「ありがとうございました~」
大きな向日葵の花束を持ったお客さんを見送り、店の戸を閉めて振り返ると、なぜか店長がじいっとこちらを見つめていた。目が合う。彼女は神妙な面持ちで「ナマエちゃん」とわたしの名を呼んだ。
「何かいいことあったでしょ」
「はい?」
店長は顔をこちらに向けたまま、手だけで器用にアレンジメントのリボンを結んでいる。籐のバスケットに山盛り飾られた夏の花のアレンジメントは近所の老人ホームへのお届け物だ。その他にも飲食店の開店祝い、誕生日の贈り物の花束など、今日は手のかかる注文が多くて、その準備だけで午前中があっという間に終わってしまった。
「何があったか、お姉さんが当ててあげよう」
「なんですか藪から棒に」
「例の彼だ」
「は」
瞬間、ぱっと顔が熱くなった。しまったと思い「ちがいます!」と慌てて否定したものの、もう遅かった。「あ、当たった」と店長の口元がみるみる意地悪な形に弧を描いていく。
「最近よくスマホ気にしてるのバレてるんだからね」
「……」
「いつもバックヤードに放置してるのに、ずーっと持ち歩いてるみたいだし?」
「……ほんのたまに、メールしてるだけです。鉢植えのお手入れについてちょっとアドバイスしたりとか、そういうのだけで……」
「あら、やっぱ連絡先交換したの? やるじゃん」
ああ、はめられた。こうなるともういくら否定しても無駄だ。わたしは店長の視線から逃げるようにそそくさと隣に並び、アレンジメントの手伝いに入った。「ふうん、そっかそっか」「なるほどねえ」と鼻歌でも歌うような声を一切無視し、黙々とラッピングを仕上げていく。オーロラみたいにきらきら光るセロファンや、たっぷりとしたリボン、夏の暑さに負けじと元気いっぱい咲く花たちが、なんだか目に痛いほど鮮やかに見えた。
「ほら、できましたよ! 配達の準備してください」
「はいはい。今日も来てくれるといいねー」
「なんの話ですかっ」
そんなの訊かなくてもちゃんとわかっているけれど、恥ずかしくてとても素直には頷けない。だって、ばかみたいじゃないか。相手はただ純粋な気持ちで連絡をくれているだけなのに、わたしひとり勝手に浮かれているなんて。
お困りのことがあったらいつでも連絡してくださいね、と言ったのはわたしだった。でもそれは単に花屋の店員から馴染みのお客さんへのサービスのつもりで、お店の電話やSNSを通じて何か助けになれればいいなと思っていたに過ぎなかった。彼と個人的にやり取りをしようだなんて、本当に、これっぽっちも考えていなかったのだ。だから彼がこっくりと頷いてスマートフォンを差し出してきたときも、何のことだかわけがわからなかった。
『……向日葵、きれいに咲かせて写真を送るね』
そんな風に微笑まれたら、断ることなんかできなかった。
お互いにメッセージアプリの友達登録の方法がわからなくて、結局メールアドレスだけをどうにか交換した。なんだか一部始終が夢みたいな出来事だった。けれどあれから何日経ってもわたしのアドレス帳には彼の名前が登録されたままだ。
(……連絡先、交換してしまった)
配達用のミニバンに荷物を積み込み、店長を見送ってひとりで店舗に戻る。額に滲んだ汗を拭いながら、無意識のうちにもう一方の指先がポケットの中のスマホを探ってしまう。
凪砂さんからはほんの時折、思い出したようにぽつぽつとメールが送られてくる。「今日も元気に咲いているよ」とか「雨の日の水やりはどうしたらいい?」とか鉢植えに関する話だったり、道端で見かけた花の名前を尋ねるものだったり、仕事で訪れたという公園の花畑の写真が添えられていたりした。たまに小学生の夏休みの絵日記みたいなこともあった。
彼の撮る写真は、どれも不思議なくらいにきらきらと新鮮な輝きに満ちていた。なんてことない入道雲も、ひび割れたアスファルトの隙間で咲いている小さな花も、年老いて毛艶をなくした野良猫も、彼の写真の中ではみんな生き生きと光って見えた。これが彼の見ている景色なんだ、と思った。あの瞳を通して見る世界は、こんなにも美しくて光に溢れている。そう思うと、わたしはいつも切ないような優しいような気持ちで胸がいっぱいになるのだった。
