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※夏油視点

 

 

ナマエの昇級を知ったのは、悟が長期の海外任務に就いてすぐのことだった。

物凄い勢いで二年の教室に駆け込んできたナマエは、振り向いた私の鼻先に「昇級してました!!」と真新しい学生証を突きつけた。少し緊張した面持ちの彼女の顔写真と、“準二”という等級を表す数字。よかったねおめでとうと告げれば、ありがとうございます、といつものようにはにかんで笑った。
正直に言えば、ナマエは呪術師として特別に優秀というわけではない。同級生の二人はすでに二級に上がっているし、たぶん、これからもその差を埋めるのは難しいだろう。それでも自身の成長を照れくさそうに、少し誇らしげに語る彼女のことを、素直に好ましいと思った。

けれど、等級が上がれば必然的に任務の危険度も増す。それまでのやり方が通用しなくなることだってある。昇級してすぐに命を落とす呪術師が後を絶たないのは、つまりそういうことなのだ。

 

「――ナマエ、入るよ」

医務室の引き戸の前に立って声をかけると、すぐに「はあい」と間延びした返事があった。思いのほか元気そうなその声にほっとする。軋んでガタゴトと唸る扉を、できるだけ静かに開けた。二つ並んだベッドのうち片方は空っぽで、窓際に置かれたもう片方には、上半身だけを起こした彼女の姿があった。

「寝ていなくていいのかい?」
「大丈夫です、もうほとんど治りました」

骨もくっつきました、とにこにこ笑って、ナマエは座ったまま右手を振り回した。入学当初に比べれば見違えるほど逞しくなったその腕は、それでもまだ随分と華奢だ。

「元気そうだね」
「はい! でも昇級したそばからにこんなになって、情けないです……」
「いや、無事でよかったよ」

ベッド脇の丸椅子に腰を下ろした私の顔を見上げ、ナマエは困ったようにへにゃりと笑った。

昨日の夕方のことだ。ナマエが重傷を負って帰ってきたと、硝子の元に連絡が入った。高専所属の二級術師とともに赴いた都内の廃ビルでの祓除任務で、偶然に迷い込んでしまった非術師の子供を庇って負傷したらしい。右腕の骨折に加え、肩口の裂傷が深く、出血もかなりあったと後から聞いた。
少しずつ血色を取り戻しつつある彼女の頬には、まだ大きなガーゼが貼られたままだ。じっと見つめると、ナマエは「あ、これ」と慌てたように手をやった。

「顔だから、できるだけ傷痕が残らないようにじっくり治療してくれるって、硝子さんが」
「……ひどいのか?」
「全然ですよ! でも一週間くらいはガーゼ取っちゃだめだそうです」

ナマエの指が所在なさげにガーゼの端をいじる。これが私や悟だったらきっと「唾でもつけとけ」と放り出されていただろうな。まあ、二人とも顔に大きな傷がつくような事態には滅多に遭遇しないが。
取り留めもないことを考えていると、ナマエがふと思い出したように動きを止めた。黒い瞳をふらふらとさまよわせた後、躊躇いがちに口を開く。

「……あの、怪我したこと、五条先輩には内緒にしといてください」
「どうして?」
「バレたらマジビンタなので……!」
「は?」

せっかく治してもらったのに、と頬を手で覆いながら、ナマエが身を竦める。「ビンタって?」「前にそう言われました……」どうやら、初任務のときに悟を庇ってこっぴどく叱られたときのことを言いたいらしい。が、当時ならまだしも、いまの悟がナマエ相手に本気でビンタを食らわすとは到底思えない。せいぜい小言が三つか四つ飛んでくるくらいだ。

「今回は非術師の子供相手だったんだし、事情がわかればさすがにビンタはないだろ」
「で、でも……」

なんなら事情の説明すら必要ないと思うが。そう言ったところでナマエは納得しないだろうから、もっともらしい理由をくっつける。それでも彼女はまだもごもごと口籠っていた。なんだか様子がおかしい。

「……でも、五条先輩、私に怒ってますし……」

……ん?

