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※名前ありモブが出てきます

 

 

 

「は、はああ〜……っ」

返却された答案用紙を見て、止めていた息を一気に吐き出した。私の今後二週間の命運を担う数学の小テスト、その結末は。

「……赤点、回避……!」

ガッツポーズよろしく拳を握りしめた私を、隣の席の七海が胡乱げな目で見てくる。構うもんか。たとえマルとバツの比率が同じくらいだとしたって、赤点さえ取らなければこっちのものだった。これでどうにか五条先輩に顔向けできる。間違っても褒められることはないだろうけど。

「えー! すごいじゃんナマエ。あんなに数学苦手だったのに」
「うん、五条先輩に勉強見てもらってなんとか……」
「え!!」

胸を撫で下ろしながら言うと、灰原はただでさえ丸い目をさらに見開いてこちらへ身を乗り出した。声も大きければリアクションも大きい。

「前から気になってたんだけど!」
「う、うん?」
「ナマエって五条さんと付き合ってるの!?」

ガッタン。手から滑り落ちた答案用紙が床に着地するより早く、私は椅子を蹴って立ち上がった。灰原がきょとんとした顔で見上げてくる。そんな無垢な目をして、なんということを。

「つ、つ、つきあってないよつきあえるわけないじゃんなにいってるの灰原!?」
「え、そうなの? 最近よく一緒にいるからてっきり」
「たまたまだよ! 偶然に!! 奇跡的に!!」
「そんなに力説しなくても」

だって、ありえないんだもん。思いつく限りの理由を並べ立てようと口を開いて、でも結局は何も言えずにのろのろと椅子に戻る。ぎゅうと押し黙った私の様子を、灰原は不思議そうに眺めていた。

「仲良さそうなのになあ。ね、七海もそう思わない?」
「……灰原。これ以上はやめておいたほうが」
「え、なんで?」

私を間に挟んだまま続く会話に、いたたまれない気持ちになる。もしかして、灰原は知らないのかもしれない。私が五条先輩に告白して振られたこと。察しのいい七海はとっくに気づいているだろうけど。

「と、とにかく、ありえないよ……」
「そっかあ」

五条先輩には同じこと絶対言わないでね、と釘を刺すと、灰原はいまだよくわかっていないような顔で、でも素直にわかったと頷いてくれた。

もし、もしも五条先輩と私が仲良く見えるのだとしたら、それは百パーセント先輩の厚意によるものだ。たくさん迷惑をかけて、弱っちくて、中学レベルの数学すらままならない私を助けてくれるのも、先輩が優しいからなのだ。それをこんな風に勘違いされているなんて知ったら、先輩はどう思うだろう。考えただけで胸が詰まる思いがした。

『……相手が俺じゃなくても、同じこと言った?』

あの言葉の意味を、ずっと考えている。まっすぐな目、髪を梳く指先の感触。あのまま夏油先輩が帰って来なかったら、私は何て答えていたのかな。

(勘違い、しちゃだめだ)

深く考えてはいけない。揺らいではいけない。もう決めたんだから。

「あ、夏油さんからだ」

ブー、という振動音がして隣を見ると、灰原が携帯を開いて嬉しそうな声を上げていた。そのまま画面をこちらへ向け、たったいま送られてきたという写真を見せてくれる。にっと歯を見せて笑う五条先輩と夏油先輩、その奥でひっそりピースサインを作る硝子さんが映っていた。

「団体戦、圧勝だって!」

 

「ナマエちゃん!」

その日の夕方のことだった。任務から戻って寮に向かう途中、聞き覚えのある声に呼び止められた。顔を上げると、ずいぶん遠くからこちらに駆けてくる人影がある。黒い制服は高専のものだ。あんなににこやかに手を振ってくる人なんかいたっけな、と考えているうちに目が合って、私は「あ!」と声を上げた。そっか、京都校の。

「高辻さん!?」
「はあ、よかった、人違いじゃなく、て……」
「だ、大丈夫ですか?」

肩で大きく息をしながら、その人――高辻さんは「だいじょーぶ」と笑った。夏の京都での任務でお世話になった先輩だ。相変わらずの人好きのする笑顔に、なんだか懐かしい気持ちになる。まだ一ヶ月ほどしか経っていないのに、変な感じだ。

