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「――ちゃん、ナマエちゃーん」

目覚めた瞬間、自分がどこにいるのかわからなかった。うっすらと開けた瞼の隙間に差し込んでくる陽光がずいぶん眩しい。カーテン、閉めて寝なかったっけ。ぼんやりする目を擦って何度か瞬きをすると、こちらを覗き込んでいる呆れ顔に焦点が合った。

「あれ、しょーこさん……」
「こんなとこで寝てたの? 風邪ひくよ」
「こんなとこ……?」

寝そべったまま視線だけを巡らせて、ようやくここが自室でないことに気がついた。壁にかかった時計はすでに昼過ぎを指している。慌てて跳ね起きると、強張った肩や腰がぎしぎしと悲鳴を上げた。

「うわ、すごい寝ちゃってました……!」
「映画でも見てたの?」
「なんかよくわからない海外ドラマを……」
「何それ」
「五条先輩が」
「五条?」

硝子さんが首を傾げるのを見て、ぴたりと口を噤む。昨夜の出来事はぜんぶ夢だったんじゃないかという気がした。携帯を開いてみても、0時前の着信以外には何の痕跡もない。遠くで笑った五条先輩の声が、妙にくっきりと耳の奥に残っているだけだった。

いまだ訝しげな硝子さんに、なんでもないですと首を振る。
会いたいな、と思った。顔を見て、おかえりとただいまを言いたかった。あれだけ避けようとしていたのに、我ながらいい気なものだ。

 

けたたましいアラートの音が鳴り響いたのは、十五時を少し回ったときだった。私はといえば、例によって職員室で捕まえた先生に稽古をつけてもらい、ぼろぼろになって寮に戻る途中だった。なんだか体がだるいなあ、変な時間に寝たせいかなあ、なんてぼうっとしながら歩いていたから、びっくりして危うく段差を踏み外すところだった。

「え、な、何事……?」

確か、未登録の呪力を感知すると警報が鳴る仕組みのはずだ。五条先輩との喧嘩の最中、夏油先輩が呼び出した呪霊に反応して鳴っているのを、何度か聞いたことがある。逆に言えば、強固な結界が張り巡らされた高専内でこのアラートが鳴る理由なんて、普段はそれくらいしかない。確かにそろそろ先輩たちが帰ってくる時間だけれど。でもいくらなんでもあの二人、というか夏油先輩が、任務の重要な局面でそんなことをしでかすとは考えられなかった。

胸元で携帯が震えた。高専からの緊急連絡のメールだった。――『高専敷地内に侵入者あり。準一級以上の術師は至急、正面玄関前に集合。学生は屋内に避難して指示を待つこと』。

侵入者。簡素なメール画面の中で、その三文字がやけに毒々しく映る。ひどく胸騒ぎがした。大丈夫、大丈夫だよね。じっとり汗ばんだ手のひらを握りしめて、私は寮への帰路を急いだ。

 

「――了解です。すぐに向かいます」

談話室に駆け込むと、硝子さんが誰かと電話をしているところだった。いつになく鋭い表情を浮かべたその横顔を見て、胸の内にじわりと暗い影が広がっていく。硝子さんに連絡が来るということは、誰かが負傷したのだろうか。

「硝子さん……」
「メール見たね? 指示があるまでここにいるんだよ。私は治療に出るから」
「誰か怪我したんですか」
「夏油が重体らしい」

心臓がどくんと嫌な音を立てた。冷たい汗が背中を伝い落ちる。夏油先輩が。さっきのアラートはやっぱり。侵入者って。思考が細切れになって、何ひとつ掴めないまま流れ去っていく。

「重体って……!」
「息はあるみたい。いま応急処置してもらってる」
「五条先輩、は」
「……そっちはまだわかんない」

硝子さんが低く答える。だめだ、頭がうまく回らない。

「いい? 勝手に外に出ちゃダメだからね」
「硝子さ、」
「大丈夫だから」

大丈夫。呪文のように繰り返すと、硝子さんは私の手を一度だけぎゅっと握って、慌ただしく出て行った。その白い肌の柔らかさもわからないくらいに、私の指先は冷え切っていた。

――夏油先輩が、重体。じゃあ、一緒にいたはずの五条先輩は。

どす黒い不安が爪先から這い上がって、全身を蝕んでいく。手にした呪具をきつくきつく握りしめた。すぐにでも飛び出してしまいそうになる足を抑えつけるだけの理性は、まだ辛うじて残っていた。
硝子さんみたいに反転術式が使えるわけでもない。何の役にも立たない。そんなことは自分が一番よくわかっている。

「……帰って、きて」

呪具を握った拳に強く額を押し付ける。お願い。お願い。無事に帰ってきてください。『誰に言ってんだよ』って、また笑い飛ばしてくれていいから。

いまは、ここに留まることが私の役割なのだ。わかっていても、何もできない自分が憎くて仕方なかった。

 

どれくらい時間が経ったのかわからない。携帯のバイブレーションが一際大きく響いて、はっと我に返った。担任の先生からの電話だった。まずは、夏油先輩の治療が順調に進んでいること。それから、いま高専にいる術師総出で、敷地内に溢れかえった蠅頭の祓除を行うことが伝えられた。私も寮に残っていた三年生の先輩たちと一緒に、蠅頭を追いかけて結界の端から端まで走り回った。五条先輩の安否は、まだわからないままだった。

夕暮れの朱い光の中で、激しい戦闘の痕を見かけた。捲れ上がった石畳や、吹き飛ばされた建物、そこらじゅうでばらばらに崩れ落ちた塀の残骸を目の前にして、私はしばらく動けなかった。その中心に残された夥しい量の血溜まりが誰のものかなんて、考えたくもなかった。

 

「五条、無事だって」

硝子さんが戻ってきたのは、もうすっかり夜も更けた頃だった。部屋に戻る気分にもなれず談話室でぼうっとしていた私は、彼女の言葉を飲み込むまで、相当の時間を要した。

「……え」
「生きてるし、なんならピンピンしてるって。夏油からの報告だから間違いないよ」

生きてる、無事、ピンピンしてる。そのどれもが、さっき見た光景とまるで結びつかない。

「でも、けが、怪我を……!」
「私も本人に会ってないからよくわかんないけど、自力で治したらしい」

反転術式、使えるようになったんだって。呆れまじりに言って、硝子さんは疲れた顔で笑った。夏油先輩が言っているのだから本当なのだろう。でも、あんなに血が出るほどの傷を負って、硝子さんの治療も受けていなくて、それで元気だなんてことがあるだろうか。

「ナマエちゃんも、今日はもう部屋で休みな。あいつら待ってたら何時になるかわかんないよ。任務の報告やらで軟禁状態」
「でも」
「顔、真っ青だよ」
「……はい」

促されるまま、のろのろとソファから立ち上がる。泥の中を歩いているみたいに体が重い。まともに眠れる気がしなかった。
今朝のあの他愛もない電話を最後に、もう二度と、永遠に言葉を交わすこともできない未来だってあったのかもしれないと、そう思うだけで胸の底がひどく冷たくなって、息もできないくらいに恐ろしかった。

 

 

 

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