをしたいなんて言う相手が現れるとも思えないし、仮にいたとして、あんな踵の高い靴を履いてまっすぐに歩ける自信がない。こうやって楽ちんなジャージ姿でソファに転がっているくらいがお似合いなのだ。

「デートかあ」
「は?」
「あ、いえこっちの話です」

ぱちんと携帯を閉じた私を見やり、五条先輩はうっすら目を細めた。そんなに不審がるほどニヤニヤしていただろうか。

「……誰かデートすんの」
「硝子さんが今日デートって、素敵なワンピース着て出かけていきましたよ」
「ふーん」

いかにも関心なさげな相槌を残し、五条先輩は踵を返して共有キッチンへと向かう。先輩たちはみんなそういうの慣れてそうだな。五条先輩、も。……いや別に関係ないけど。想像して傷ついたりとかしないけど。
五条先輩は、冷蔵庫からお茶と炭酸飲料のペットボトルを両手にそれぞれ掴んで戻ってきた。この人が持つと二リットルのサイズ感がおかしくなるんだよな。半ば感心しつつ眺めていると、再びソファの後ろを通りかかったところで急にその足が止まる。まさかそのペットボトル、私の脳天に突き立てるつもりじゃないですよね。恐る恐る見上げた先輩の眉間には、僅かに皺が寄っていた。うん?

「……心配しなくても、お前にはデートする機会なんか当分ねーから」
「わ、わかってますよ!」

わざわざ立ち止まって何を言うかと思ったら! ふんすと鼻を鳴らす私をよそに、先輩はソファを回り込んできて隣に腰を下ろした。あ、ここに座るんだ。わざとらしく長い脚を広げてくる先輩のために、私はもぞもぞと端っこに寄る。

「つーかもう風邪治ったの?」
「……治りました」
「せっかく静かでよかったのに」
「なんてこと言うんですか」

テレビのリモコンをいじりながら、五条先輩がさらに暴言を吐く。なんか今日は悪口多いな。自分だってこの前はずいぶんしおらしい様子だったくせに……なんてことは、とてもじゃないが口に出せない。あれ夢だったのかな。それこそ熱に浮かされて見た幻とか。……あ、でも。

「……お粥、美味しかったです」

小さく呟くと、先輩はぴたりと口を噤んで私を見た。いくら憎まれ口を叩かれようが、お世話になったことには変わりない。夢と現実の境をさまようような数日間の中で、ほわほわと身体を包み込むあの優しい味だけは妙にはっきりと記憶に残っているのだ。

「あれ作ってくれたのって、五条先輩だったんですね」
「……なんでもかんでも美味い美味い言うんじゃねーよ貧乏舌か?」
「だって美味しかったんですもん」
「もう二度と作んねー」
「なんでですか!? 褒めてるのに!?」
「お前に褒められるとなんかムカつくから」

なんですと。私はぷいっとそっぽを向いた先輩の横顔を憤然と見上げた。お礼を言って怒られるなんて、そんな理不尽なことがあるだろうか。頬杖をついているせいで口元はよく見えないけれど、むっつりと黙り込む表情は子供みたいだ。そういうこと言うなら、私にだって考えがあるんですよ。

「……じゃあいいです。五条先輩にはお菓子あげませんから」
「は? なんだよそれ」
「京都のお土産、残りもぜんぶ硝子さんと夏油先輩にあげます」

言って、私は五条先輩と反対側に置いていた紙袋を引き寄せた。クッキーにバウムクーヘン、お抹茶のチョコレート。日持ちしないものは他の人に配ってしまったけれど、甘くないお菓子やお茶だってまだたくさん残してある。五条先輩にはいっぱいお世話になっているから、いっぱいお礼をしたいと思って買ってきたのだ。でもここは、心を鬼にしないといけない。

「意地悪言う人にはあげません!」
「は。誰に向かってそんな口利いてんの?」
「い、威嚇してもだめですから」
「…………」
「…………」
「…………」
「……うそうそやっぱ嘘です頭掴まないで怖い」

私の捨て身の抵抗、十秒で終了。だってこんなに大きな手で頭を鷲掴みにされたら、私のようなちんちくりんにはもうどうしようもない。暴力反対。目を閉じて痛みに備えたけれど、先輩の手はぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜただけで離れていったのでほっとする。「わかればいーよ」「強盗……」「あ?」「なんでもないですどうぞ」仕方なく差し出した紙袋の中から、先輩はさっそくお菓子の箱を取り出した。遠慮も何もなくびりびりに破かれる包装紙。無慈悲だ。せっかく見た目も可愛いのを選んだのに。

「もう食べるんですか……」
「映画観ながら食う」
「なるほど……?」
「お前も観んだよ」
「え」
「お前が夏休みいなかったせいで観れなかったんだからな」

私はぽかんと口を開けた。夏休み、どこにも行く当てがないと言った私に、寮で映画を観ようと言ってくれたあれだ。まさかずっと覚えてて、待っててくれてた? 一ヶ月も? ……いやいやでも五条先輩だってずっと忙しかったし、たまたま今日ここで観ようとしたタイミングでちょうど私がいただけかもしれないし。