「怒ってる? 悟が?」
「はい……」
「そんなことはないと思うけど……」
「だって、交流会の後から目も合わせてくれなくなっちゃったんですよ。そのまま海外行っちゃって……」
「……心当たりでもあるのかい?」
「五条先輩から借りた呪具、勝手に人に触らせそうになったから……」

言いながら、ナマエの瞳にはうっすらと涙が滲む。待て待て待て。あれから何がどう拗れてこんなことになっているんだ。

「……いや、それくらいで悟が怒るなんてことは、その、ないんじゃないかな」
「だってそれしか思いつかないです……」
「連絡くらいはとってるんだろう?」

ナマエはぎゅっと唇を噛んで、それでも小さくひとつ頷いた。

「一週間に一回くらい……でも『漫画の新刊買っといて』とか『DVD返しといて』とか、事務的なことだけです」

頭を抱えたくなる。交流会から一ヶ月余り、悟が海外に飛び立ってからももう三週間だ。私や硝子にくだらない自撮り写真を送りつけている場合じゃない。

「……だから、五条先輩が帰ってきたら、ちゃんと謝らないと。それで、昇級できましたって報告して」

許してもらえますかね、なんて訊かれるが、許すも何も悟はナマエに怒ってなどいないに決まっている。先程ポケットの中で震えた携帯を、ナマエからは見えない角度でこっそりと確認した。『あいつ怪我したの?』……ほらね。

「……わかった。怪我のことは黙っておくよ。でも代わりに私のお願いも聞いてくれるかい?」
「お願い、ですか?」

不思議そうに瞳を瞬かせるナマエを覗き込んで、にっこりと笑ってやる。後で悟がどんな顔をするか見ものだな。

 

医務室を出てすぐ、歩きながら携帯を取り出した。向こうはいま朝だろうか。国際電話は高くつくが、まあ後で悟に請求してやればいい。着信履歴から番号を呼び出して発信すると、三コールと待たずに回線の繋がる音がした。

『返事おせーよ』
「まだ十五分も経ってないだろう」
『……あいつ怪我したの?』
「あいつって?」
『とぼけんなよ。硝子から聞いたし』

……硝子、買収されたな。

『煙草三カートンも積んだのに、“これ以上は教えられない”とかさあ、マジでなんなの』
「悪いけど、私も口止めされてるんだ」
『は? なんでだよ』
「心配しなくても、ちゃんと元気だよ」

一拍置いて、あっそ、という短い返事が聞こえる。後に続く言葉がないので、どうやら本当に要件はそれだけのようだ。

「わざわざ周りに訊かないで、本人に連絡してやればいいだろう」
『別に話すことねーし』
「寂しがってたよ」
『……ふーん』

“誰が”とは言っていないのだが、悟の耳は都合よく解釈したらしい。目を細めて唇を尖らせた顔が目に浮かぶようだった。そんな風に拗ねている暇があるなら、さっさとメールなり電話なりしてしまえばいいのだ。悟も、ナマエも。

「悟。わかってるとは思うけど」
『あ?』
「いつまでも当たり前にそこにいるわけじゃないんだ」

何か言い返そうと口を開く気配がしたので、間髪入れずに次の言葉を放つ。言い訳は私じゃなく、彼女に聞いてもらうべきだ。

「ああそうだ。私がバラしたわけじゃないから、口止め料はこのままもらっておくよ」
『は? なんの話』
「出張、十二月の頭までだっけ? せいぜい楽しみに帰ってきなよ」
『いやマジでなんの話?』
「じゃ、気をつけて」
『おいすぐ――』

ぶつりと電話を切って、ついでに携帯の電源も落とした。今日はもう店じまいだ。さっさと部屋に戻って、久しぶりに静かに読書でもしよう。考えたいことも、ある。

「……本当に、大切にしたほうがいいよ。悟」

どんなに手を伸ばしても呆気なく散ってしまう命があることを、君だって知っているだろう。

 

 

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