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「制服だね」

私の頭のてっぺんから爪先までをとっくりと眺めた夏油先輩は、ひどく穏やかな声でそう言った。いったん足元まで降りた視線はつつつ、と再び上昇し、私の顔のあたりで止まる。さも優しそうに微笑んでいるけれど、切長の目はまったく笑っていない。
「制服だ」。もう一度、畳みかけるように言われて、私はひくりと喉を鳴らした。

「……これは、あの、その」
「今日はこのあと任務だったかな?」
「いえ……任務は、ない、です……」
「そうだよね。だって私とデートのはずなんだから」

二週間前から約束していたものね? ことりと首を傾げて尋ねられれば、背中を一筋の冷や汗が流れ落ちた。

私は今日、人生初のデートとやらに出かけようとしている。あの夏油先輩とだ。二週間前、怪我のことを五条先輩に黙っている代わりにと彼が提示してきた交換条件が、これだった。

『私とデートしようか』

うっそりと目を細めて言った夏油先輩は、私の返事など聞く必要もないと言わんばかりだった。さっさと日時だけを指定し、じゃあ当日は寮の玄関前で待ってるからね、と言い残して去って行ってしまったのだ。口を挟む間もなかった。最後に「とびきり可愛くしておいで」なんて、特大の宿題まで置いて。

「ああ、もしかして私服は悟のために取っておこうってこと? 意外と露骨なことをするんだな、ナマエは」
「ちちちちがいます!! 服が! なくて! 本当に!!」
「はいはいわかったよ」
「夏油先輩オシャレだから、変な服で隣にいたら恥ずかしいと思って……でも買いに行く時間なくて……! ほ、ほんとですよ!?」
「わかったわかった」

夏油先輩はひらひらと手を振るだけで、まるで取り合ってくれない。
言い訳させてほしい。高専ではこれまでほとんど制服かジャージで足りていたから、よそ行きの服なんて持っていなかったのだ。中学時代の服はサイズが合わなくなっていたり、微妙に子供っぽく見えてしまって使い物にならなかったし、硝子さんに相談したらピタピタのレザーのミニスカートを履かされそうになったし。

でも、といまさらながらに私は後悔し始めていた。夏油先輩は、見るからに質の良さそうな黒のコートをばっちり着こなしている。すらりと背が高く、髪はつやつやで、まるでどこかのモデルさんのようだった。果たして私は本当にこの人の隣を歩けるのだろうか。ピタピタのミニスカートでも、制服よりはましだったんじゃなかろうか。枯れ木も山の賑わい、なんて言葉もあるし、いやでも、あまりに見苦しかったら……。

「……ぷっ」

悶々としていると、不意に頭上で噴き出すような音がした。

「え?」
「……いや、ごめんごめん。ちょっとからかっただけ」
「え!?」
「今日は悟に見せる服でも買おうか」
「か、買いません!!」
「冗談だよ」

ひとしきり肩を震わせて笑った後、じゃあ行こうかなんてけろりとした顔で言ってのける。わ、わからない。どこまで本気か全然わからない。五条先輩も大概だが、腹の底が見えないという意味ではこの人のほうがずっとタチが悪いのでは。

「でも、ちょっとだけ残念だったのは本当」
「もう騙されませんよ……!」
「ひどいなあ、本気なのに」

むうと唇を結んだ私を見て、夏油先輩はやっぱりけらけらと笑うのだった。

 

週末というだけあって、都心のショッピングモールはかなりの人で賑わっていた。

「うわあ、混んでますね」
「手、繋ぐかい?」
「け、結構です……」
「そう?」

丁重かつ迅速にお断りすると、差し出された分厚い手のひらはあっさりと引っ込んだ。なんだか花火大会のときみたいだ。不意にあの日の帰り道を思い出し、頬がかあっと熱くなる。
たぶん、夏油先輩と手を繋いでも、七海や灰原と繋いでも、あんな気持ちにはならないのだろう。申し訳なさと恥ずかしさは同じくらいあるかもしれないけど。

「そういえば、悟から連絡は来た?」
「え、と……はい、メールと、あと電話も」
「よかったじゃないか」

夏油先輩が重いガラスの扉を押さえ、私を先に通してくれる。ありがとうございます、と急いで扉をくぐりながら、私は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。……よかった、のだろうか。

 

