05

翌朝七時前、私は高専の正門に立っていた。

昨日はあの後、五条先輩にお説教されながら鬼のようにしごかれた。せっかく手取り足取り教えてもらったことをまったく覚えていなかったのだから当たり前だ。

それでくたくたになって自室のベッドに倒れ込んだのだけど、実はあまりよく眠れなかった。原因の半分は今日の任務に対する緊張感だ。もう半分は——

いまだ脳裏にこびりついて離れない、低い声を思い出す。どれだけ布団に深く潜り込んでも、五条先輩に握られた手の感覚がよみがえってきて、寝ようと思えば思うほど頭は冴えていった。

(先輩の手、意外とあったかかったな……)

ぼんやりと自分の手のひらを見つめたところで、私はハッとした。いけない、油断するとすぐに五条先輩のことを考えてしまう。これから大事な任務だというのに、公私混同も甚だしいではないか。気合を入れるため、私は両手で自分の頬をばしばし叩いた。

五条先輩は七時を少し回った頃に、眠そうな目を擦りながらやってきた。

「お、おはようございます!」
「おー」

兄貴分に付き従う舎弟のような勢いで私は挨拶をした。先輩からは気の抜けた声が返ってくる。……朝、弱いのかな。いつもより大人しい先輩はちょっと可愛い。いまなら緊張せず普通に話せそうな気がする。

「あの、昨日はありがとうございました。おかげさまで少しは強くなれたような、」
「あれだけ付き合ってやって役に立たなかったらブッコロス」
「ひい……」

前言撤回、やっぱり可愛くはなかった。
五条先輩にブッコロされるのは呪霊にやられるより痛そうだ。私はごくりと唾を呑んで、片手に持った小太刀を胸元に引き寄せる。先輩が鞘をなくしたと言うので、代わりに手元にあった着物の帯でくるんできた。さすがにバスタオルを巻くのはカッコ悪すぎるから仕方がない。今日はよろしくね、と相棒に話しかけるような気持ちで刀をぎゅっと握りしめた。

それから数分もしないうち、黒塗りの車が滑るようにやってきて、私たちの目の前で停まった。私はすかさず後部座席に駆け寄ってドアを開ける。もちろん、五条先輩のために。

先輩は当然のように乗り込もうとして、けれどなぜか私を見てその動きを止めた。え、なんか怒られるとこあった?

「お前」

お小言を想定して条件反射的に首をすくめた私の肩先を、五条先輩の手が掠めた。詰襟を着た首元がやけにスースーする。

「今日は髪、結ばねーの?」
「っ!?」
「組手のとき結んでたじゃん」

邪魔じゃね、と言いながら先輩は乱暴に私の髪を放った。ぱさっと軽い音とともに肩に落ちた毛先は、少し傷んでいる。

「むっ……!」
「……?」
「……すび、ます……!」
「まあどっちでもいいけど」

大きな欠伸をして、先輩は今度こそ車に乗り込んだ。

簡単に女子の髪を触らないでください、と叫びたくなる。こんなことになるなら昨日、高いトリートメント使っておくんだった。後悔すると同時に、任務完了まで自分の心臓がもつかどうか、不安になってきた。

 

高専から約二時間のドライブを経て、私たちは今日の任務地に到着した。五条先輩は道中ずっと爆睡していて、着く頃にはいつもの元気いっぱい邪気いっぱいな五条悟に戻っていた。私はといえば、当然ながら五条先輩の隣で眠れるはずもなく、補助監督さんとお喋りしたりおやつを食べたりしながら過ごした。

「なんでおやつ持ってきてんの」
「え、ドライブといえばおやつじゃないですか?」
「遠足じゃねーんだぞ」
「……た、食べます?」
「……食う」

不貞腐れながらビスケットの袋をひったくる寝起きの五条先輩は、動物みたいでやっぱりちょっと可愛かった。

補助監督さんには車で待機してもらい、五条先輩と私はさっそく問題の呪霊が巣食っているという山に踏み込んだ。木々が鬱蒼と茂る山道の入り口には古びた鳥居が建っており、なるほどいかにも“出そう”な雰囲気がある。鳥居をくぐる前に帳を下ろした。

「……帳はできるんだ?」
「あ、はい。体術よりは結界術のほうが得意で」
「へえ」

五条先輩はたいして興味もなさそうだった。実際、帳が下ろせたところでなんの自慢にもならない。五条先輩だって3秒でできるだろう。せめて先輩の足を引っ張らないように頑張らなければ。木漏れ日を反射してぎらっと光る小太刀を握り直し、私は唇を引き結んだ。

山道は登るにつれてだんだんと険しくなっていった。普段からほとんど人が通らないようだ。整備された道は途中でなくなって、あとは細い獣道があるだけだった。縦横無尽に伸びた木の根や草に足を取られないよう注意しながら進む。

数歩先を行く五条先輩は、迷いのない足取りでどんどん奥へ分け入って行く。こんな場面ですら体力や判断力の差を見せつけられるなんて、私はこれからどれだけ鍛錬を積めばいいのだろう。気が遠くなりながら、遅れないよう必死に足を動かしていると、程なくして開けた場所に出た。

木々の隙間に隠れるように、荒れ果てた茅葺き屋根の建物がぽつんと残っている。入り口の鳥居からして、元は神社だったのだろう。私は額にじっとり滲んだ汗を手の甲で拭って、ふうと息をついた。

