なんだか最近、乱くんがぽやぽやしている。
窓辺でじっと何かを見つめている白い後頭部は、時折角度を変えてはまたぴたりと動きを止める。かと思うとおもむろにスマートフォンを掲げて、カシャ、と写真を撮った。カメラの先には、今日も鮮やかに咲く向日葵の花がある。
「ぽやぽや……いや、うきうき……?」
「どう見てもウッキウキですねえ、あれは」
「ゆうたくんもそう思う?」
隣に腰掛けた後輩も、彼の様子が気になって仕方がないらしい。膝の上に広げられた雑誌はさっきからずっと同じページで止まっている。無理もなかった。表向きクールな乱くんの素の顔を知っている俺たちルームメイトですら、あんなにわかりやすく〝うきうき〟な彼を目にすることなんて滅多にないのだ。ステージ上の乱凪砂しか知らない人間が見たら、同一人物だとは到底思わないだろう。それくらい、いま彼の纏っている空気はふにゃふにゃのマシュマロみたいに柔らかかった。
「……二人とも、どうしたの? さっきからずっと私のことを見つめているけれど」
「あっ、いや……」
「乱先輩、また向日葵の写真撮ってるんですか?」
待ってましたとばかりにゆうたくんが立ち上がり、乱くんのそばへ寄っていく。声をかけるタイミングを見計らっていたようだった。
俺たちの部屋にすっかり馴染んでしまった黄金色の花の鉢植えは、乱くんがある日突然に持ち帰ってきたものだった。「ナマエさんに選んでもらった」と嬉しそうに向日葵を掲げる乱くんに、俺たちはただぽかんとして「あ、そうなんだあ」とかなんとか間の抜けた返事をすることしかできなかった。「ナマエさん」というのが例の花屋の店員さんだということも、いつの間にか連絡先を交換するくらい仲良くなっていたことも、そして本人が自覚しているのかはわからないけれど、彼が毎日毎日、見たこともないような優しい顔で甲斐甲斐しく花の手入れをしていることも、すべてが急展開で、理解するのにしばらく時間がかかった。
「……新しい蕾が膨らんできたから、それを撮っているところ」
「へえ~、すごいですね。マメにお世話してますもんね」
「出張中は二人にお願いできて助かったよ、ありがとう」
「いえいえ、お安いご用ですよ。その写真、お花屋さんに送るんですか?」
「……うん、そう。彼女も楽しみにしてくれているみたい」
あ、まただ。乱くんがきゅっと目を細めて、指先で向日葵にちょこんと触れる。最近、乱くんはこんな顔をすることが増えた。見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、愛おしそうに笑うのだった。
(これって明らかに、アレだよねえ……)
たぶん、俺の勘違いではないと思う。最初は、好奇心旺盛な彼のことだから新しい知識を吸収するのが楽しいのかなとか、ES外で友達ができたのが嬉しいのかなとか思っていたけれど、最近の様子を見ているとどうもそれだけではない気がしてくる。だってそうじゃなければ、時折スマホを見て柔らかく微笑んだり、忙しい合間を縫って足繫くお店に通ったりなんかしない、きっと。
「ふうん。お花屋さんとイイ感じなんですねえ」
「いい感じ……? というのはよくわからないけれど、メル友として仲良くしてもらっているよ」
乱くんは何かの本で読んだ『メル友』という言葉を気に入っているようだった。このご時世にメッセージアプリでもSNSでもなくわざわざメールでやり取りしているのだから、確かにメル友と言わざるを得ない。ゆうたくんは何か言いたげにうーんと唸っている。なんか嫌な予感がする。
「メル友かあ……それもいいですけど、二人っきりで出かけたりしないんですか?」
「二人で? いまのところ、その予定はないけれど……」
「えー、そんなに頻繁にやり取りしてるのに? そろそろデートの一回や二回、」
