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「あ。そーいえば俺の連絡先、登録しといてやったから」
「へ!?」

コンビニから高専へと帰る途中、だらだらと歩きながら五条先輩が私のポケットを指した。慌てて携帯を取り出して連絡先リストを開くと、五条悟、という文字が目に飛び込んでくる。え、え、何これ。

「やっぱ登録人数クソ少ねーじゃん」
「……か、勝手に人の携帯いじらないでくださいよ!!」
「ロックかけてないやつが悪い」

悪びれもせず舌を出した五条先輩に、私は何も言えなくなった。……待受画面、変なのにしてなくてよかった。この前、幸せを呼ぶという謎のおじさんの画像から可愛い犬の写真に変えたところだったのだ。これはもしかしたらおじさんのご利益かもしれない。

不幸中の幸いを噛み締めつつ、涼しい顔で隣を歩く先輩をじとりと見上げる。先輩はすでにサイダーを一本飲み終え、二本目に手をかけていた。それは夏油先輩の。

「五条先輩ってほんと自由ですよね……」
「お前が頭固すぎんじゃね?」
「そんなことは」
「じゃあなんか面白い話してよ」
「なんでですか!?」
「早く〜」

『じゃあ』の使い方が間違っている。しかし私が抗議したところで、この人に何ら効果があるはずもなかった。彼は彼の中に独自の辞書を持っているのだ。

「……え、えーとえーと、昔々あるところに、」
「おばあちゃんかよ」

苦し紛れに捻り出した話はすかさず却下された。やっぱりダメだった。まず無茶振りする相手を間違えていると思う。芸人さんじゃあるまいし、そんなにポンポン面白い話なんかできるわけがない。

「なんかあるだろ。中学時代、実は不良でした〜とか」
「……どっちかと言えばいじめられっ子でしたね」
「裏切らねーな」

つまんねえやつ、と言い放った先輩の爪先が道端の小石を蹴った。

(あれ、)

跳ねた小石の行方をなんとはなしに目で追っているうち、ふと気がついた。私、今日は早足にも小走りにもなってない。

(……ずるい)

すぐ横でずいぶんと緩やかに動く長い脚を見つめ、溜息をつきたい気分になる。ああ、気づきたくなかった。こうやって、不遜な振る舞いの中に気まぐれみたいに紛れ込んだ優しさを見つけるたび、寿命が縮みそうなほど私の胸がぎゅっとなることを、先輩はきっと全然わかっていない。

「……そっそういえば! 中一のとき、いつも髪を引っ張ってくる男子がいて、それが嫌でばっさり切ったことならありましたよ」

少しだけ大きくした歩幅がバレないように、私はつとめて明るい声を出した。たぶん、これなら昔話よりは面白いんじゃないだろうか。まあ当時の私はこの世の終わりみたいな気持ちだったわけだけど。

「……そんな嫌か?」
「嫌ですよ! 好きでもない相手に」
「そいつぶっ飛ばせばいーじゃん」
「先輩と一緒にしないでください……」

不穏なことを口走った後で、五条先輩はついとこちらを見下ろした。珍しく意地悪でも蔑むでもない、あどけないとすら言える顔だ。だから、急に“素”っぽい顔されると心臓に悪いんだってば。それだけで私の心拍数は跳ね上がってしまったのに、先輩はさらにとんでもないことを言い出した。

「じゃあさ、俺に触られんのはいいわけ?」
「え?」
「髪」

……五条先輩に、髪を。
一瞬で頭がフリーズする。ぱっかり口を開けた私をよそに、先輩は平然と続けた。

「お前、俺のこと好きじゃん」
「それまだ言います!?」

頭を抱えた私を見て、五条先輩はけたけたと笑った。そのセリフ、久しぶりに聞いたけど、相変わらずの破壊力だ。もう飽きたとばかり思ってたのに。

それでようやく正常な思考回路が戻ってきた。冷静に考えて、五条先輩に髪なんか触らせられるわけがない。好きじゃない相手にも触られたくないが、好きな相手ならなおさらだ。
だって先日の任務に出かけたとき、さらっと掬われただけでいっぱいいっぱいだったのに。せめてもう少しちゃんとケアしてからじゃないと無理だ。うん、無理。

「……ご、五条先輩はダメです」
「は?なんでだよ」
「なんで!? だからあの、トリートメントが、その……」
「はあ?」
「とにかくダメです!!」
「……」

いつになく毅然とした態度を取ると、先輩は不服そうに眉根を寄せた。なんとなく身の危険を感じるのは気のせいだろうか。じりじりと後ずさりをすれば、先輩もじりじりと距離を詰めてくる。

「な、なんですか」
「ダメって言われると何が何でもやりたくなるんだよな」
「は!?」

咄嗟に髪を押さえるより早く、先輩の手が滑り込んできて私の頭を両側から挟んだ。そのまま髪の隙間に指を差し込まれる。骨張った指先が頭皮を撫でると、背筋に何かが走ったみたいにぞくりとした。

「や、やめ……っ!」

思わず目をつむる。雑に頭を掴んでいた先輩の手は一瞬だけ止まって、それからまたやんわりと動き出した。

「……そんな身構えんなって」

少し拗ねたみたいな声の後、ゆっくりと髪を梳くように、長い指が毛先まで滑っていく。それは予想外に繊細な仕草で、私の胸をまたざわつかせた。髪の一本一本まで神経が通っているように錯覚してしまうくらい、その指先に意識が絡め取られて何も考えることができない。本当にもう、乱暴なのか優しいのか、どっちかにしてほしい。頭がぼうっとして、なぜか涙が滲みそうになった。