『お前さ、俺になんか言うことないの』

久しぶりに聞いた五条先輩の声は、やっぱりどこか不機嫌だった。
夏油先輩がお見舞いに来てくれた翌日、医務室から寮の自室に戻ってすぐのことだった。ベッドに投げ出した携帯が震え、青白いディスプレイには“五条悟”の文字が浮かんでいた。まともに話したのはいつが最後だったか、答えも出せないままに私は通話ボタンを押した。

『ご、ごめんなさい……』
『何が』
『……あの、呪具、勝手に……』

我ながら情けない声だと思った。こんなに細く小さな音が、ちゃんと遠くの国まで届くのだろうか。そんなことを心配しながら、用意していた言葉を紡ぐ。用意していたのに、頭で思い描くよりずっとずっと吐き出すのに苦労した。そして返ってきたのが予想外の返事だったものだから、私の思考回路はそこでぽっきりと折れてしまったのだった。

『は? 呪具? 何の話』
『え?』

てっきり怒られると思っていた。そうしたら平身低頭、謝るつもりだったのだ。なのに電話越しの先輩は、本当に意味がわかっていないようだった。

『五条先輩から借りた呪具、京都校の人に渡しそうになったから怒ってるんじゃ……』
『はあ? そんなんどうでもいいわ。……つーか、別に怒ってねえし』
『そ、そうなんです……?』

――だったらどうしてずっと、私のこと避けてたんですか。
更地になった頭の中に、ぽかりとそんな想いが浮かんだ。訊きたいのはそれだけなのに、うまく形にできない。だって電話の向こうから、尖った空気がひしひしと伝わってくる。胸を串刺しにされるようだった。私は気づかないうちに、こんなにもこの人を不愉快な気持ちにさせていたんだろうか。そう思うと、たまらない気持ちだった。

『…………』
『…………』
『…………』
『……なんで泣きそうになってんの』
『な、なってないですよ』
『お前の泣き声なんかすぐわかんだよ』

そんなこと言われても、どうしたらいいのかわからない。ひゅう、と鳴ってしまいそうな喉は辛うじて押し込めたものの、代わりのように目尻からぽろりと涙がひとつ零れた。

『……だっ、て、やっぱり先輩、怒ってる』
『だから怒っ……あー、クソ、電話だと埒あかねーな』

苛ついたような舌打ちが聞こえた。このまま切られてしまうのかもしれない。少しでも胸の痛みが和らぐように、ぎゅっと目を閉じた。けれど。

『ナマエ』

耳に流れ込んできたのは、拍子抜けするほどに柔らかい声だった。

『……なんも怒ってないから。だから泣くな』

幼い子供に言い聞かせるような切実さがあった。願いを込めるような、まっすぐで透き通った声。

『返事』
『は、はい』
『あと、俺が帰るまでに怪我してたら殺すから』
「はえ』

びっくりして言葉を見失っているうちに、先輩の声は再びさっきの不機嫌なそれに戻ってしまっていた。それでも胸を刺す痛みはもうなくて、ようやく私は少しだけ深く息を吸うことができた。
マジビンタからさりげなくグレードアップしていることに気がついて震えたのは、電話を切ってしばらく経ってからのことだった。

 

「夏油先輩、絶対に絶対に、約束守ってくださいね……」
「うん?」

話しながら、夏油先輩は人垣の隙間をを器用に縫って歩く。無理に追いかけなくても自然に隣に並べるくらいの、絶妙な歩幅と速度だった。きっと、彼ひとりで歩くときの半分以下のペースだ。私が僅かに歩調を速めると、夏油先輩はついとこちらを見下ろして微笑んだ。バレている。

「……あ、あの。目的のお店とかあるんですか?」
「うん。今日付き合ってくれたお礼に、ひとついいことを教えてあげようと思ってね」
「いいこと?」
「もうすぐ悟の誕生日だよ」

……うん?