「乱くんは、ナマエさんとメールしてるのが楽しいんだよね!」
すかさず会話に割り込んだ。ゆうたくんが不服そうにこちらを見てくる。いいところだったのに、と言わんばかりの視線を俺は華麗に受け流した。
「……そうだね、とても楽しいよ」
乱くんは俺たちの挙動を気にする素振りもなく、スマホをすいっとスワイプした。今日撮ったのだろう向日葵の写真が画面の中をいくつも流れていく。
毎朝、日当たりや風通しを気にかけて場所を変えたり、土が乾いていないかチェックしたり、真新しいジョウロで水をやったり。そうやって丁寧に育てた向日葵は、彼の気持ちに応えるかのようにきれいに花をつけている。こんなに大事にしてくれていると知って、花屋の彼女もきっとたいそう喜んだことだろう。そういう乱くんの優しさが、写真を通して余すところなく伝わってくれればいいな、と思う。
「……楽しいし、嬉しい気持ちもあるよ。道端で見つけたきれいな花の写真を送ったり、ちょっとした質問をしたり、会えなくても気軽にやり取りできる。いままでは、お店に行かないとお話できなかったから」
この前は北海道のラベンダー畑の風景を送ったらとても喜んでくれて、と乱くんは俺たちにその写真を見せてくれた。雲ひとつない真っ青な空と、地平線まで一面に敷き詰められた紫色の絨毯。それを背景にして乱くんが笑っている。カメラ越しにはっきりと目が合っていると錯覚するくらい、まっすぐな眼差しだった。
「……美しい景色を見ると、不思議と彼女にも見せてあげたくなるんだ」
溜息が出るほど優しい声で乱くんが言った。それを聞いたゆうたくんが、ただでさえ大きな目をさらに丸く見開く。びっくりした猫みたいだ。
「あのぅ、乱先輩って」
「……うん?」
「ぶっちゃけナマエさんのことどう思ってるんですか?」
「ちょ、ゆうたくん」
あんまりにも直球だった。そう訊きたくなる気持ちはわかる、とてもわかるけれど、俺にはとても口にできない。乱くんはスマホをポケットにしまいながら、首を傾げてゆうたくんを見た。
「……どう、というのは?」
「だからー、好きとか嫌いとか抱きしめたいとか自分だけのものにしたいとか、いろいろあるじゃないですか」
「……言葉にするのは難しいな」
ゆうたくんのあけすけな質問にも、乱くんは真面目に考え込んでいる。それを見て、たぶんゆうたくんの期待するような答えは返ってこないだろうと思った。乱くんは天真爛漫なようでいて、その実とても慎重で思慮深い。もしかしたら自分の気持ちにも薄々気づき始めているのかもしれないけれど、ただそれを彼自身がきちんと咀嚼して飲み下すまで、きっと口に出すことはしない。
「……彼女のことは好ましいと思っているよ。嬉しそうな顔を見たら私も嬉しくなるし、悲しそうな顔をしていたら、どうにかして笑わせてあげたいと思う。そしてそれは、日和くんや茨やジュンや、君たちに対して感じる気持ちにとてもよく似ている。……だけど、まったく同じではない。どこかが少しちがう気がするんだ。うまく説明できないのだけど」
乱くんは静かに続けた。話しながら、無意識なのだろうかずっと向日葵の鉢の縁を指先でなぞっている。花に答えを問うているようにも見えた。
大多数の人間が当たり前に〝そう〟だと受け入れてしまうことを、ひとつひとつ丁寧に拾い上げて観察して、理解していく。彼はそういう人なのだった。そんな面倒で煩わしいこと、わからないと言って放り出してもきっと彼は何不自由なく生きていけるのだろうに。
「……ねえ薫くん。〝もっと知りたい〟と思うのは好きの一歩手前だって、前に言っていたよね。なら、私のこの気持ちはもう〝好き〟という感情なんだろうか。それはいままで私の中にあった〝好き〟と、どうちがうんだろう。それがわからないんだ。……きっと、私にはまだ何かが欠けているんだろうね」
