08

「五条、先輩」

長い足を持て余したように雑に組んで、どっかりと腰を下ろしていたのは五条先輩だった。こんな曇り空の下でも白銀の髪はきらきらと輝いて、それを目にしただけで、また私の心臓はみっともなく跳ねた。

「……なんだよ。俺じゃ悪い?」

形の良い唇をへの字に歪め、眉を顰めた顔は不機嫌そうだった。それでも昨日のような冷たさは感じなくて、少しだけほっとした。

「もう出歩いていいのかよ」
「はい……ご迷惑を、おかけしました」

いつもみたいに笑おうとしたけれど、やっぱりうまくいかない。強張った頬を無理やり引き上げることも元に戻すこともできず、私は中途半端な顔のまま先輩から目を逸らした。

――何か言え、早く、早く。これ以上、幻滅されたくない。

どくどくと脈打つ心臓が私を急かす。息を吸い込んだら、ひゅっと乾いた音が響いた。

「こ、これからは、もう先輩の足を引っ張らないように、……」

言いかけたところで、私は言葉に詰まった。

『辞めれば?』そう言い放った五条先輩の顔がちらつく。これから、なんて、言う資格が私にあるのだろうか。口を開いたり閉じたりを繰り返しているうち、言葉はしぼんで消えていった。

本当にだめだ、私。開き直って自分を貫くことも、潔く退くことも、うまく取り繕うことさえできない。それなのにまだこの場所に留まりたいなんて、醜く思い続けてしまう。

口を噤んだ私の隣で、プシュ、と缶の開く音がした。

「……なんで呪術師になりたいの」

しばらくして、五条先輩が静かに言った。重たい頭をのろのろと上げれば、黒いレンズの向こうから、透き通る青が私を見ていた。

そのまっすぐな瞳を目にした途端、何かが胸の奥でほろほろと解けていくような感覚がした。……ああ、やっぱりこの人はすごい。この瞳の前ではもう、嘘も誤魔化しも意味がないのだと思わされてしまう。

私は震える喉を叱りつけて、情けないほど掠れた声を絞り出した。

「……強く、なって、そしたら、何かを守れる人になれると、思って」

ぽつぽつと言葉を落とすうちに、心の底で記憶の蓋が少しずつ開いていく。いまさら思い出したくもない、遠い日のことだ。

スカートを握りしめる手のひらに、冷たい汗が滲んだ。

「私の、両親……呪霊に襲われて、死んだんです」
「……ふうん」
「私だけ、助かって」
「……」
「わた、私がもっと、強かったら、助けてあげられたのに、って」

怖くて怖くて、ただ震えることしかできなかったあの日の自分。もっと勇気があれば、力があれば、何かを変えられたのかもしれない。そんな意味のないことを繰り返し考えてしまう。何度も何度も。

「……それ、いくつんとき?」
「六つになるかならないか、です……」
「無茶苦茶だろ」
「……そう、ですよね」

頭ではわかっていた。術式が発現したばかりの子供に、何ができたというのだろう。

「でも、わからなかったんです。私にも、あの人たちにも」

頭の中でさざなみが立つように声がする。もう誰のものかもわからなくなってしまったそれが、真っ黒な影になって私を追い立てる。

『まだ若いのに、可哀想に』
『子供は術式を持ってるんだろう。自分だけ助かったのか?』
『ちょっとばかり呪力があったって、なんの役にも立ちやしない』
『あの子の面倒を? 私は嫌よ、気味が悪い』
『いっそのこと一緒に死んでいてくれれば——』

葬儀の後、ただぼんやりと立ち尽くすだけだった私の耳に、その会話は妙に鮮明に聞こえた。子供には何を聞かれても構わないと考えたのか、あの人たちも何かに怯えていただけだったのか、いまとなってはどうでもいいことだ。けれどその言葉たちは呪いのように私を蝕んで、がんじがらめにして、いつまでも離してくれなかった。

――言われなくたってわかってる。私が一番、私を赦せないんだから。

こんなことにずっと縛られているんだと言ったら、五条先輩は笑ってしまうだろうか。

 

「……お前って、やっぱ馬鹿だな」

そっと落とすように呟かれた言葉で、私の意識は思考の底から浮かび上がった。

ふうと息を漏らしたかと思うと、五条先輩は勢いよく足を前に投げ出した。ベンチが揺れて、私の体も揺れた。先輩はそれから大きく口を開けて、あーめんどくせえ、と声とも溜息ともつかない音を吐き出した。その口調は、いつものあけすけなものにすっかり戻っている。

ぽかんとしている私の鼻先に、先輩はその長い指を突きつけた。

「まずさあ、お前は自分がポンコツだってこと自覚しろ。俺を庇うなんざ1億年早えんだよ」
「は、はい」
「自分だけで手一杯のぺーぺーが他人のこと気にしてる場合か?」
「ごもっともです……」
「あと外野なんかほっとけ。なに言われたんだか知らねーけど、弱いくせに声だけデケェんだよそういうやつらは」
「………はい」

五条先輩の口からは、びっくりするほどの悪態がどんどん飛び出してきた。いまからこの世のあらゆる気に食わないことを切って捨ててやると言わんばかりに威勢が良かった。

その言葉たちが、私にはまるで、鮮やかな放物線を描いて曇り空に向かって飛んでいくように思えた。

「……できもしないことあれこれ考えたって仕方ねえだろ」

俯いた私の頭を先輩の大きな手が鷲掴みにして、そのままわさわさと掻き回した。しっかりしろと言われた気がした。もしかしたら私の勝手な期待かもしれないけど、そう思いたかった。

「お前みたいなやつは自分のことだけ考えてりゃいいんだよ。ただでさえ馬鹿なんだから」
「あだっ……!」

最後に後頭部をぺしんとはたいて、先輩の手は離れていった。骨張った指がゴツゴツと当たって、痛かった。

この人はこの手で、どれだけの人間を救うのだろう。

「……五条先輩」
「なに」
「私、がんばります……」
「……あっそ」

……もう一度がんばろう。
染みついた記憶はまだ拭えなくても、いつかこの人の前で、胸を張ってちゃんと立てるように。

「あと、次同じことしたらマジビンタな」
「えっ……!!」

五条先輩は急に目をぎらつかせて言った。それは嫌だなあ。先輩のビンタははちゃめちゃに痛いと聞いたことがある。恐怖に慄く私をよそに、先輩は弾みをつけてベンチから立ち上がると、私の頭の上にこつんと何かを置いた。

「……?」

手に取ってみれば、それはミルクティーの缶だった。空っぽの。

「捨てといて〜」

呑気な声で言いながらふらりと去っていく先輩に、私は怒ることも呆れることもできなかった。ただその空き缶を両手で握りしめて、急にあふれそうになった涙を必死に我慢していた。

 

 

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