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それは、四年生の終わりを間近に控えた、とある寒い日のことだった。

「なにこれ」
「自転車だろ」
「見ればわかるよ」

隣に立つ背の高い男は、じゃあ聞くなよ、と言って小さく舌打ちをした。本当にガラが悪い。
私たちは、高専のだだっ広い敷地の中でも端っこに位置する、古ぼけた蔵の前にいた。授業で使う呪具を取ってくるようにと、担任から命じられたのだった。
まるで世界の果てのように寂れた場所だった。普段からほとんど人の訪れがないようで、蔵は丈の長い枯れ草に取り囲まれている。その合間に鈍く光る銀色のフレームを見つけたのは、ついさっきのことだ。
打ち捨てられたのか忘れ去られたのか、誰のものともわからない、錆びた自転車だった。

「…… ナマエ。空気入れ探して」
「え、乗るの? てか動くのこれ」

私の問いかけには答えず、五条は草むらの中からずるずると自転車を引っ張り出してくる。何の変哲もない、よくあるママチャリだ。
当初の目的など放り出して、二人で蔵の中を漁った。幸いというべきか、出入口に程近い場所で空気入れは見つかった。分厚く埃をかぶり、塗装の剥がれかけたそれに、五条は迷いなく手を伸ばした。

しゅこ、しゅこ、しゅこ、

膝を抱えてしゃがみこんだ私の隣で、リズム良くポンプが上下する。タイヤはパンクしていなかったようで、送り込まれた空気でみるみるうちに形を取り戻した。
こんな古い自転車乗って、どうするんだろ。次の授業サボるのかな。サボるんだろうなあ。どこに行くのかなあ。
一心にポンプを動かし続ける五条を振り仰いで、私はうっすらと目を細めた。薄い雲を纏った今日の空の下でも、ちらちらと光る銀糸の髪はやけに眩しく見えた。

十五のときに出会った彼は、もうすっかり大人の顔つきになっていた。背も伸びたし、手だって大きくなった。中身は小学生だけれど。そして、いまや押しも押されもせぬ特級術師だ。
五条はいつも、私の、私たちの知らない道を物凄いスピードで進んでいく。誰とも交わらず、誰も追いつけない場所へ。そこについて行くだけの力も、辿り着くための才も自分にはないのだと、この数年間で嫌というほど思い知らされた。

彼は特別で、私は凡庸。ただ、同い年に生まれついただけの。
空気を入れ終えた五条は、躊躇う素振りもなく自転車に跨った。サドルの低いママチャリにその長い足はあまりにも不釣り合いで、おかしくて少し笑ってしまった。

「五条、どこ行くの」
「どっかだよ」

なんの答えにもならない返事をくれた後、彼はその美しい瞳をこちらへ向けて言った。

「……乗れば?」

そうして、古びた銀色の自転車は、私たちを乗せて走り出した。

四年生を終えたら、私は京都へ赴任することが決まっている。わずかながらも他人に反転術式を使える術師として、京都校を拠点に活動してほしいとご指名をいただいたのだ。願ってもないことだった。ここでの自分の存在意義を見失っていた私は、二つ返事で承諾した。
大した呪力量を持たない私に扱える反転術式といったら、せいぜいが傷口を粗く塞いで出血を止めてやるくらいのものだった。一年生の頃の五条曰く『劣化版』。いま思い返してもひどい言い草だ。そんな彼の物言いを諌めていた男は、その二年後の夏の終わりに消えた。

黙って自転車を漕ぐ五条の後ろで、ゆるやかに過ぎ去っていく景色をぼうっと眺める。きっと、一年後の春が来ても、もうここへ帰ることはないだろう。

夏油はいなくなって、五条は最強になった。いろんなことが洪水みたいに押し寄せて、馬鹿な私にはなにもわからなかった。ただ当たり前のようにみんなの、五条の隣に立っていられたあの頃には二度と戻れないのだと、冷たい現実だけが私の心を刺した。
他人の命も、想いも、繋ぎ止める力を私は持たない。ならばそこそこの術師として、そこそこに生きていこう。そう納得していたし、その生き方を選んだことに後悔もなかった。ただ、あの頃の幸せな自分たちを守ってあげられるくらいの強さが私にあったなら、こんなに胸が痛むこともなかったのかもしれないと思った。

錆びたチェーンの軋む音だけが響いている。見慣れたはずの山も、川も、空も、全部が哀しいほどにきらきらと輝いて見えた。

――もう最後だし、いっか。
私は五条の腰に軽く添えていただけの手を彼のお腹にまわして、ぎゅうと抱きついた。固い背中に鼻先をくっつけて息を吸ったら、優しい匂いがした。

「……なに泣いてんの」
「泣いてない」

ぼんやり滲んだ視界の中でも、この景色はやっぱり美しかった。

「五条」
「……なに」
「好きだよ、」

掠れた声は、向かい風に攫われて消えていった。

 

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巡礼の旅

 

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2022.2.9 加筆修正