「お久しぶりです、って言っても一ヶ月ぶりですけど、なんか懐かしいですね」
「ほんと。ナマエちゃん大人っぽくなってて、ちよっとびびった」
「そうですか? 髪、下ろしてるせいですかね」
「そうかも。……そっちも似合ってる」
「あ、ありがとうございます」

優しく微笑みかけられて、どもってしまった。こんな風に直球で褒められるのには慣れない。意味もなく頭に手をやった私を見て、高辻さんがおかしそうに目を細める。お世辞を真に受けているみたいで恥ずかしくなった。

「あ、えと、団体戦、お疲れ様でした」
「あーうん、ボロ負けだったよ」
「お怪我とかは」
「そっちの家入さんに治してもらって、もう全員ピンピンしてる」
「よかったです……」
「三回くらい死にかけたけどね」
「え」
「いやごめんちょっと盛った」

あははと朗らかに笑う高辻さんに、私は頬を引き攣らせた。私だったら十回は死んでるかもしれない。そもそも五条先輩と夏油先輩が揃って敵方な時点で迷わず棄権する。命がいくつあっても足りないし。心底いたわしい気持ちになり、今日は早く休んでくださいね、と声をかけようとして、高辻さんの顔から笑みが消えていることに気がついた。二度、三度、黒い瞳が左右に揺れる。

「……あのさ。明後日、なんだけど」

言いづらそうに口籠る彼の顔を見つめると、今度は明らかに視線を逸らされた。あ、もしかして、約束忘れてると思われてるのかな。

「俺、一日休みだから、その」
「もちろん、ちゃんと覚えてますよ! 東京観光プランも考えてあるので! あ、人数多いから食事は予約しといたほうがいいですよね。皆さん食べたいものありますかね?」
「え」
「え?」

高辻さんはぽかんと口を開けていた。あれ? 私、なんか変なこと言った? お互いに固まったまま、なんとも言えない沈黙が流れる。

「あの……?」
「……あー、その、ごめん。二人きりのつもりだった」
「え」
「伝わってると思ってたんだけど……」

まいったな、と決まりが悪そうに苦笑され、今度は私が口を開けてしまった。ふたり、ふたりきりといいますと?

「……いや、はっきり言わなかった俺が悪いな」

何も言えずに突っ立っている私に向かって、高辻さんは意を決したように一歩踏み出した。……なんだろう、この先を聞いてはいけない気がする。じりじりと追い詰められるような心地がして、同じだけ後ろへ下がりたくなる、けれど、足が動かない。

「あ、あの、私」
「単刀直入に言うとさ、俺、きみのことが結構好きなんだ」
「へ……?」
「初めて見たとき、可愛いなーと思ってさ」
「かわ、え? あの」
「わかりやすく接してたつもりだったんだけど、足りなかったみたいだ」

次々と放たれる言葉に、何と返せばいいのかわからない。好きって、つまり、そういう? 呆然と彼の顔を見上げる。少し強張った表情で、でもその目は強い光を湛えて私をじっと見ていた。途端に頬に熱が上ってくる。心臓がばくばくと喧しい音を立て始める。見えないエネルギーに押し潰されるようだった。待って、そんな目で見ないで。これって、こういうときってどうしたらいいの? 断る? 謝る? 何に対して? 付き合ってとも言われてないのに?

