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「――五条先輩!」

ようやく追いついた背中に声をかけると、その人はゆっくりと振り返った。淡いブルーがふたつ、薄闇の中でひらりと光る。降りしきる雨の狭間に立つその姿がまるで蜃気楼みたいに朧げに見えて、私は走る足をいっそう早めた。つっかけてきたサンダルが水溜りに突っ込んで派手な飛沫を上げたけれど、構わずに駆け抜けた。

目の前まで走ってきた私を、五条先輩はぽかんとして見下ろしていた。膝に手をついて息を整えながら、閉じたままの傘をぐいっと差し出す。初めてのお給料で奮発して買った、花柄模様の可愛いやつだ。使うのがもったいなくてずっと部屋の隅に立てかけてあった。急いで引っ掴んできたから、柄のビニールだってまだ剥がしていない。

「は? 何やってんのお前」
「え、と……五条先輩が歩いてるの、部屋から見えて、その、雨降ってたので、傘、傘を……」
「……いや無下限あるから濡れないし」
「あ……」

そうだった。すっかり忘れてた。見上げれば、確かに白い髪の先には雫ひとつもついていない。反対に、さっきドライヤーをかけたばかりの私の髪はもう濡れそぼってぺしゃんこだった。馬鹿だ。何も考えずに飛び出してきてしまったことを後悔した。

「そうでした……うっかり……」
「つーか傘持ってんならさして来いよ」
「さしてると走るのに邪魔だったので……」
「お前な……」

てっきり笑われるかと思ったのに、五条先輩はひとつ溜息をついた後でおもむろに私の手首を掴んだ。ひっと声を上げそうになるのを、傘の柄を握り込むことでなんとか我慢する。落ち着け、私にも術式を使ってくれただけだ。絶え間なく体を打っていた雨の感触が途切れ、やっとまともに呼吸できるようになる。じわじわと伝わってくる先輩の体温はあたたかかくて、雨で冷えた素肌に染み込むようだった。

「す、すごいですね、むかげん……!」
「頭悪そうな発音やめてくんない?」

不機嫌そうに細くなった先輩の瞳を見つめ返すと、すぐに視線を逸らされた。怒ってる、わけではなさそうだけど、やっぱり、どこかいつもと様子が違う。

「……あの、先輩は、何を」
「術式の練習行くとこ」
「こんな時間に?」
「人いると危ねーから」

言われて、昨日見た戦闘の痕跡を思い出す。抉れた石畳や、跡形もなく吹き飛んだ建物。確かにあれに巻き込まれたら、一般人はおろか術師だってただでは済まないだろう。普段の、私が見ることのできる五条先輩は、相当に出力を絞っているということだ。――『並の術師とは次元が違う』。本当に、その言葉通り。

「……特級に上がるって、聞きました」
「あー……まあ、そのうち。傑もすぐ認定されんだろ」
「反転術式も、使えるようになったって」
「おかげでいま生きてるしな」
「すごいですね……」
「それしか語彙ねーのかよ」

だってすごすぎて、すごいってことしかわからない。特級って日本に何人もいないんじゃなかったっけ。反転術式を使える人だって、私は硝子さんしか見たことがない。
元から特別なのに、五条先輩はもっとすごい人になってしまった。いままでぼんやり見えていただけの境界線を、今度こそはっきりと突きつけられた気がした。もうこれからは、どんなに走っても追いつけないくらい遠くに行っちゃうのかもしれないと、頭の片隅で思った。

――それでも。

「せ、先輩。私、先輩に言いたかったことがあって」
「……なに」

それでも、いまこの瞬間だけはここにいて、向かい合って言葉を交わして、手を取ればあったかくて、それだけでよかった。それがどんなに大切なことか、痛いほどわかったから。

「おかえりなさい」

そっぽを向いていた五条先輩が、ゆるゆるとこちらへ視線を戻す。他にも言いたいことはたくさんあったはずなのだけど、全部すっぽ抜けてしまって、残ったのはこれだけだった。生きててくれて嬉しい。帰ってきてくれて嬉しい。もう一度会えて嬉しい。そういうのが全部、この一言に詰まっている。

