歴史的大失恋の翌日も、特に変わりなく世界は動いていた。いつものように朝は来たし、授業も予定通りに始まった。あまりに変わり映えしないので、このまま昨日の出来事もなかったことにならないかな、という淡い期待すら私に抱かせた。
いたって平和に午前の座学が終わると、私たち一年生は鍛錬場に集まるように言われた。近接戦闘の基本の身のこなしや、受身の取り方なんかを教えてもらえるらしい。体術は私の重要課題のひとつだ。同級生の七海と灰原と並んで歩きながら、気合を入れるために髪をぎゅっとひとつに結んだ。
「私、格闘あんまり得意じゃないから頑張らないと……!」
「気合入ってるね! 今日は先輩たちが相手してくれるって先生が言ってたよ」
「え? 先輩って、」
誰が。灰原から答えが返ってくる前に、鍛錬場の入り口に人影があるのが目に入る。ちょっと待って。あのノッポの白髪はもしや――
「あ。告白女」
「こっ……!?」
近づいた私たちを振り返るなり、五条先輩は表情も変えずに言い放った。よりによって、いま会いたくない人ナンバーワン。真新しい記憶がみるみる蘇ってきて、一気に顔に熱が昇った。
「そっ、その呼び方はやめてください……!」
「あ? なんでもいいだろ別に」
「さすがに恥ずかしいので!!」
いますぐその口を塞ぎたいが、あいにくそんな度胸はないので、代わりに人差し指を立てて静かにしてくれと懇願する。そんな私を見て先輩は一瞬ぽかんとした後、悪鬼のような顔で笑ってみせた。
「人前であんなでっかい声で告白してきたくせに?」
「ああああ……!」
私はたまらず両手で頭を抱えた。七海や灰原の視線が痛い。特に七海。一連のやり取りを見ていた夏油先輩が、いい加減にしなよ、と五条先輩を嗜めている。お願い、もっと言ってやってください。
「というわけで、今日は俺たちが相手してやるから。感謝しろよ後輩ども」
ひとしきり私をからかって遊んだ後、五条先輩は尊大な態度でのたまった。家入先輩は別件で不在らしく、今日は五条先輩と夏油先輩のふたりが面倒を見てくれるという。私たち一年生は横一列に並ばされ、先輩たちと向かい合った。四方八方みんな背が高いので、ちんちくりんの私にはとても居心地が悪い。特に先輩たちの威圧感といったらなかった。普通の学校だったら間違いなく不良の頂点に君臨していたことだろう。
「じゃあまずお前は俺とな」
「え」
一人一人にざっと視線を走らせた五条先輩が最初に指名してきたのは、私だった。聳えるような高さからじろりと見下ろされて身が竦む。
「一番弱そうだから、さっさと片付けて他に時間割いたほうがいいだろ」
「で、ですよね〜……」
五条先輩にかかれば私なんて一瞬で塵になりそうなんだけど、手加減してもらえるんだろうか。いろんな意味でどきどきしながら、さっさと歩き出した五条先輩について開けた場所まで移動する。先輩はその長い足でずんずん先を行ってしまうので、私は小走りで追いかける破目になった。
「あの、よろしくお願いします……」
「お前、自分から攻撃するタイプの術式じゃねえだろ」
「え、あ、はい」
「中距離・支援型ってとこか」
なんとか横に並んで話しかけると、丸いサングラスの奥から青い瞳がこちらを一瞥した。六眼、って本当に人の術式まで見えるんだ。そんな視線だけでドギマギしてしまう自分を内心で叱咤した。
鍛錬場の真ん中あたりまでやってきて、先輩と五メートルほど離れて向かい合った。緊張する私とは対照的に、五条先輩はかったるそうに首を鳴らしている。
「殺す気で来ていーよ」
先輩はそう言って、にやりと笑った。
私だって呪術師の端くれだ。勝つことはできなくたって、一発くらいは打ち込んでやりたい。決意を堅くして、私は気合充分に踏み込んだ。
――そして、結論から言えば、五秒で負けた。五条先輩はポケットに突っ込んだ手を一度も出すことなく、ひらりひらりと攻撃をかわすと、渾身の蹴りを放った私の軸足を爪先で掬い取り、次の瞬間には私は地面に転がっていた。
「よっわ。殺す気で来いっつったろ」
「む、むりでした……」
ありえない、という顔で先輩は私を見下ろした。口の中に砂の味が広がる。もう昨日からいいとこなしだ。
別に運動音痴というほどではない、と思う。走るのはそこそこ速いし、スポーツも人並みにはできるはずだ。けれど、こと格闘においては体の使い方がよく分からない。先輩みたいに手足を自由自在に動かすことができたら、もっとうまく立ち回れるんだろうな。
なんとか上体を起こし、手を握ったり開いたりして考え込んでいると、遥か頭上から五条先輩の深い溜息が降ってきた。恐る恐る上を見れば、先輩はすでに私に背を向けて歩き出している。完全に呆れられた、と思ったときだった。
「……まず間合いの詰め方が雑。視線でどこ狙ってるかバレバレ。攻撃のときの体重移動も遅い。あと死ぬほど筋トレしろ」
独り言のような口調で、しかしそれは間違いなく私に向けられてた言葉だった。ぽかんと開いた口を慌てて噤み、土の上で姿勢を正す。粗い砂利が膝を刺して痛かったけれど、構っていられなかった。
「近接戦闘するタイプじゃなくても体術はちゃんとやっとけよ。自分の身も守れないんじゃ、呪術師名乗れねーだろ」
少しだけ振り返った五条先輩はにやけても呆れてもいなくて、ただただ“呪術師”の顔をしていた。
その後、夏油先輩にも相手をしてもらい、その日の組手は終わった。結局どちらの先輩にもまるで歯が立たず、なんなら同級生たちにもボコボコにされたけれど、おかげで受身だけはうまくなった気がする。充実した疲労感を味わいながらみんなと鍛錬場を後にしようとしたとき、五条先輩がぐぐっと伸びをしながら私の横を通った。
「あー疲れた。喉渇いた」
背も高ければ腕も長いなあ。感心してほけっと見上げていると、不意にその綺麗な顔がこちらを向いた。いきなり見られると心臓に悪いからやめてほしい。
「おい、ジュース買ってきて」
「えっ」
何を言われるのかと身構えていたら、五条先輩は至極真面目な顔で、当然のように命じてきた。一瞬意味がわからず、間抜けな声を出してしまう。もしかして、これは世に言うパシリというやつでは。一度言うこと聞いたら永遠にこき使われるやつでは。
「えっじゃねーよ。早く。一分以内」
「な、なん、なんで私が……?」
「は? だって、」
精一杯の抵抗を試みると、五条先輩はなぜかこちらに顔を寄せてきた。近い。睫毛長い。少し汗の混じった甘い香りがして、先輩はまたあの意地の悪い顔で笑う。
「お前、俺のこと好きなんだろ?」
それ以上その場にいることができなくて、私は小銭入れを握りしめて猛然と駆け出した。
>> 03
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アドバイスだけは真面目にしてくれる。
2021.05.11 加筆修正