ポケットから取り出したスマホを開き、数日前に届いた向日葵の写真を眺める。きっと今日もこの花は彼の窓辺できれいに咲いているのだろう。
「……よし、わたしも頑張ろう」
自然と笑みが零れる。気合いを入れるためぎゅっとエプロンの紐を結び直し、顔を上げたときだった。
「こんにちは! お邪魔するね!」
太陽が転がり込んできた。
ぱっと目に入ったのは、本当にお日様みたいな色だった。ふわふわの短い髪が、まるで今日の日差しをそのまま閉じ込めたようにまばゆく輝いていた。よく通る明るい声が狭い店内いっぱいに反響して、わんわんと大きく鳴った。驚いて何も言えずにいるうちに、その人は大股で店の中まで入ってくると、ぐるりと辺りを見回して「おや」という顔をした。
「ずいぶん狭いお店だね!? 巴家の玄関より狭いねっ。ジュンくん、本当にここで合ってるの?」
「おひいさん、失礼っすよぉ」
太陽の後ろから青い髪の男の子も入ってくる。彼はわたしと目が合うと「あ、どうも」と礼儀正しく頭を下げた。慌ててわたしもお辞儀を返す。
「い、いらっしゃいませ」
「騒々しくてすんませんねえ。この人、いちいち声も態度もデカくて」
「こらジュンくん! このぼくに向かってなんて失礼な言い方をするの!? ジュンくんのくせに生意気!」
「さっきから失礼なのはあんただけっすからね」
何言ってるのぼくはありのままを述べているだけだね、だからそれが失礼だっつってんでしょ、と二人は延々会話の応酬を続けている。果たしてこの人たちはお客さんなのだろうか。その割には花を選ぶ様子もないけれど。
(ミスターサンシャインだ……)
わたしは最初に入ってきたほうの男の人を見て、向日葵の花を思い浮かべていた。背が高く、溌溂として、真夏の日差しの下で元気よく咲く大輪の花みたいだ。身振り手振りが大きいから、喋るたびに金色を帯びた緑の髪がふわふわ揺れる。この人をどこかで見たことがあるような気がした。特徴のある髪色に、この喋り方――
「……あ、王子様」
思い出した。まだ高校生だった頃、凪砂さんに初めて出会った日に彼を迎えに来た〝王子様〟だ。
「王子? ぼくが?」
「え、あっ、すみませ」
「うんうん、きみはなかなかセンスがあるね!」
ぽろっと口に出してしまい慌てたけれど、彼はなぜだか得意げに胸をそらした。「このぼくには王侯貴族も真っ青の品格が備わっているからね、そう見えてしまったとしても仕方がないねっ」と続ける彼に曖昧な笑みを返す。とりあえず気を悪くされていないようでほっとした。
(凪砂さんのお友達……だよね)
凪砂さんから話を聞いて来たのだろうか。二人はとても仲が良さそうに見えたし、親しい間柄であることは間違いないだろう。マイペースなところもちょっと似ているかもしれない。尋ねてみたいことが次々に頭に浮かぶものの、言葉を挟む隙がなくておろおろしていると、不意に彼が「ところで」とこちらへ顔を寄せてきた。ためらいもなく急に距離を詰めてくるところも似ている。
「最近、凪砂くんがなんだか怪しい女の子とメールしているって言うから見に来てみたんだけれど……きみが凪砂くんの〝メル友〟?」
「あ、怪……メル友……? 確かに、たまにやり取りさせていただいてはいますが……」
「ふうん……」
透き通った紫色の瞳が、何かを測るようにじいっとわたしを覗き込む。さっきまであんなに華やかに笑っていたのに、いまの顔は真剣そのものだった。美人の真顔というものには有無を言わさない迫力がある。わたしはわけもわからず、ただただ彼の整った顔を見つめ返した。きれいすぎる人を目前にすると、睫毛が長いなあとか、お肌がつやつやだなあとか、そんなばかみたいな感想しか出てこない。それに、動いたら怒られる気がした。
「あ、あの……?」
「うーん……」
「……」
「……」
「……」
「……うん! 思ってたよりずうっと地味な子だね、よかった!」
「は、はあ」
しばらくわたしの顔を眺め回してから、彼は満足したようにぱっとわたしから離れた。どうやらわたしは何かに合格したらしかった。
「おひいさーん? 初対面の人にいきなり『地味』はないでしょうよ、『地味』は。……すんません店員さん、この人ほんと悪気はないんで」
「なぁに? ぼくは別に悪い意味で言ったんじゃないね」
