「乱くん、何見てるの?」
不意に手元に影が差した。視線を上げれば、榛色の瞳がきょとんとこちらを覗き込んでいる。仕事で出かけていたはずのルームメイトだった。
「……薫くん。おかえり、ずいぶん早かったね」
「ただいま。雨でロケが一本中止になっちゃってさー」
ソファに沈めていた身体を起こし、彼のためにスペ―スを空ける。隣に腰を下ろした薫くんからは微かに雨の匂いがした。そういえば今日は朝から天気がぐずついていた。梅雨入りが近いと天気予報で聞いたことを思い出す。
「それ、スタンプカード?」
うっすらと濡れた髪を煩わしそうに掻き上げながら、薫くんは再び私の手元を見やった。花の形の判が九つ押された淡い灰色のカード。裏返すと、見慣れた店名のロゴと野花のイラストが現れる。
「……うん。お花屋さんのスタンプカード」
「えっ。乱くん、花屋とか行くんだ」
しかもスタンプカードも集めるんだ、と感慨深そうに言われた。
「……おかしいかな」
「ううん全然! ただ、『乱凪砂』とスタンプカードの組み合わせが意外っていうか、ファンの子が知ったら驚いちゃうかもね」
「……確かに、こういうものを自分で持つのは初めてだな」
最近まで買い物は基本的に茨に任せていたし、そうでなくても同じ店に何度も通うとか、些細な割引や特典のためにスタンプを集めることにもあまり関心がなかった。
けれど、実際に始めてみると存外に面白い。自分の行動の軌跡をスタンプという形で残すのは新鮮で、それが積み重なっていく様を眺めるのも楽しかった。最終的に得られる報酬そのものより、そこに至るまでの過程にこそ価値があるのかもしれない。
「見せてもらってもいい?」と律儀に訊いてくる薫くんに再び頷き、カードを手渡す。こういう誠実さが彼の好ましいところだと思う。
「どこにあるお店なの?」
「……桜並木の、遊歩道のところ」
「あんなところまで? 事務所から遠くない?」
「……散歩をしていて見つけたんだ。少し歩くけれど、静かでいいところだよ」
煉瓦敷きの遊歩道にひっそりと佇む店構えを思い返す。開け放たれた硝子戸と、その向こうから薄く流れ出す花の香り。華やかな服飾店や輸入雑貨店が並ぶ中であの店だけがいつもしんと静かだ。
あの店に足を踏み入れる瞬間が好きだった。コンクリートの床を埋め尽くすように並べられたブリキのバケツの鈍い銀色や、凛と咲き誇る花々の鮮やかな生命の色、そしていつも彼女が身に着けているエプロンの柔らかい緑色。そういうすべてが、水彩で描かれたような瑞々しさであの空間には存在している。写真や映像でもないのに、カードを見るたびにその光景がくっきりと脳裏に蘇ってくるから不思議だった。
「それにしても、乱くんがそんなに花が好きだったなんて知らなかったよ」
薫くんからカードを受け取りながら、ふと思考が止まる。私は、花が好きなのだろうか。だからあそこへ幾度も訪れたくなるのだろうか。
花を、美しいとは思う。愛でる心もわかる。けれど、それが〝好き〟という感情なのかと訊かれたら、何と答えるべきだろう。
「……そう、なのかな」
「え、だってそんなに通ってるんだし、そういうことなのかなって思ったんだけど」
九つのスタンプが押されたカードを指して薫くんが言う。
「……花、というか、そこの店員さんと話すのが楽しくて」
「店員さん?」
「毎回、私の質問に的確に答えてくれるし、私の知らないことをたくさん教えてくれる。おかげで花についてとても詳しくなったよ」
「さすがはプロだねえ」
花のひとつひとつに言葉が込められていること。色や本数や種類によってその意味が変わること。世間一般にはごく当たり前のことすらよく知らない私に、彼女は呆れもせず丁寧に教えてくれた。
ひとつを知ると、もっと知りたいと思うようになる。それでつい足を運んでしまうのだ。そういうようなことを拙い言葉でどうにか伝えると、薫くんは屈託なく笑った。
「それってやっぱり、乱くんは花が好きなんじゃないかなあ」
「……そう思う?」
「少なくとも良い感情を抱いているってことじゃない? 好きの一歩手前、っていうか」