「……もしかして、もう彼氏いたりした? 五条くんとか?」
「ご……!」
「仲良いって聞いたから」

誰なんだそんなこと言ったのは。捕まえてひっぱたいてやりたい気分になる。やめてくれと叫びたかった。こんなところで、その名前を出すのは。

「ち、ちがいます、五条先輩は……」
「そっか、よかった」

ようやく答えを絞り出すと、高辻さんはほっとしたように息をついた。五条くん相手じゃ勝ち目ないからな、なんて冗談めかして言う声がやけに遠くに聞こえる。

「……あのさ、よかったらちょっと散歩しない? 俺まだ時間あるし、校内いろいろ案内してよ」
「でも私、あの」
「そんなに緊張しないで。いますぐどうこうしようってつもりじゃないから」

待って、待って全然わからない。高辻さんは私のことが好きで、二人きりで出かけたくて、それはつまりデートで、え、つまりどういうこと? いますぐじゃないって、じゃあこれからどうなるの? 何か言わなければと口を開くけれど、喉がカラカラに渇いて声が出てこない。頭が破裂しそうだ。ついさっきまで親切な先輩だった目の前の彼が、急に知らない人のように思えてくる。

高辻さんのことが嫌いなわけじゃない。優しくて面倒見が良くて、頼り甲斐があって、そんな人から好きだと言ってもらえるなんて、喜ぶべきことのはずなのに。胸の内に靄みたいなものがどんどん渦巻いていく。息苦しい。嫌だ。怖い。恥ずかしい。どうしたらいいのかわからない。いますぐここから逃げ出したい。

「……わ、わたし、にも、荷物、呪具も、置いてこないと」
「荷物なら俺が持つよ」

貸して、と手を伸ばされ、反射的に身を竦めた。片手に提げていたはずの呪具を、いつの間にか胸元で強く握りしめている。指先がひどく冷たい。なのに頭はのぼせているみたいに熱い。くらくらする。

言わなきゃ。早く何か言わなきゃ。
勝ち目があるとかないとか、そんなの関係なくて、私、私は、ただ。

「——勝手に触んないでくれる?」

不意に肩を強く引かれて、背中に体温を感じた。

「これ、俺のなんで」

低い声が真上から降ってくる。……五条、先輩、だ。気づいた瞬間、身体中から力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。ああそっか、この呪具、五条先輩のだった。そんなことしか考えられない。
「ナマエ」促すように名前を呼ぶと、先輩は私の手を掴んで、どこへ行くとも告げずに思い切り引っ張った。足を動かすのに精一杯で、後ろを振り返ることができない。……ううん、違う。振り返るのが、ただただ怖かったのだ。

 

「五条、先輩」
「……」
「ごめんなさい、私、借りた物なのに」
「……」
「先輩、」

何度か呼びかけて、ようやく五条先輩は足を止めてくれた。いくつも角を曲がって階段を上って、下りて、いま敷地内のどのへんにいるのかもわからない。肩で息をする私の手首を強く握ったまま、先輩は低く呟いた。

「……付き合ってんの」
「え?」
「お前の好みと全然違うじゃん」

私の、好み、って。一拍おいて、いつか一緒に観た海外ドラマの出演俳優を思い出す。背が高くて、手足が長く、て。

「つ,付き合ってないです」

掠れた声で答えると、五条先輩は少しだけこちらを振り返った。目を見ることができない。俯いたらなぜか涙が零れそうになった。

「……ちゃんと、好きな人とじゃないと、付き合わない、です……」

吐き出す声が震える。なに言ってるんだろう私。こんなこと、五条先輩に言っても仕方ない。

「……なんで泣くんだよ」
「て、手が、痛いから……」

出まかせの言い訳だったのに、五条先輩の力が緩んだから驚いた。そのままゆるゆると引き寄せられ、硬い胸におでこがぶつかる。大きな手が乱暴に髪を撫でる。よく知った匂いがする。胸の奥がぎゅっと締め付けられて、涙が溢れた。

「……す、みません。なんか、いろいろあって、もう頭、まわんな……っ」

私はどうしたらよかったんだろう。どうせ恋人もいないのだから、せっかくこんな私を好きだと言ってくれる人が現れたのだから、もっと楽な気持ちで受け入れればよかった? そうしたらいつかあの人のことを好きになれたの? こんな、みっともなくはみ出した想いなんか忘れて。

『相手が俺じゃなくても――』

もう平気だと思っていた。きつく封をしたつもりだった。なのにふとした瞬間にこうやって蓋が開いて、溢れ出してしまう。そして思い知らされるのだ。
どうしても、どうしても、私の好きな人は、たったひとりしかいないんだって。

 

 

 

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