03

五条先輩にパシられ始めてから約二週間が経った。顔を合わせるたびに、やれジュースを買ってこいだの、ゴミ出しを代われだの、肩を揉めだのと、私は文字通り好き放題にこき使われた。

仕方がない。断ろうものなら、あの身悶えするような台詞を何度でも聞かされるのだから。それでなくても、好きな相手から、しかもあの恐ろしいほどに綺麗な顔で頼み事(という名の命令)をされて、首を横に振れる自信は私にはない。

ただ、最初のうちこそいいように弄ばれていた私だが、だんだんと先輩が何を命じてくるのか事前に察知できるようになった。つまりは、五条悟のパシリとしてめざましい成長を遂げていた。結果、先輩が事あるごとに切ってくる最強のカード『俺のこと好きなんだろ?』は、ここのところ封じ込めることに成功していた。

何か言う前に私が動いてしまうものだから、先輩は次第につまらなそうな顔をするようになり、ついには私に構うことに飽きたようだった。というわけで、今日は久しぶりにパシられない週末を過ごしている。それはそれで悲しいものがあるのは否めないけれど。

「あ、いたいた。ナマエちゃーん」

寮の共有スペースのソファで気ままに雑誌をめくっていると、家入先輩――あらため、硝子さんがやって来た。告白事件以来、硝子さんにはとても仲良くしてもらっている。クズどもの相手に飽きてたとこなんだよ、などと言って何かと気にかけてくれるので、私はすっかり硝子さんのことが大好きになった。調子に乗って、名前で呼ぶお許しまでいただいてしまうほどに。

「これあげる。貰い物なんだけど、私食べないから」
「え、いいんですか!」

隣に座った硝子さんが手渡してくれたのは、有名パティスリーのチョコレートだった。お洒落な箱に上品なレースのリボンがかかっている。明らかに特別な相手への贈り物のように見えた。

「これすごく高いやつでは……誰にもらったんですか?」
「……パトロン?」

私の問いに少し考えた後、硝子さんは本気か冗談か分からないような顔で言った。パトロン、ってなんですか。

「今日は五条にパシられてないんだ?」
「あ、はい。なんか最近あまり構われなくなりました……」

それが残念であるかのように言ってしまう自分が少し可哀想になる。パシリ根性ここに極まれり。
硝子さんに曖昧な笑みを返したところで、でも、とふと思い当たった。よく考えてみれば、告白事件をきっかけに嫌われたり避けられたりするよりかは、百倍マシだったのかもしれない。

「もしかして、気まずくならないようにっていう五条先輩の優しさだったのでは……?」
「あっは、面白いこと言うね」

硝子さんは軽快に笑って、自分で持ってきたマグカップに口をつけた。砂糖もミルクも入っていない、真っ黒なコーヒーだ。歳はひとつしか違わないのに、硝子さんはいつもすごく大人びて見える。艶のある横顔を盗み見ながら、私は甘ったるいココアを飲んだ。

「まあ真面目な話、夏油が口酸っぱくして叱ってたのが効いたんじゃない?」
「夏油先輩が?」

しばらくしてカップをテーブルに置いた硝子さんは、雑誌に目を通しながら興味なさげに言った。
聞けば、私が毎日のように変なあだ名で呼ばれ、こき使われているのを見かねた夏油先輩が、五条先輩を叱ってくれたらしい。いわく、人の好意に付け込むなと。結局そこからまったく関係ない話に飛び火して、二人は派手に喧嘩したのだとか。

「夏油も大概クズだけど、変なとこで律儀だからね」

意味わかんねー、とけらけら笑った硝子さんの背後に細長い影が落ちたのは、そのときだった。

「なんの話かな?」
「おっと、口が滑った」

ぱちんと音を立てて自らの口を手で覆った硝子さんに、夏油先輩はニヒルな笑みを向けた。噂をすればなんとやら、だ。ソファの背もたれ越しに私たちを見下ろす彼は、ラフなTシャツとスウェットを身につけている。今日は珍しく任務がないみたいだ。

「ご一緒しても?」
「え! はい、もちろん」

夏油先輩は私に声をかけると、三人掛けのソファの、私を挟んで硝子さんと反対側にふわりと腰掛けた。夏油先輩とこうして身近に話すのは初めてかもしれない。ちょっと緊張する。