「……好きの、一歩手前」
「〝もっと知りたい〟っていうのは、そういうことだと俺は思うな」
薫くんの言葉はいつも澄んだ水のように胸の中へ沁み込んできて、絡まった思考をそっとほどいてくれる。その感じは、彼女と話しているときの感覚に少し似ている気がした。
花のことを嬉しそうに語る彼女の声を聞き、花に優しく触れる白い指先を見ていると、何か柔らかくてあたたかいものに包まれているような、ふわふわと心地良い気分になる。それはきっと彼女こそが花を〝好き〟だからなのだろう。その誠実さ、純粋さを私は好ましいと感じている。
「そんなに素敵なお店なら、俺も今度行ってみようかなあ」
「……え」
スマートフォンを操作しながら薫くんが何気なく言った。SNSでさっそく店のアカウントを見つけたようだった。見せてもらった画面には間違いなく『ミモザ』の外観が映っている。見慣れているはずなのに、画面越しに見る硝子戸はなぜだかひどくよそよそしく感じられた。胸の奥をうっすらとした靄のようなものがよぎっていく。その正体を掴もうと目を凝らしたときにはもう消え失せていた。
そっと胸の辺りに手のひらを当ててみる。心臓は、とくとくと一定のリズムを刻んでいる。
「乱くん? どうかした?」
「……ううん、何でもないよ。なんだか息苦しい感じがしたんだけど、気のせいだったみたい」
「えっ、大丈夫? 疲れてるのかなあ。今日は早く休んだほうがいいよ」
「……ありがとう。そうするよ」
テーブルに伏せていたスマートフォンが震えて、見ると茨から来週のスケジュールが送られてきていた。雑誌のグラビア撮影に音楽番組の収録、ファンクラブ向けの会報誌のインタビューに舞台の稽古と、よくできたパズルのようにぎっしり予定が組まれている。
次に『ミモザ』へ行けるのはいつになるだろう。そこで私はどんな花を選ぶのだろう。短い返信を打ち込みながら思考に耽る。
今年は梅雨が長く続いて、七月に入ってしばらくしてもなかなか晴れ間が見えなかった。
しとしと降る雨の中を通り過ぎていくカラフルな傘の影を、レジカウンターの内側からぼんやりと眺める。ここ一週間で気温は一気に跳ね上がり、連日エアコンをかけても拭いきれないほどの蒸し暑さだ。花の鮮度を保つため温度を低めに設定しているので、閉め切った硝子戸は外気との気温差で真っ白に結露して向こう側の景色をぼやけさせている。
手元の作業が尽きてしまい、わたしはのろのろとカウンターを出た。伝票の整理に配達リストの確認、消耗品の発注、そして新しいスタンプカードの用意。さほどてきぱきやっていたわけでもないのに、気がつけばすべて終わっていた。雨の日はいつにも増して客足が遠のいてしまう。傘と荷物を持ち、さらに花まで買って帰ろうという人はなかなかいない。壁の時計を見ると、最後に確認した時刻からまだ一時間も経っていなかった。
(……なぎささん、最近来てないなあ)
ふう、と漏れた溜息が思いのほか重たく響いて、誰に聞かれたわけでもないのに咳払いをする。
ほぼ週に一度のペースで現れていた彼が、ここ三週間ほど姿を見せていなかった。忙しいのか、花を買う必要がなくなったのか、それとも他に気に入る店を見つけたのだろうか。それならまだいいけれど、病気や怪我で出歩けない状態になっている可能性だってなくはない。
わけもなく店内をぐるりと歩き、出入口を開けて通りを見渡してみる。足早に行き交う人の姿はまばらだ。期待したような出来事はなく、軒先から滴る雨粒で前髪が濡れるだけだった。どんよりと暗い色に濁った空を見ていると心まで淀んでいくような気がして、わたしは早々に店内に引っ込んだ。いずれにしても、連絡先も知らないわたしにはここで店を開けていることしかできない。
まだ桜も咲かない春の始まりの頃、ミモザを抱いた彼がこの場所に立っていた。柔らかい光の差し込む午後だった。六月にはアジサイを選んだ。あの日の通り雨は、見たこともないほど透き通ってきれいだった。
