降る福音7

「あ」

大きなショーウィンドウに自分の姿が映り込んだ。思わず声を上げてしまい、慌てて口を噤む。わたしの情けない声は繁華街の大通りの喧噪にうまく紛れたようで、すれ違う人たちから不審な目を向けられることはなかった。

(……髪、跳ねてる)

耳の横にぴょこんと飛び出した毛先をそそくさと撫でつける。硝子に映った自分の姿をまじまじと覗き込んでいるなんて恥ずかしくて、いつもなら人前では絶対にやらないけれど、今日はどうしても気になってしまう。普段とちがう恰好をしているせいだろうか。足元でぴかぴか輝く真新しいサンダルと自分自身とが、ひどくちぐはぐに思えてならなかった。スカートのシルエットがふんわりと揺れるのに合わせ、心の中もそわそわ落ち着かなくなる。

出張のお土産を渡したい、と凪砂さんからメールがあった。

『もしよければ、どこかで二人で会えないかな』

お店に届けるつもりだったのだけど、仕事が立て込んで行けなくなってしまって、と申し訳なさそうに続いた文面を、わたしは五回も読み返した。そうしてそれが夢や幻ではないことをようやく理解し、次に困り果ててしまった。
凪砂さんに会えるのは嬉しい。出張先でわたしのことを思い出してくれたことも嬉しいし、わざわざお店まで持ってきてくれるつもりだったことも、黙っていたっていいのに連絡をくれたことも、全部全部嬉しい。嬉しいから、困るのだ。

半日も返事に迷って、結局わたしはその申し出を断るとができなかった。あの眉を下げた困り顔を思い浮かべたらもうだめだった。それで今日の夕方、彼が仕事で訪れているという都心のスタジオの近くで待ち合わせることになったのだ。約束の時間より三十分も早く着いてしまって、暇を持て余しているところだった。

(……ただお土産をいただくだけだし。別に、デートとかじゃないし……)

おろしたてのブラウスの襟がやたら気になる。おでかけ用の服を選ぶのなんか久しぶりで、コーディネートもよくわからないから、店頭のマネキンが着ていたセットをそのまま買った。荒れた指先を取り繕うように塗ったネイルが剥がれていないか何度も確認してしまうし、髪型がこれで大丈夫なのかもわからない。鞄の色は派手じゃないだろうか。ださい女の子だって思われたりしないかな。いまさら考えても仕方のないことばかりが次々に浮かんでくる。

舞い上がるな、と頭の片隅に残った冷静な自分が言う。凪砂さんは純粋に友人として仲良くしようとしてくれているだけで、わたしが汚れた園芸エプロン姿でいようが、背伸びしておしゃれをしていようが、きっと気にも留めずいつも通りに笑ってくれる。そんなことわかっているのに、わかっているつもりなのに、それでもどうしたって宙に浮いてしまう気持ちを抑えられない。
このままではきっと、わたしはすぐに不遜な期待ばかりでいっぱいになって、しまいには身の丈に合わない感情まで抱いてしまう。それを捨てるとき、痛い思いをするのはわたし自身だ。全部わかってる、のに。

「……はあ。まだ二十分もある」

いつまでもショーウィンドウの前に立ち止まっているわけにもいかず、とりあえず駅前の大きなファッションビルにふらふらと入る。本屋さんで、ずっと探していた海外の植物図鑑を見つけた。図書館にも置いていなくて諦めていた本だった。いつもなら尻込みしてしまう値段だったけれど、今日は迷わず購入した。
凪砂さんに見せたら、きっと目を輝かせて喜ぶだろうな。ふとそんなことを考えて、慌てて頭を振る。

買った図鑑を手に再び外へ出ると、ようやく約束の五分前というところだった。真夏の熱気とともに雨の匂いがする。さっきまで晴れていた空に、いつの間にかずしりと重たそうな雲が流れ込んできていた。一雨来るのだろうか。

「……嫌な感じの雲だなあ」

今日は雨の予報が出ていなかったから、傘を持ってきていない。もとより、見た目重視で機能性を捨てた小さな鞄には折り畳み傘すら入りそうになかった。降られる前に待ち合わせ場所の駅へ向かおうと足早に歩き出す。サンダルの細い踵がアスファルトを叩く音は、自分の足音じゃないみたいでなんだか気恥ずかしい。

