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熱が出た。

今朝起きたら異常に身体がだるくて、寒気がして、おまけに頭は割れんばかりに痛かった。寝不足と精神的疲労、それから昨夜の雨がダメ押しになったみたいだ。「風邪だね」部屋まで様子を見に来てくれた硝子さんには、具合が悪いのに濡れて帰ってくるからだと叱られた。弁解の余地もない。

幸い任務は入っていなかったので、授業だけお休みして大人しく寝ることにした。これが驚くほど深く眠れた。泥のように眠るってこういうことだったんだと感動したくらいだ。まったく目が覚めないまま、ご飯も食べずに朝からこんこんと眠り続けて、起きたら夕方だった。びっくりした。

(喉渇いた……)

だいぶ汗をかいたせいで、身体の中身が空っぽになってしまったようだった。寝る前に飲み物を用意しておかなかった自分を恨んでももう遅い。共有キッチンまで行けばとりあえず水は飲めるだろうと力を振り絞って、なんとかベッドから這い出すことには成功した。砂漠でオアシスを求める旅人さながらの切実さだ。

ボサボサの髪を手櫛でまとめてひとつに結い、Tシャツを脱ぎ捨てて、クローゼットを開けて一番に目についたカッターシャツを手に取った。いつも制服の下に着ているようなやつだけど、この際なんでもいい。しかしそんな着慣れた服のボタンひとつを留めるだけでも、いつもの倍以上の時間がかかった。まるで夢の中にいるみたいに、指がうまく動かない。こんなに熱出たのいつぶりかなあ、なんて考えながらもぞもぞ着替えていると、そのうちコツンと控えめなノックの音がした。

「あ、はいー……」

シャツのボタンをまともに留めないまま、私はドアを開けた。だって硝子さんだと思って完全に油断していたのだ。

果たしてその向こうに立っていたのは、小さな土鍋の乗ったお盆を持った、五条先輩、だった。

「……は?」
「え」

丸く見開かれた青い瞳と目が合って、固まって、三秒。私はものすごい勢いでドアを閉めた。

「ごめんなさい!!!!」
「あっ……ぶねえ零れるだろ!!」

バターンと轟音を立てて閉まったドアの向こうから、五条先輩の怒声が聞こえる。信じられない。何がって自分の運の無さが。こんな漫画みたいなことってある? よりによって何の色気もない下着のときに。いや色気のある下着なんか持ってないけど。持ってたとして堂々とお見せできるものでもないけど。とりあえず泣いてもいいかな。

 

「ごめんなさい本当にすみません…………」
「……謝るの逆じゃねーの普通」
「いえ、でも、あの……なんかすみません……」

結局、私の籠城は五分ともたずに終わった。開けないなら術式で壊すと言われては、もう降参するしかない。頭を抱えてうずくまった私を五条先輩はベッドに追い立てて、自分は勉強机の椅子を引っ張ってきてどっかり腰を下ろした。恥ずかしくて顔が見れない。

「つーか病人がわざわざ着替えてどこ行くつもりだよ」
「下でお水飲もうと思って……」
「誰かにメールでも電話でもして持って来させればいいじゃん」
「た、たしかに……?」

その手があったか。寝起きで頭がまったく回っていなかった。でも連絡するとして誰にするべきなんだろうか。やっぱり硝子さん? ぱっと顔を上げると、五条先輩と目が合った。逸らされる。……気まずい。

「……飯」
「は、はい」
「あとで薬持ってくるから食っとけって。……硝子が」
「ありがとうございます……」
「いま食う?」
「……そ、そうします」

私の答えを聞く前に、五条先輩はたったいま座ったばかりの椅子から立ち上がって、サイドボードに置かれたお盆を私の膝の上まで持ってきてくれた。
熱々の土鍋の蓋を取ると、ほわっと白い湯気が溢れ出す。中身はとろとろの卵粥だった。正直あまり食欲はなかったのだけれど、ほのかなお出汁の香りに誘われるように、添えられたれんげを手に取った。ふうふうと息を吹きかけ、少しずつ口に含む。熱で軋んだ身体をやんわり包み込んでくれるような、優しい味がした。

「おいしい……硝子さんもお料理うまいんですね」
「……知らねー」

五条先輩はつまらなそうにぷいっと横を向いて、携帯をいじっている。

「……あの。食べ終わったら自分で持っていくので、大丈夫ですよ」
「病人がふらふら出歩くなっつってんの」
「は、はい……」
「……」
「……」

……会話、続かない。

やっぱり、さっきの気にしてるのかな。しゅんとした気持ちで先輩の横顔を盗み見ると、携帯の画面からちらりとも目線を上げないまま、「こっち見てないでさっさと食ってくださーい」と棒読みで言われた。六眼って特殊な視線センサーでもついてるんだろうか。

結局、私がもたもた食べている間、五条先輩はずっと待っていてくれた。テキパキと食器を下げていく先輩を横目に、大人しく布団に潜り込む。何かあっても自分で行くな誰かに電話しろと口酸っぱく言われたので、サイドボードに置いていた携帯を枕元まで引き寄せた。真新しい革紐にくっついた銀色のイルカの背に、柔らかく光が反射する。何年も使い古した携帯が、急に宝物みたいにきらきらして見えた。

「五条先輩。これ、……ありがとうございます」

お盆を持って部屋を出ようとする背中に声をかける。先輩は少しだけ振り返って、「あー」と素っ気ない声を漏らした。

「……あのダッサいのよりはマシだろ」
「絶対、大事にします」

ダサいダサいと言われたあれを見かねて買ってきてくれただけなのかもしれない。でも、嬉しいものは嬉しい。

「いいから早く寝ろ」
「はい、ありがとうございます」
「ったく雨に濡れて風邪引くとか雑魚すぎ、」

今度こそ出て行こうとした先輩の視線が、何気なく私の机に向いたところでぴたりと止まった。ペン立ての隣に並んだガラスの瓶をとっくり見つめて数秒後、呆れたように大きく溜息をつく。

「……お前さあ……」
「あ! それ今度、貝殻拾ってきて入れようと思ってるんですよ」

――その瓶には、白い砂が詰まっていた。五条先輩にもらった、無機質なポリ袋に入っていた、沖縄の砂。

「……ばかじゃねーの」

バツが悪そうにぼそっと悪態をついた声にはまるで勢いがなくて、私は口元まで引き寄せた布団の下で、見つからないように小さく笑った。

五条先輩の言いつけを守って、私はそれからまたしばらく眠った。今度はふわふわと心地のいい眠りだった。およそ二時間後、薬を持ってきてくれた硝子さんにお粥のお礼を言ったら、「なにそれ知らない」と目を丸くされた。

 

 

 

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