「——来るぞ」

五条先輩が声を潜めて短く言った。
風がぴたりと止んだ山の中で、ガサガサと葉の擦れる音がする。私は慌てて刀を構えた。先輩と背中合わせになり、周囲に目を凝らす。気配がするだけでも三、四体はいそうだった。囲まれている。空気がぴんと張り詰め、心臓がうるさいくらいに鳴り始めた。

「二級は俺がやるから、雑魚片付けろよ」
「……はい!」

返事とともに私は飛び出した。

まずは一番手近にいた1体に刀を突き刺す。急所にうまく当たり、その体はすぐに崩れ落ちた。続いてもう1体。鞭のようにしなる腕で攻撃してくる。私はいったん距離を取って、制服のポケットから呪符を取り出した。あらかじめ呪印が刻まれたその札を、呪力に乗せて勢いよく飛ばす。呪符は狙い通り呪霊の額に貼り付いて、その動きを封じた。その隙に思い切って懐に飛び込み、呪霊の腹を切り裂く。濁った色をした返り血を頭から浴びて、つい顔を顰めた。

「ナマエ! そっち行った!」

背後から五条先輩の鋭い声が飛んで、私は咄嗟に地面を蹴った。一秒前まで私がいた空間を、奇怪に歪んだ鎌のようなものが抉り取る。思わず、ひ、と喉が鳴った。

鎌の呪霊は先に祓った二体よりも体が大きかった。大きく裂けた口のようなものがにんまりと笑っているように見える。私は刀の柄を折らんばかりに握り込んで、呪霊に向き直った。しっかり持っていないと汗で滑って飛んで行ってしまいそうだ。じりじりと間合いを詰めながら、昨日教わったことを思い出す。

ふっと空気が揺れ、呪霊は真っ直ぐこちらに向かってきた。大丈夫、そんなに速くない。自分に言い聞かせ、目をつぶりたくなるのを我慢する。
ギリギリまで引きつけて、鎌がぶつかる寸前、身を翻して攻撃をいなした。鎌と刀が擦れ合い、耳障りな金属音が響く。その勢いに任せて私は大きく振りかぶり、呪霊の脳天に向かって思い切り刀を突き立てた。

「このッ……!!」

耳をつんざくような悲鳴を上げて呪霊は暴れた。刀が抜けそうになるのを両手で押さえ込む。振り回された鎌が空気を切り裂く音がして恐ろしかった。でも、絶対に逃がすもんか。五条先輩のしごきに比べたら全然怖くないんだから。私はそのザラついた体に取り付いて、深く深く刃を食い込ませた。ダメ押しに刀を介してこれでもかと呪力を流し込んでやると、呪霊は次第に大人しくなり、やがて息絶えた。

呪霊が動かなくなっても、私はしばらく刀を突き刺し続けた。そうしないとまた動き出しそうで、手が離せなかった。

「ナマエ」

力を込めすぎた手がブルブルと震え出す頃、私の頭にふっと大きな手が乗っかった。それでようやく私は、自分が呼吸を忘れていることに気がつく。途端に胸が苦しくなって、ひゅうと音を立てながら大きく息を吸い込んだ。隣に立った五条先輩は、にっと口端を吊り上げて私を見下ろしていた。

「上出来」

言うが早いか、さっと掌印を結んだ先輩の指先から眩い呪力がほとばしる。それは最後に残っていたひときわ気配の強い呪霊を瞬時に両断した。断末魔を上げることもできないまま、呪霊の姿はたちまち跡形もなく消え去り、辺りはまたしんと静まり返った。まさに一瞬の出来事だった。

一部始終を見た私は、口を開けたまま呆然としていた。二級をあんな簡単に?

「やればできるじゃん。てか俺ってやっぱ教師の才能アリ?」
「え、はい、ありがとうございます……?」
「なんで疑問系だよ」

ウケる、と言って先輩は軽薄に笑った。

もちろん五条先輩の強さは聞き及んでいたけれど、あまりの格の違いに頬を叩かれたような心地がした。本当に、私なんかいなくても、文字通り一瞬で終わる任務だったんだろう。先輩は私に経験を積ませるために、手を出さずにいてくれたんだ。

「ありがとうございます……」
「二回も言わなくても聞こえてるっつーの。壊れたか?」
「……いえ、ただ、お礼が言いたくて」

やっぱり五条先輩はすごい人だ。私、とんでもない人に特別講義してもらってしまった。初任務を果たした達成感と、褒められた嬉しさと、五条先輩への圧倒的な尊敬の念とで、私は胸がいっぱいになった。

「なにニヤニヤしてんだよ、気持ち悪っ」
「え!? すみませ……!」

冷めた目線を向けられ、慌てて手のひらで口元を隠した。恥ずかしい。考えていることがすぐ表に出てしまうのが私の悪い癖だ。
火照った顔を手で仰ぎながら、ふと五条先輩の背後に目をやったときだった。木の影で何かがうごめく気配がして、次の瞬間、キラリと光る刃のようなものが見えた。

後から思えば、愚かな行動でしかない。でもそのときは、考えるより先に足が動いてしまった。

「——ナマエ!!」

五条先輩を押しのけて躍り出た私の脇腹に、鋭い熱が走った。

 

 

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