22

結局、ほとんど眠れないままに翌朝を迎えた。
うとうとする度に悪い夢を見ては飛び起きて、それを繰り返すうちに窓の外はすっかり明るくなっていた。昨日と同じ朝なのに、今日の太陽はやたら白々と冷たい色をしている。窓を開けてみても、不思議なくらい何の音もしなかった。

嫌な汗で湿ったTシャツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びて、呪具を持って外へ出る。寮の中では誰にも会わなかった。先輩たちはもう戻っているだろうか。部屋を訪ねればいいのかもしれないが、昨日の今日でまだ寝ているだろうし、何より確かめるのが怖くて、足を向けることができなかった。

「……あ、七海」

体を動かしていれば気分も晴れるだろうと鍛錬場のほうへ歩いて行くと、鈍く光る金色の髪が目に入った。え、ジョギングしてる。沖縄から戻ったばかりで疲れているだろうに。向こうから一定のリズムで走ってくる七海に小さく手を振ると、彼はゆるやかに減速して私の目の前で立ち止まった。

「おはよう。昨日はお疲れ様」
「おはようございます。……どうしたんですか。普段なら日曜は遅くまで寝ているのに」
「なんか目が覚めちゃって。七海は?」
「私はいつもこの時間です」
「さすがだなあ」

私の怠惰な休日事情がすっかりバレていることについては、苦笑で誤魔化すしかない。飲み物を買いに行くという七海に、ドリンクを奢るから少し鍛錬に付き合ってほしいと頼んだ。いつもなら日曜くらい休ませろと小言が返ってきそうなものだが、今日の七海は珍しく文句も言わずに頷いた。

 

「――このくらいにしましょう」

一時間ほど組手をした頃、肩で息をする私に七海が言った。その白い肌は相変わらず涼しげで、汗の粒がひとつかふたつ流れるだけだった。それに引き換えこっちは汗だくだ。なんだか今日は体が言うことを聞かなくて、余計な力ばかり使っている気がする。

「……待っ、て、あと一本だけ……」
「ダメです。これ以上は怪我をしますよ」

ぴしゃりと撥ね付けられ、私はなす術もなく口を噤んだ。こうなった七海がもう梃子でも動かないのはよく知っている。息を整えながら呪具を下ろした私に、彼は顰めっ面でタオルを投げてよこした。そんなに大きい溜息つかなくたっていいと思う。

「どうせ昨夜はろくに寝ていないんでしょう」
「……わかる?」
「そんな顔でバレないとでも」
「え、どんな顔?」

もう会話をするのも面倒らしい七海は、またしても派手な溜息でもって返事をしてきた。七海の溜息だけで風船膨らませられそうだよね、という私の軽口も当然のように無視される。並んでベンチに座って、さっき一緒に買ったドリンクをちびちびと口に含んだ。少しぬるくなったその温度以外、味も香りも、よくわからなかった。

「二人とも無事だと聞きましたよ」
「それは、私も聞いた」
「じゃあいいじゃないですか」
「うん……そう、なんだけど」

一向に中身の減らないペットボトルを、ぎゅうと握りしめる。高専の中は昨日とは打って変わって静かで、空は澄み渡って、嘘みたいに平和だ。なのに頭の中にはあのアラートの音がいつまでも響いている。あの血溜まりの赤黒い色が、どこまでもついてくる。

「あの人たちは……特に五条さんは、特別です。昨日の侵入者だって、結局は彼ひとりで倒したんでしょう」

七海の声は淡々としていた。確かにそうなんだろう。心配したなんて言ったら、五条先輩は怒るかな。いつもみたいに呆れた顔で返事してくれるかな。それとも。

「……じきに特級認定されるとも聞きました。並の術師とはもう次元が違う」

そんな顔するだけ損ですよ。そう言って、七海は立ち上がった。

 

夏油先輩の無事をようやく直に確かめられたのは、七海とともに寮へ戻ったときのことだった。談話室のソファの背もたれから覗く黒い長髪を見つけて、私はすぐさま駆け寄った。

「夏油先輩……!」
「ナマエ、心配かけてすまなかったね」
「体はもう大丈夫なんですか!?」
「すっかり元気だよ。ありがとう」
「よかった……」

夏油先輩は、少し疲れた顔で笑った。外傷は残っていないようだけれど、その瞳にはどこか影が差して見えた。星漿体護衛の任務は失敗したのだと、誰かから聞いたことを思い出す。それが何を意味するのかを思えば、何も尋ねることはできなかった。