「チョコレート?」
「あ、はい! 硝子さんにいただいて」

テーブルの上の箱に気が付いた夏油先輩に答えると、彼は意外そうな顔で私を見た。

「へえ。もう名前で呼び合うくらい親しくなったのか」
「その、仲良くなりたくて、お願いしてみました……」

親しく、なんて言われると少し照れてしまう。一方的に私が慕っているだけのような気がしなくもないけれど、硝子さんが否定しないのでそういうことにしておこう。

「悟にいじめられていたから心配だったけど、硝子と気が合ったならよかったよ」
「クズと一緒にすんなよ」

朗らかに笑う夏油先輩と不満そうな硝子さんを見て、私も自然と笑みがこぼれた。こんなに後輩を気にかけてくれるなんて、二人とも面倒見がいいんだなあ。だから五条先輩ともうまくやれるんだろう。こんなことを本人に言ったらキレられそうだから、心の中で思うだけにする。

「……あの、夏油先輩」
「ん?」

会話が途切れたタイミングを見計らって、思い切って声をかけた。切長の黒い瞳がこちらを向いて、先を促すようにゆるりと瞬きをする。……いまなら。

「よ、よかったら先輩も私のこと、下の名前で呼んでくれませんか?」

なるべくなんでもない風に聞こえるように一気に言い切る。それは、同期の二人にもお願いしたことだった。七海には「なぜそんな必要が?」とかなんとか言って少し渋られた。やっぱり変に思われるだろうか。先輩相手に馴れ馴れしかったかな。そっと夏油先輩の顔を窺うと、彼はきょとんと目を丸くしていた。

「私は構わないけど、いいのかい?」
「はい、ぜひ。そのほうが、あの……しっくりくるので!」

なんとか当たり障りのない言い回しを捻り出す。夏油先輩は不思議そうにしていたけれど、それ以上踏み込んでくることはなかった。

「そうか。じゃあ、ナマエ」

先輩は穏やかに微笑んで、さらりと名前を呼んでくれた。あんまり自然なので、ずっと前からこうだったようにすら思えるくらいだった。それだけで、言い様のない安堵感が胸に広がっていく。

――苗字で呼ばれるのは落ち着かない。たぶん、私はまだこの姓を消化することができていないのだと思う。そのことを考え始めたらまた仄暗い気持ちが這い出してきそうで、私は心の底に蓋をした。

「そうだ! せっかくだからチョコレート食べましょう。夏油先輩は甘いもの平気ですか?」
「うん、ひとつ頂こうかな」
「私いらないから二人で食べちゃっていいよ」

もやもやした気持ちを振り払うように、私はチョコレートの箱を手に取った。しゅるしゅるとリボンを解いて蓋を開けると、仕切られた箱の底に十二粒のチョコレートが整然と収まっている。色とりどりのチョコたちは見た目にもたいそう華やかだった。フランス帰りのパティシエがぴかぴかのステンレスのキッチンで作っている姿が目に浮かぶようだ。ただの想像だけど。

「うわあ、綺麗なチョコ!」
「へー。意外とセンスいいじゃん」

硝子さんが言っているのは例のパトロンのことだろうか。彼女は一緒に入っていたチョコレートの説明書きの紙を手にとって、箱の中身と見比べている。

「えーとなになに。ピスタチオ、フランボワーズ、抹茶、オレンジピール…」

読み上げながら、硝子さんはひとつひとつ指差して味を教えてくれた。どれも美味しそうだけれど、その中でも一際目を引く、青色のチョコレートが気になった。

「硝子さん、これは?」
「キャラメルソルト。ハーブで色をつけてるんだって」
「へええ」

私は箱を自分の膝の上に乗せて、しげしげと眺めた。こんな色のチョコ、初めて見た。都会のチョコはオシャレだ。宝石のようにきらきらと輝くその青いチョコレートは、少しだけ五条先輩の瞳に似ている。そのまま手を伸ばして、指先でつまもうとした矢先だった。

背後から伸びてきた長い指が、ひょいっとそれをさらっていった。

「あ」

思わず声が漏れ、その指を追いかけて振り返る。そこには、たったいま思い描いた通りの青い瞳をしたその人が立っていた。

「五条先輩、」

チョコレートを咀嚼する口元を呆然と見つめていると、その形の良い唇が急に歪められる。

「うわ甘ッ。お前、ココアとチョコ? 太るぞ」
「うぇっ!?」

いきなり登場した五条先輩にどう反応していいかわからず、私はテーブルに置いたココアのカップと手元のチョコレートの箱とを何度も見比べた。独り占めしようと箱を抱えているように見えなくもない。