「――ナマエ?」

不意に名前を呼ばれたのはそのときだった。凪砂さんの声ではなかった。雑踏の中で、でも確かにわたしを呼んでいるとわかったのは、その声に嫌というほど聞き覚えがあったからだった。

「あ、やっぱナマエだ」

人混みをすり抜けて、その人はわたしの目の前に立った。人懐っこそうな笑顔と、ぴしっと糊のきいた上等のスーツ。十人が見たら十人ともが彼を『好青年』と評すだろう。

「久しぶり」

突っ立ったまま返事もしないわたしに、彼はゆったりと笑いかけた。背筋を撫でるような優しい声音に、記憶の蓋がどんどん外れていく。どくん、と心臓がおかしな音を立てた。

「……先輩」

やっとのことで絞り出した声は情けなく掠れていた。じり、と後ずさりをした分だけ、てらてら光る革靴が距離を詰めてくる。こんな真夏でも汗ひとつ流さずかっちりとシャツを着込んでいるのが、かえって人間離れしているようで恐ろしい気持ちになった。これは、わたしの思い込みのせいだろうか。

「何、なんでそんな他人行儀なの? 前は名前で呼んでくれたのに」
「……」
「あれ、シカト? まあ別にいいけど」
「……な、何か、用でしょうか」
「用がないと話しかけちゃダメ? 街中で偶然知り合いに会ったら、声くらいかけるだろ?」
「……」
「それとも、元カレの顔は二度と見たくないとかいうタイプ?」

ひどいなあ、と芝居掛かった仕草で眉を下げてみせる。わたしが何をどう思おうが、ひとつも関係などないくせに。いつかのことを思い出し、胸がぎゅっと苦しくなる。何かに縋りたくなって、買ったばかりの図鑑の入った袋を強く抱きしめた。

「俺はインターンの帰りなんだけどさ、おまえは? もしかして男とデート?」
「わ、わたしはただ買い物に来ただけで……」
「買い物って何? その袋? ちょっと見せて」
「ちょっ、やめてください」

胸に抱えた袋はあっという間に引き剥がされて彼の手に渡ってしまった。書店のロゴの入ったそれを断りもなく開けると、取り出した本をしげしげと眺めて、やがて彼は嘲るように薄く笑った。

「は、おまえまだお花屋さんごっこしてるの?」

かっと頭に血が昇るのがわかった。本を取り返そうと伸ばした手が空を切る。

「返して!」
「大学も行かなかったって聞いたけど、大丈夫? 死んだ親の夢とかだっけ? 他人の夢をさも自分のものみたいに言うの、やめたほうがいいと思うけど」
「……っ」

そんなこと、あなたに言われる筋合いない。そう言いたいのに、喉が締めつけられて言葉にならなかった。唇を噛んで俯くわたしを覗き込むように彼の顔が近づいてくる。甘ったるい香水の匂いに眩暈がした。

「……ふうん。高校のときは地味でつまんなかったけど、可愛くなったね」
「……か、らかわないで、ください」
「こんな凝った髪型してるの初めて見たし、爪まできれいにして」
「先輩には関係ないです」
「そういえば、俺たちってちゃんと別れてなかったよな。おまえが急に逃げちゃったから」

嘘だ。わたしは別れたいって言った。そのメールを無視したのはそっちのほうなのに。

目を合わせないようにして、スカートの裾をきつく握りしめる。「本、返してください」とどうにか声を絞り出すと、彼は「はいはいわかったよ」ともったいぶった仕草で図鑑を差し出してきた。まるで癇癪を起こした子どもにするみたいな言い方。二年ぶりに会っても何も変わっていない。この人は、わたしが自分の言動で困るところを見て満足したいだけなのだ。ひったくるように取り返した本は、彼の手の温度で生ぬるくなっていた。

「ね、このあと時間ある? 久しぶりにゆっくり話したいし、飯でも食おうよ。奢ってやるからさ」
「……や、約束があるので、無理です」
「買い物に来ただけってさっき言ってたじゃん。あれ嘘?」

ああそうだ、こういう人だった。他人の弱いところ、やわいところを簡単に、容赦なく刺してしまえる人。

「約束って何? もしかして本当にデート?」
「ちが、」
「驚いた。おまえみたいなのと遊んでくれる優しい男、俺の他にもいるんだね」

ぱっと顔を上げた。「だからそんなに可愛くしてるんだ」先輩はにやにやと意地の悪い目をしてわたしを見ていた。頭の先からつま先まで、舐めるように視線が降りていく。やめて、と叫びたくなった。そんな目でわたしのことを見ないで。凪砂さんの優しさをそんな風に言わないで。