「あの! 京都のお土産たくさんあるので、あとで持ってきますね!」
「それは楽しみだな。悟の分もちゃんと買えたかい?」

何気ない夏油先輩の言葉に、息が詰まる。心臓がまたどくどくと不規則に暴れ始めた。五条先輩、もう、起きてるだろうか。怪我は本当に全部治ったのだろうか。

「……はい、えと、教えていただいたもの、買ってきました」
「きっと喜ぶよ」

夏油先輩が普通に名前を出してくるということは、やっぱりちゃんと元気なんだろう。二週間前、最後に会ったときの姿がうまく思い出せない。会ったらなんて言うんだっけ。……そうだ、おかえりなさいって言って、それから、無事でよかったって――

「傑〜、ちんすこうって一箱しか買わなかったっけ……あ」

少し眠たげなその声が、こんがらがった私の思考を一瞬で攫っていった。ぺたぺたと階段を降りてくる足音。首元が伸びたスウェット。寝癖のついた白い髪。真っ黒な丸いサングラスをかけた青い瞳が、こちらを向いてぴたりと止まった。

「ご、じょう、せんぱ、……」

気がついたら駆け出していた。さっきまで手にしていた呪具をどこへやったのかもわからなかった。大きな目をさらに丸くして動きを止めたままの彼の、くたくたの袖を無我夢中で掴んだ。少しでも力を緩めたら幻のように消えてしまうんじゃないかと、手が震えるほど必死になって握りしめた。

「ほ、ほんもの、本物ですか……?」
「……こんなイケメン他にいる?」
「そう、そうですよね」

ああだめだ。頭の中、もう真っ白になっちゃった。生きてる。ほんとに生きてた。それだけで胸がいっぱいだ。言いたかったことも訊きたかったことも全部飛んで行ってしまった。よかった。生きてる。息してる。喋ってる。

「……なに泣いてんのお前」
「え、あれ!? すみませ……」

自分の頬に手をやったら、信じられないくらい涙が流れていた。瞬きをする度にぼたぼたと零れ落ちて、拭っても拭っても止まらない。まるで破裂した水道管みたいだった。さっきたっぷり汗かいたのに、まだこんなに水分残ってたんだ。人間の体の三分の二は水分だっていうもんね。なるほどなるほど。

「………も、もう……会えないかと思っ、……っ」

頭ではくだらないいことばっかり考えていたから、口から出てきたのがあんまり情けない言葉でびっくりした。しかもそれすらまともに最後まで言えないのだ。喉がきゅうきゅう締め付けられて、息を吸うのも精一杯だった。五条先輩、どんな顔してるだろう。視界がゆらゆらとぼやけて何も見えない。自分が間違いなくひどい顔してるってことだけはわかる。もう困らせないって決めたのに、次に会ったらちゃんと笑えると思ったのに、全然だめだ。

「……ん」

不意に、頭のてっぺんに何かが乗っかった。カサカサとビニールの感触がする。ずり落ちそうになったそれを咄嗟に手に取ると、透明のポリ袋にさらさらの白い砂がこれでもかと詰められていた。……砂?

「オミヤゲ」
「おみ……砂……?」
「ありがたく頂戴しろよ」
「あ、ありがとう、ございます……」

……砂? どこの砂? 沖縄? ぽかんとして考えているうちに、涙は引っ込んでいた。砂の袋を手のひらに乗せたまま呆然とする私の後ろで、夏油先輩の呆れた声がする。

「悟……砂浜で何かしてると思ったら……」
「甲子園の砂的なアレだよ」
「ただの海水浴場の砂もらったってどうしようもないだろ」
「沖縄気分味わえるじゃん」

けらけら笑って、五条先輩はさっき降りてきたばかりの階段に足を向けた。その横顔はいつもと変わらない。変な悪戯をしてくるところも。なのに一瞬だけサングラスの下から覗いた瞳が、どこか途方もなく遠く、誰も知らない場所を見つめているような気がして、思わずその背中を呼び止めた。

「あの、わ、私もお土産……」
「あー俺もっかい寝るから、後でな」

くしゃりと頭を撫でられ、何も言えなくなる。いつもなら乱暴に掻き回してくるその大きな手は、そっと触れただけですぐに離れて行った。

 

夕方になって、雨が降り出した。始めはぽつぽつと小さな雫を落とすだけだった雨足は次第に強まり、日が落ちる頃には本降りの雨になった。それに釣られたわけでもないだろうが、午後からずっと頭が痛い。二日連続でよく眠れなかったツケが回ってきたのかもしれない。早々にお風呂を済ませて部屋に戻り、もう今日は思い切って寝てしまおうと、カーテンを閉めるために窓際に立った。

「……あれ?」

視界の端を白いものが横切って、私は動きを止めた。窓に顔を近づけ、下を覗き込む。僅かな常夜灯だけが照らす石畳の道を、傘も差さずに歩いていく人影があった。

 

 

 

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