「乱くん……」
そんなの、いまは考えなくたっていいよ。楽しい、嬉しい、それだけでいいじゃない。眉尻を下げて困ったように言う乱くんを見ていたら、そんな風に言ってあげたくなった。焦る必要なんてない、二人のペースで進んでいけばいいんだから。
「……そういえば、薫くんは以前よく女性と交流を持っていたんだったね」
「えっ!?」
「よかったら、異性との交友について詳しく話を聞かせてくれないかな」
「あー、えーっと、いや、俺は別に……」
「ぷっ……あ、すみません笑ってませんよ?」
思わぬところから矢が飛んできた。さっきまでのちょっとしんみりした雰囲気はたちまち霧散して、ゆうたくんの噴き出し笑いと俺の乾いた笑いが重なる。じっとりとゆうたくんを睨んでみたけれど知らんぷりで目を逸らされた。
「あー、なんかもうまどろっこしいなあ。乱先輩、いっそのことドーンと告っ、」
「まあまあ、楽しくお話できるならいまはそれが一番じゃないかな! ねっ、ゆうたくんもそう思うよね!?」
「んぐ」
またまた余計なことを言いそうなゆうたくんの口を今度は強制的に手で塞いだ。これ以上話が拗れたら収拾がつかなくなってしまう。「ちょーっとこっちにおいで」とゆうたくんに耳打ちし、乱くんに背を向ける。男同士で密着するのは趣味じゃないけど、ここは仕方ない。乱くんのためだ。
「何するんですか羽風先輩」
「こーら。そういうのを他人が言うのは野暮ってもんだよ」
「だってもうこれ明らかにアレじゃないですか? ごちゃごちゃ考える必要なくないですか? こんなんじゃいつまで経ってもメル友とやらのままですよ、永遠に咲かない蕾です。さっさと自覚してくっついちゃったほうが……」
「気持ちはわかるけど、ダメ。人それぞれペースがあるんだから」
「でもぉ……」
「ゆうたくん、ただ自分が面白いだけでしょ」
「……えへ」
「まったくもー……」
はあ、と溜息とともに振り返ると、乱くんが心配そうな顔でこちらを見ていた。ああもう、こっちもこっちで世話が焼けるなあ。
「……ごめんね、私、口下手で。私自身、まだ自分の気持ちがよくわからないんだ。それを知るためにも、ナマエさんとはもっと親しくなりたいと思っているんだけど」
「大丈夫だよ乱くん。そういうのって焦るものじゃないから、」
「乱先輩、お花屋さんともっと仲良くなりたいんですか?」
俺の腕から逃れたゆうたくんがまた口を挟む。どうしてそんなに自信満々な顔をしてるんだろう。乱くんも真剣な目でゆうたくんに頷いている。なんかこの部屋のメンバー、みんなマイペースすぎないかな。
「……うん。でも私、人付き合いはあまり上手じゃないから」
「そんなの簡単ですよ! 会ったらまず『可愛いね』って褒めるんです。髪型でも服でもネイルでも何でもいいから、気づいたところを手当たり次第に!」
「……手当たり次第に?」
「そうです! 褒められて悪い気がする人はいないでしょう? それだけで相手は絶対に喜んでくれますから」
「……わかった。やってみるよ」
「そしたら次はぎゅっと手を握っ、」
「はーいゆうたくん、あっちで俺とトランプして遊ぼっか!」
ぺらぺら喋るオレンジ頭の襟首を掴み、問答無用で部屋の隅までずるずると引きずっていく。「ちょ、羽風先輩引っ張らないで! わかりました、俺が悪かったですから!」と後ろでぎゃあぎゃあ叫んでいるけれど無視した。乱くんは騒ぐ俺たちをきょとんとした顔で眺めている。なんだかおかしくなって、俺はひとりでくすくす笑っていた。
毎日毎日、日当たりや風通しを気にかけたり、水をやったり、優しく触れたりつついたりして、少しずつ少しずつ花を開かせていく。そういうのがきっと、乱くんには似合っている。