「ち、ちがうんですよこれは! 決して全部ひとりで食べようとしてたわけじゃなくて!」
「別に聞いてねえし」

慌てて弁解してみるが、先輩は呆れたように私を見下ろしてくるだけだった。ちがう、ちがうんだけど、五条先輩にとっては本当にどうでもいいんだろう。私の座っている位置を指差して、先輩は短く言った。

「つーかそこどいて。俺座る」
「あっはいただいま……!」

よくよく考えたら理不尽な要求なのに、ここ2週間ですっかり飼い慣らされた私は反射的に立ち上がった。するすると後ずさって場所を譲ると、五条先輩は長い足を投げ出してどっかりと腰を下ろす。硝子さんと夏油先輩はなんとも言えない顔でこちらを見ていた。そんな目で見ないでください。

「ナマエ、ちょっとおいで」

居場所がなくなって仕方なくソファの背後に回った私に、夏油先輩が振り返ってちょいちょいと手招きをした。なんだろう。顔を寄せると、口の横に手のひらを添えて耳打ちしてくる。

「少しは言い返さないと、悟が調子に乗るよ」
「おい聞こえてんぞ傑」

すかさず五条先輩がぴしゃりと撥ね付けて、夏油先輩はおかしそうに笑った。絶対にわざとだ。

「ナマエが可哀想だろう」
「いーんだよ後輩は立たせとけば」

ぞんざいな態度で言って、五条先輩はまた一粒チョコレートを口に放り込んだ。結局また食べるんですか、とはもちろん言えなかった。

……そういえば、下の名前で呼んでくださいって五条先輩には言っていなかったな。そう思い立って、しかしすぐにその考えを打ち消した。この2週間、変なあだ名かお前としか呼ばれていない相手には必要なさそうだ。本当にただのパシリとしか思われていなさそうで泣けてくる。

先輩たちは仲良く雑誌を覗き込んで、あーでもないこーでもないとお喋りを始めていた。これ以上ここにいてもお邪魔になりそうだし、部屋に戻って課題でもしようかな。

「あの、私そろそろ部屋に戻りますね」

声をかけると、硝子さんと夏油先輩は顔を上げて軽く手を振ってくれた。期待はしていなかったけど、やはり五条先輩は背を向けたままだ。会釈だけして踵を返したときだった。

「——あ、ナマエ」

背中から五条先輩の声がして、私は一瞬、耳を疑った。いま、いまのって。

「あとでTSURUYAにDVD返しに行ってき、」
「せんぱい」

先輩がこちらを向いて何かを言いかけたけれど、聞いている余裕がなくて遮ってしまう。怒られるかな、なんて心配はすぐに頭から消えていった。

「いま、なま、なま」
「は? 生?」
「……なまえ、呼んでくれたんですか」
「いやお前があだ名で呼ぶなっつったんじゃん」

大きな瞳がサングラスの奥から怪訝そうにこちらを見ている。ソファに座ったまま振り返った先輩と私の目線の高さは同じくらいだった。いつも見上げるばかりだったのに、いまはすぐ目の前にふわふわの白い髪がある。顔、小さいなあ。

「……ありがとう、ございます」

どきどきする胸から絞り出すように言った。たった一度、名前を呼ばれただけなのに、体中が熱を帯びていくのがわかる。硝子さんや夏油先輩や七海や灰原に呼ばれるのとは全然違う。

知らなかった。好きな人に当たり前のように名前を呼んでもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。なんでもないような響きが、こんなにも特別な意味を持つなんて。

「……お前さ、」

少しの沈黙の後、五条先輩が何かを言いかけた。顔を上げようとしたら、大きな手に頭を抑えこまれる。え、と思っているうちに、その手は今朝がんばってセットした髪をぐちゃぐちゃに掻き回して離れていった。

「変なカオ」

乱れた前髪の隙間から、いままでで一番優しい顔をした五条先輩が見えた。

 

 

>> 04


パシリから後輩に昇格した模様。

2021.05.11 加筆修正