「もうすぐ、悟の、誕生日だよ」

ぴしりと動きを止めた私に向かって、夏油先輩は追い討ちのように繰り返す。さとるのたんじょうび。さとる……、

「……えええ!?」
「しっ。声が大きい」
「す、すみません」

五条先輩の誕生日が、もうすぐ。その事実に、私の心臓はいきなり早鐘を打ち始めた。以前尋ねたときは「あー、冬」としか答えてくれなかったのだ。十二月七日生まれ。射手座? そっか、そうなんだ。

「夏油先輩……」
「うん」
「どうしましょう私……五条先輩に何か差し上げられるような権力も財力も、まだ用意できてないです……!」
「うん、落ち着いて」

これが落ち着いてなどいられるものか。バッグからお財布を取り出し、中身を確認する。千円札が三枚。一万円札が……、……いま口座にはいくらあっただろうか。今月のお給料日は。

「ナマエ」

ふるふると震えながらお札を数えていると、先を行く夏油先輩の足が止まった。

「大丈夫。悟はあれで単純だから、案外何でも喜ぶ」
「で、でも私、男の人にプレゼントなんて……」
「私も硝子へのプレゼントがまだなんだ。一緒に選んでくれたら助かるんだけど」
「え」
「代わりに、ナマエが間違って全財産投入しないよう、見張っておいてあげるよ」

悪戯っぽく目を細めた先輩の向こうには、いかにもオシャレなセレクトショップが控えていた。

 

「……夏油先輩。本当にこれで大丈夫ですかね……?」
「せっかく時間かけて選んだんだから、そこはもっと自信持ってほしいなあ」
「お、お待たせしてすみません」

結局、ああでもないこうでもないと二時間も店内をさまよい歩いてしまった。お店の端から端まで何往復したかわからない。綺麗にラッピングしてもらったプレゼントを、そうっと腕の中に抱える。本当に、これでよかったのかな。五条先輩のことだ、きっともっと良いものを持っているに違いないし、そもそも私なんかがあげたものを使ってくれるかどうか。いや、使ってもらえないだけならまだいいけれど、鼻で笑われでもしたら――

「ナマエ、こっち向いて」
「へ?」

ぱしゃり。おもちゃのようなカメラ音が響き、私はぱちぱちと瞬きをした。夏油先輩が頭上に掲げた携帯の画面には、にっこりと微笑んだ先輩と、その後ろで間抜けに口を半開きにした私が写っている。

「今日の記念に」
「え!? ま、待ってください私、変な顔して……!」
「もう一枚撮るよ」
「え、ええ……!?」

夏油先輩は、今度は私ひとりに向かってカメラを構える。プレゼントの紙袋を両手で抱えたまま、私は直立不動となった。「堅いよ、ピースピース」と促され、渋々と片方の手でピースを作る。ぱしゃり。もう一度シャッターを切ると、夏油先輩はいかにも爽やかな笑顔を浮かべた。

「よし、悟に送っておこう」
「!? やだ待ってください夏油先輩!?」
「だから可愛くしておいでって言ったのに」
「こんなの聞いてないです!!」
「あー、送っちゃった」
「……!!」

もうだめだ。その場に崩れ落ちそうになった瞬間、胸元で携帯が震えた。夏油先輩から、撮りたてほやほやの写真二枚が送られてきている。キメ顔の夏油先輩と、その後ろでぼけっと突っ立っている私。微妙に指先が伸びきっていないふにゃふにゃのピースサインを作りながら、引き攣った笑みを浮かべている私。うん、最悪だ。

「……元気になってよかった」
「え?」

携帯を見つめてがっくりと肩を落としていたら、不意に夏油先輩が呟いた。やけに静かなその声音に、一瞬だけ胸がざわりと波立つ。はっとして顔を上げた先には、いつもの穏やかな笑みだけがあった。

「昇級して、どう? 続けていけそうかい?」
「は、はい。なんとか……」
「最近は任務も増えて忙しそうだったし、辛くないかと思ってね」

大丈夫なら、よかった。独り言のように言って、夏油先輩はあたたかな手のひらで私の頭をぽんと撫でた。

「夏油先輩、それで今日、誘ってくれたんですか……?」
「まあ、半分は悟への嫌がらせだけれどね」
「嫌がらせ?」

聞き返したが、「何か甘いものでも食べて帰ろうか」とはぐらかされてしまった。まあ、変な顔をした私の写真を送りつけられるのだから十分に嫌がらせか。また五条先輩に笑われるネタがひとつ増えてしまったなあ、とぼんやり考えながら、黒いコートの背中を追いかけた。

「あ、硝子さんと七海たちにお土産買いませんか?」
「いいね。ロシアンルーレットたこ焼きとか?」
「えっ」
「冗談だよ」

 

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