「紹介してよ、おまえの彼氏。どんなヤツ?」
「か、彼氏じゃな……」
「あーまだ付き合ってないの? じゃあバレないように気をつけないとね、おまえがつまんない女だってこと」

視界がじわりと滲んでいく。うまく言い返せない自分が悔しくて情けなくて、いますぐ消えてなくなりたかった。俯いたら涙が零れてしまいそうで、ぐっと口を引き結んで先輩を睨み上げる。彼の頭越し、向かいのビルの壁面に設えられた巨大ビジョンが目に飛び込んできた。化粧品の広告が終わり、映像が切り替わる。
は、と息を呑んだ。

『――私たちが、楽園へと誘おう』

激しい音楽とともに、低い声が降り注ぐ。それは鼓膜をびりびり震わせて、お腹の底へと落ちていく。
画面の中でしろがねの長い髪が軽やかに舞った。カメラの向こうから挑戦的な表情でこちらを見下ろしている男の人。深く響き渡る歌声も、あでやかな仕草も、普段のあの人とはかけ離れている。でも、まっすぐな強い眼差しは、わたしの知る彼のものに間違いなかった。

――凪砂さん。

心の中でその名前を呼んだのと、目の前に大きな影が躍り出てきたのは、ほとんど同時だった。

「……待たせてごめんね、ナマエさん」

見慣れた黒いキャップに、星の光を束ねた長い髪。わたしの視界はそれだけでいっぱいだった。先輩の目からわたしを隠すように立ちはだかった背中は、走ってきたのだろうか、いつもより少しだけ速い動きで起伏している。

信じられない気持ちだった。ふわりと、花のような淡い香りが鼻先を掠める。張り詰めていた何かがほろほろとほどけていくような気がした。

「な、なぎささ……」
「あれ。ナマエの連れの方ですか?」

変に明るい調子で先輩が言った。顔は見えないけれど、きっと完璧な『好青年』の表情を浮かべているにちがいなかった。凪砂さんの背中はぴくりとも動かない。

「……私は、彼女の友人。君は?」
「ちょっとした知り合いです。久しぶりに会ったから飯でもって誘ってたところで」
「……そう。それにしては彼女、ずいぶん怯えているようだけど」
「やだなあ、少し喋ってただけですよ。怖い顔しないでください」

なあ、とこちらを見た先輩と、凪砂さんの肩越しに目が合う。咄嗟に顔を伏せると、先輩は困ったように苦笑を漏らした。

「こいつと付き合うの、大変でしょう」
「……どういう意味?」
「むかしからそうなんですよ。ナマエってまったく自己主張しなくて。世間知らずだから流行りの音楽も映画も何も知らないし、興味があるのはお花だけ」
「……それの何が悪いのか、私にはわからないな」
「つまんないでしょ、会話してても。テレビも観ないから、誰でも知ってるような芸能人すら知らなくて、」

そこで先輩はふと言葉を切った。何かを思案するような間をおいて、「あれ」と短く声を上げる。

どこかで低く雷の唸る音がした。生ぬるい雫がぽつりと頬に触れる。誰かが「雨だ」と慌てたように言った。それを合図にしたかのように、道行く人たちが散り散りになって近くの建物へ駆け込んでいく。雨はみるみる勢いを増し、乾いた灰色のアスファルトをあっという間に黒々と濡らした。

「……あんたの顔、どこかで」

先輩が呟いた声も、すぐに雨音に掻き消された。
ぽす、と頭に何かをかぶせられる。それが凪砂さんのかぶっていた帽子だと気づくと同時に、強く手を握られた。

「――ナマエさん、走るよ」

え、と声を上げる暇もなかった。何か言いかけている先輩を残し、凪砂さんがわたしの手を引いて走り出す。どこへ向かっているのかもわからなかった。
降りしきる雨が街中の色を塗り替えていく。後ろへ飛んでいきそうだった帽子はすぐに水を含んで重たくなって、水溜まりを蹴散らしたサンダルはぐずぐずになった。それでも凪砂さんは足を止めなかった。

必死になって走りながらわたしは、雨のカーテンを引き裂くように駆ける彼の、濡れてきらきらと光る髪をずっと見ていた。この人といると雨ばかりだな、と思った。雨がこんなに美しいことを、わたしは彼に出会って初めて知った。