「いえ、あの、大丈夫です」
詰めていた息をふうっと細く吐き出す。地味、という言葉にさほど良い意味があるとも思えないけれど、「素朴でいいですね」くらいに受け取っておくことにする。だいたい、この人を前にしたら大抵の人間は地味に見えてしまうと思う。
「きみって、本当にぼくたちのこと知らないんだね」
「え?」
「ぼくたちもまだまだだねえ」
彼は上機嫌そうに目を細めて笑った。凪砂さんのお友達だし、彼もまた芸能のお仕事をしている人なのだろうか。そういえば、一緒にいる男の子も精悍に整った見た目をしている。けれどわたしの少ない情報源の中からは彼らの名前を発掘できそうにない。
「す、すみません。そういうのに疎くて」
「あははっ、面白いね。テレビとか観ないの? スマホは?」
「スマホはありますけど、最低限の機能しか使ってなくて……」
「だからいまどきメールなんていう前時代的なものを使ってるわけだね」
「すみません……」
「別に謝ることなんてないね。むしろ、凪砂くんと仲良くしてくれてありがとう」
目が合うと、彼はにっこりと穏やかに笑った。
そのとき、ああこの人はやっぱりあの日の王子様だ、とわたしは思った。あの春の午後、凪砂さんを探し回って迎えに来た、あの人だ。
「あ、あの。あなたは」
「日和だね」
「日和、さんにとって凪砂さんは、……どんな存在、なんですか?」
ふっと、彼の眼差しがほどけた気がした。硬質な宝石が柔らかく溶け出したように優しい瞳で、彼は言った。
「……凪砂くんはね、ぼくの友達で、仲間で、かけがえのない家族。ちょっと難しいところもあるけれど、でも、とっても優しくていい子なの」
その言葉の端々から、彼がどんなに凪砂さんを大事に思っているかが痛いほど伝わってきた。大切で、愛しくて、心配で、だからこんなところまでわざわざ足を運んできたのだ。
「……よく、わかります」
凪砂さんの持つ稀有な無垢さの理由が少しだけわかった気がした。きっとずっとこうやってこの人が、何度も何度も彼のことを守ってきたのだろう。彼が傷つかないように、寂しくないように、少しも怖くないように。そうやって形作られた〝乱凪砂〟という人に、いま出会えたことが嬉しかった。だからわたしは心の中で日和さんに小さく感謝をした。そんなえらそうなこと、口にしたら怒られてしまいそうだけど、そう思わずにはいられなかった。
「だからね、その〝メル友〟とやらがもしも凪砂くんを傷つけるような奴だったら、ぼくが懲らしめてやろうって思って来たんだけど……」
「えっ」
「まあきみなら心配いらないね。きみ、なんだかとっても弱そうだしね!」
あはは! と日和さんは弾けるように笑った。たぶんまたちょっと失礼なことを言われたんだろうけど、全然悪い気はしなかった。
「そういえば、きみが作ったっていうアナベルのブーケ、事務所に飾ってあるのを見たけどなかなかよかったね。褒めてつかわすね」
「あ、ありがとうございます……?」
「今度、生け花に使う花材を選ばせてあげてもいいね。用意しておいてくれたら取りに来るからね、ジュンくんが」
「ええ? オレっすか……」
日和さんの明るい声に混じって、わたしも笑った。
凪砂さんがいつもとても大事そうに花を抱えて帰るのは、こうやって大切な人たちと一緒に見るためだったんだ。その時間がこれからもずっと続いていったらいいと思った。そういう小さな小さな幸せが、たくさんたくさん、彼に降り積もっていったらいい。
「凪砂くんね、いまは撮影で北海道に行っているの。来週には帰ってくると思うね」
「そうなんですか」
「向日葵のお世話はルームメイトに頼んだって言っていたから、安心するといいね」
日和さんは最後にお茶目なウィンクをひとつ寄越すと、来たときと同じように颯爽と帰っていった。『ジュンくん』さんは去り際まで礼儀正しくこちらを振り返って、日和さんが選んだ大きな花束を代わりに抱えながら、小走りで彼を追いかけていった。嵐みたいな二人だった。
その日の夜、バイトを終えて帰路につく頃、凪砂さんからメールが届いた。一面のラベンダー畑を背景にして笑っている彼の写真が添えられていた。
会いたいな、と思った。誰かをこんなにも恋しく思ったのは久しぶりだった。