「……そんだけ?」
「そ、そんだけ、です……」

五条先輩は、今度は目を逸らさなかった。けれど冴えた朝の空のようなその瞳が、ほんの少しだけ、揺らぐのを見た。

「――なあ」

唐突に、ぐっと強く手を引かれた。前のめりに転びそうになった身体は、そのまま黒いTシャツの胸にぽすんとぶつかった。何が起こったのかを考える暇もなく、頭の中にいつかと同じ香水の匂いが流れ込んできて、思考がぐちゃぐちゃになる。

「せん、」
「いいから」

五条先輩は背中を丸めて、私の耳元に、まるで動物か何かみたいに額を擦り寄せた。柔らかい髪が触れて肩が跳ねる。身をよじろうとした私を咎めるように、手首を掴む指にぎゅうと力がこもった。じっとしてろと言われているみたいで、動けなくなる。心臓がうるさい。破裂しそう。息が、できない。

「――怖い? 俺のこと」

低く掠れた声で、ぽつりと、五条先輩が言った。

それは、雨粒がひとつ零れ落ちるような、ひどく小さな声だった。青い瞳の微かな揺らめきをそのまま音にして吐き出した、そんな風に聞こえた。五条先輩、と名前を呼んでも、微塵も動かない。

この人の身体の一体どこから、こんな音が出るのだろうと思った。いつだって強気で、この世に恐れるものなど何もないかのように振る舞う人ではなかったか。わがままで、そのくせ気まぐれに優しくて、子供みたいに笑って、それで。

「……こ、怖いですよ。最初からずーっと」

答えれば、先輩の指先がぴくりと動いた。私はたくさん息を吸い込んで、声が震えてしまわないようにお腹に精一杯の力を込めて、言った。

「だ、だって! ただでさえガラ悪いのに、いきなりジュース買ってこいとかパシってくるし、断ったら変なこと言って脅してくるし」
「……別に脅してはねーだろ」
「すぐ頭掴んできて、痛いし」
「……、……お前の頭がちょうどいいとこにあるから悪い」
「人のこと、ぺらぺらの体とか言うし……!」
「やっぱそれ怒ってたのかよ」
「お、怒ってないです!」

五条先輩は私の首元に鼻筋を埋めたまま、「……怒ってんじゃん」ともぞもぞ呟いたきり、黙ってしまった。どんな顔をしているのかはわからない。せめて悲しい顔じゃなければいいな、と思う。

「……でも。意地悪だし、怖いですけど、それでも、五条先輩は五条先輩ですから」

握りしめたままだった傘の柄を、そっと手放した。ぴしゃっと音を立てて転がった花柄はきっと泥に塗れてしまっただろうけど、構いやしない。

「……五条先輩は、強くて、優しくて、私の、」

丸まった背中に触れていいのかわからなくて、結局はTシャツの腰のあたりをきゅっと掴む。それだけでも死ぬほど勇気がいった。

この人が何を背負ってどこへ向かっていくのか、何かに迷っているのか戸惑っているのか、私にはわからない。きっと誰にもわからないのだ。ただひとつ、私にとって明白なことは、私の心だけだ。

「――私の、一番の、尊敬する先輩です」

どんなに遠い存在になっても、それは変わらない。触れた手の温度だって、きっとずっと覚えている。

「だから、大丈夫ですよ」

何が大丈夫なんだろう。たぶん、半分は自分に言い聞かせている。先輩のシャツの裾を握った手をほどいて、そうっと指先だけで大きな背中に触れた。振り払われてもよかったけれど、先輩は何も言わなかった。ただ、ふっと綻ぶようにして、小さく笑った。

「……どこまでわかって言ってんだか」

離れていくその顔を見上げようとしたとき、頭の上からぺしっと何かを叩きつけられた。「う」「色気のねー声」間抜けな呻きを上げた私を、短く笑う声がする。珍しく神妙な雰囲気だと思ったらこれだ。五条先輩は私の頭を机か何かと勘違いしてるのかな。今度は何ですか、と口を尖らせかけて、私はぴたりと動きを止めた。

「……っ、先輩これ、」
「ガキは早く寝ろよ」

言いかけた私の髪をぐしゃぐしゃに掻き回して、ついでに花柄の傘を押し付けるように差しかけて、五条先輩はさっさとどこかへ行ってしまった。残された私は傘を頭に引っかけたまま、しばらくぼうっと突っ立っていた。

沖縄の有名な水族館の名前が入った、手のひらに収まるくらいの小さな紙袋。その中から出てきたのは、茶色の革紐に銀のイルカの飾りがついた、ぴかぴかのネックストラップだった。

 

 

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