「早くジュース注いで」

ブウンと唸り声を上げて、DVDプレーヤーが起動する。いつの間にかテーブルの上に用意されていたふたつの紙コップを、震える手で横に並べた。きちんと零さずに注げる自信ないな。

 

「……で、なんでホラーなんですか……」
「夏といえばホラーだろ」

暗い画面に、密やかな音楽とともにおどろおどろしい景色が浮かび上がる。もう夏終わったんですけど、とはやっぱり口に出せない。雰囲気が大事だからとかなんとか言うのでおかしいとは思った。まだ夕暮れ時とはいえ、電気もつけずカーテンも閉め切った談話室は仄暗い。それが正しく映画の不穏な空気を助長していた。

「まさか怖いの? 腐っても呪術師のくせに?」
「こ,怖くはないですけど」
「けど?」
「その、急に出てくるからびっくりするじゃないですか……」
「それがいーんじゃん」

暗がりの中で、先輩の青い瞳が楽しそうに弧を描くのが見えた。この人、でろでろのゾンビとか出てきても指さして笑いそうだな。

昨年公開されたばかりの、アメリカのサイコホラーだった。行方不明の娘を追ってゴーストタウンをさまよう母親、霧と灰に覆われた廃墟、襲い来る奇怪な生物たち、鳴り響くサイレン。私はソファの上で膝を抱えて、ぐっと固唾を呑んだ。もちろん普段から呪霊には見慣れているわけだけど、けど、不気味なほど美しい映像と音楽に俳優さんたちの迫真の演技が加われば、そりゃあ自ずと引き込まれてしまうわけで。

「……!!」
「やっぱビビってんじゃん」
「び、び、びびってないです。驚いただけです」
「一緒じゃね」
「全然違います」

そうだ、全然違う。恐ろしい顔がいきなり画面にばーんと登場してくるから、ちょっとびっくりしてしまうだけだ。緊迫したBGMにつられてしまうだけ。呪術師たるもの、映画なんかでびびるわけがないじゃないですか。ほら、来るってわかっていれば大丈夫。きっとこれは主人公が振り向いたらそこにゾンビが、

『ギャアアア!』
「!?」

予期していたタイミングよりだいぶ早く主人公の絶叫が響き、私はびくりと身体が震わせた。画面の上側から大量に化け物が降ってくる。いやそんなの反則でしょ! 上からはずるいよ! あまりのおぞましさに、狭いソファの上で思わず身を引く。その拍子に指先が何か温かいものに触れた。五条先輩の手だ。

「あっ、すみませ」

手を引っ込めようとして、息を止めた。

先輩の手がほんの少しだけ動いて、私のそれに僅かに重なった。そのまま、きゅっと小さく指先を握られる。驚いて顔を上げたけれど、先輩は画面を見つめたまま、何も言わない。

息を吸おうと開いた喉から、ひう、とおかしな音が鳴った。

——事故だ。

そう、これはきっと事故だ。先輩はたぶん私の手をクッションか何かと勘違いしている。だから早く手を引っ込めて、何事もなかったかのようにもう一度膝を抱えればいい。テレビの中では相変わらず不気味な影が蠢いている。物語はたぶん、佳境を迎えている。なのに、何も目に入らないし何も聞こえない。ただ、青く輝く瞳がゆっくりとこちらに向くのを、形の良い唇が薄く開くのを、呆然と見つめるだけ、で。

「――あー腹減ったー! 夏油さん、ラーメン食いに行きましょうよ!」

ぱちんと電気のスイッチを押す音で我に返った。瞬く間に室内が明るくなり、目の前がちかちかする。たまらずぎゅっと目をつむってもう一度開いたら、先輩の手はもう離れていた。

「さっきコンビニで買い食いしたばかりだろう」
「あれはおやつです……って、ごめん! 映画観てたんだ!?」

電気つけちゃった、と焦る灰原と、にこにこと笑った夏油先輩が連れ立って談話室に入ってくる。何を言われたわけでもないのに、私は慌ただしく立ち上がって五条先輩から距離を取った。先輩の顔が見れない。握られた指先が、火傷でも負ったみたいにじくじくと熱を持っていた。

「ふ、ふた、ふたりともおかえりなさい! 任務おつかれさまです!!」
「? ナマエ、どうかしたの?」
「なにが!? なにもないよ!?」
「でも顔真っ赤だよ。まだ熱あるんじゃない?」
「え!?」

灰原にひょっこりと顔を覗き込まれて、咄嗟に両手で頬を覆う。やばい、熱い、恥ずかしい。こんなことで、なに動揺してるんだろう。

「そっ、そうだね熱だね! 熱だからもう寝るね! お、おやすみなさい!!」
「え、ナマエ!? 走ると危ないよ!」

灰原の声を振り切って、逃げるようにその場を後にする。何より誰より、五条先輩にこんな顔を見られたくなかった。

あれはただの事故だよ。ちょっと触れてしまっただけ。百歩譲っても、私を宥めようとして握ってくれただけ。
……だから、だからこんな熱、早く冷めてよ。

 

 

 

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