先輩の手が離れる頃、そろりと目を開けてみれば、指に絡めた毛束を見つめる青い瞳が楽しそうに笑っていた。

「お、枝毛発見」
「ああ〜〜! だから言ったのに……!!」

慌てて五条先輩から離れ、傷んだ毛先を握りしめる。それでようやくまともに呼吸ができるようになった。――なんだったんだろう、今のは。またいいように翻弄されてしまった。

ちらりと窺った五条先輩は、満足げににんまりとしているだけだった。ひとりだけ動揺しているのがなんだか恥ずかしくなって、半分皮肉を込めて言ってやる。負け惜しみとも言う。

「せ、先輩は何もしなくても髪キレイだからいいですよね!」
「当たり前じゃん、俺なんだから」

なに馬鹿なこと言ってんの?と言わんばかりの目で見られ、私はあえなく撃沈した。

 

「ただいま戻りました〜……」

ようやく寮に戻って共有スペースに足を踏み入れると、待ちくたびれたらしいみんなの視線が一斉に集まった。テレビの画面にはゲームの映像が映し出され、夏油先輩と灰原がコントローラーを握っている。換気扇の下で煙草をくゆらせていた硝子さんが振り返って、のんびりした声で迎えてくれた。

「おかえり。遅かったねー」
「お待たせしてすみません……!」
「こいつ、一般人に誘拐されそうになってんの」

五条先輩はテーブルにコンビニ袋を置きながら、わざと大きな声で言う。

「だからされませんって!」
「げ。まじで変質者に遭ったの?」

事情を説明したら、硝子さんはよしよしと頭を撫でてくれた。優しい…。ついでに赤くなった手首を反転術式で治してくれる傍ら、非難めいた視線を五条先輩に向ける。

「五条がついて行かなかったせいだ」
「悟がついて行かなかったせいだね」
「何なのお前らまじで」

ゲームを終えたらしい夏油先輩が重ねて言った。こちらは完全に面白がっている。テンポよく交わされる会話は、豪速球を投げ合うキャッチボールみたいだ。他人事のように感心して眺めていたら、不意に五条先輩の手が伸びてきて首根っこを掴まれた。

「お前らがそうやって甘やかすから、一人でコンビニも行けないポンコツに育っちゃったじゃん」
「え」
「え、じゃねーよ。お前だよお前」

引っ立てられた罪人ってこんな気分なのかもしれない。いやでも、あの男の人さえいなければ、少し遅れはしたかもしれないけれどちゃんと帰ってこられたはずだ。大見栄を切って出かけた手前、ちょっとくらい弁解させてほしい。

「い、行けますってば……」
「行けてねーじゃん」
「……行けたけど帰れなかったと言いますか……」

精一杯の抵抗を見せた私に、五条先輩は「へえ〜」と言いながら口元を引き攣らせた。もちろん納得も感心もしていない声だ。やばい、余計なこと言った。

「……生意気言いやがるのはこの口かな〜?」
「い、いひゃい!」
「ナマエチャンね〜、帰ってくるまでがお遣いだからね〜」
「……あい……」

逃げる間もなく、五条先輩に両手で頬を掴まれ左右に引っ張られた私は、一瞬で白旗を揚げた。子供に言い聞かすような口振りだが顔は悪魔のように笑っているし、何より力加減に容赦がなさすぎる。これ以上顔が歪んだらどうしてくれるんだ。

「でも、それを言うなら悟だって大概じゃないか?」

私の頬を両手で押し潰し、「ぶっは! 変な顔!」と盛大に笑ったところで、五条先輩はぴたりと動きを止めた。ソファで優雅に頬杖をついた夏油先輩が意味ありげに笑っている。

「は? お前らと一緒にすんな」
「だってちゃんと迎えに行ってあげたじゃないか」
「ジャンケンで負けたからだっつの」
「ずいぶん仲良くなったみたいだし?」
「………」

再び私の顔を見てきっかり三秒後、五条先輩はぱっと手を離した。「傑、対戦しよーぜ」と言いながらソファに体を沈め、ゲームのコントローラーを手に取る。興味はすっかりそちらに移ったようだった。顔が変形する前で助かった。

じんじんと痛む頬を労るように両手で包み込む。正直、五条先輩のほうが変質者よりよっぽど危険だと思うな。

「あー喉乾いた。ナマエ、飲み物とって」
「え、あ、はい」

ゲームの画面を見つめたまま五条先輩が言った。もうないですよ、と突っぱねられないあたり、私はつくづくこの人に弱いみたいだ。自分用に買ってきたフルーツジュースを手渡したら、五条先輩は何も言わずに受け取って、キャップを開けてごくりと飲み込んだ。さようなら、私のジュース。迎えに来てくれたお礼ということにしておこう。

ジュースへの未練を断ち切るように視線を逸らしたら、部屋へ引き上げようとしている七海と目が合った。ふと五条先輩に言われたことを思い出す。

「七海」

七海は相変わらずの仏頂面で、でも律儀に私の言葉を待ってくれている。少しためらってから、私は思い切って口を開いた。

「その、今度あったら、一緒に来てもらってもいい……?」
「……まあ、気が向いたら」
「……うん!」

ありがとう、と言えば、彼は少しだけ笑ってくれた。

 

 

>> 12


お互い遠慮がなくなってきた感じ。