薔薇の花も、スタンプカードも、黒いキャップも、星屑の髪も。どれもほんの短い時間の出来事ばかりなのに、全部、鮮やかに覚えている。まるでスローモーションの映像を繰り返し見ているみたいに、はっきりと思い出せる。こんなことは初めてだった。その記憶があんまり明るく光るから、今日の空が余計に暗く見えるのかもしれなかった。
「……あ」
数か月前にミモザがあった同じ場所に、今日はたくさんの百合の花が窮屈そうにひしめき合って並んでいる。その中に俯いて萎れかけているものを見つけた。今朝の水替えのときに検品したはずなのに、見落としていたようだ。バックヤードから廃棄用のポリバケツを持ってきて、萎れた花を選り分ける。気温が上がってくると、デリケートな切り花はすぐに傷んでしまう。土から切り離された花の命は短い。
なんだか、ひどく気落ちしている自分がいた。きっと天気のせいで気が滅入っているんだろう。もやもやとわだかまった何かが胸の底を重たくして、わたしはうずくまったままバケツの中の萎れた花をぼうっと見つめた。
こういう日には、嫌なことを思い出してしまう。
あの日もこんな風に生ぬるい雨が降っていた。黒々と濡れたアスファルトに真っ白な花が散らばって、そのコントラストがやけにまぶしかった。
『――つまんないね、おまえ』
そう冷たく吐き捨てたあの人は、どんな顔をしていただろう。記憶がぐにゃぐにゃと歪んで、目を凝らしてもよく見えない。振り払われた手の熱さばかりが鮮明に蘇り、わたしは無意識のうちに強く手を握った。
むせかえるような甘い香りが満ちている。湿気と混じり合ってより濃く重たくなったその香りに溺れていくような錯覚を覚えた。鼓膜を打つ雨音が強くなる。花の香りがべっとりと纏わりつき、息ができなくなる。
かたん、と音がして我に返った。
「……こんにちは、お花屋さん」
店の入り口に彼が立っていた。後ろ手に閉めようとしたのか、硝子戸が半開きの状態で止まっている。百合の花の前にうずくまるわたしを捉え、黒いキャップの下の瞳がわずかに見開かれた。閉じた傘の先からはぽとぽとと雨粒が伝い落ちて床を濡らしていた。
「あ……こ、こんにちは……」
「……私、何か邪魔をしてしまった?」
「いえ、そんなことは」
慌てて立ち上がろうとすると、視界がふらりと揺れた。一瞬、周囲の音が遠くなる。立ちくらみだ、と思ったときには彼がわたしの肩を掴んで支えてくれていた。その手のひらの温度で、少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
「……顔色が悪いね。大丈夫?」
「すみません、ちょっと立ちくらみしただけです……」
もう大丈夫だと告げると、彼はわずかにためらってからゆっくりと手を離した。ふたりの間をぬるい風が通り抜けて、濃く立ち込めた花の香りを攫っていく。そっと深く息を吸うと、水と土の匂いがした。じっとりと湿った初夏の熱気に汗が滲む。けれど、さっきのような息苦しさはもう感じなかった。
「……そうだ。これをあげるね」
ふと何かを思い出したように、彼がポケットから小さな包みを取り出した。手のひらに乗るくらいの透明な袋の中には、ころんと丸い形の、いわゆる金太郎飴が五つばかり入っていた。パステルカラーの飴の中心には花の模様が描かれている。
「これは……?」
「さっき、商店街の福引きで当たったんだ」
当たった、という部分をことさら嬉しそうに彼は言った。袋には熨斗を模したシールが貼ってあって、『残念賞』と書かれている。つまり、はずれだ。
「あの、」
「うん?」
一度開きかけた口を、何も言わずに噤む。だって彼があまりにも自信たっぷりににこにこしているから、「『賞』というくらいだし、実は当たりなのかもしれない」なんてデタラメな理論で肯定したくなってしまったのだ。そう思ったらなんだか急におかしくなって、わたしもつられて笑った。絡まっていた何かがふっとほどけるように、心から自然に笑っていた。
「ありがとうございます。可愛い飴ですね」
「……ふふ。よかった、やっと笑ってくれた」
顔を上げると、柔らかく細められた瞳と視線がぶつかった。彼の瞳は不思議な色をしている。静かに燃える炎のような赤色、明るい日差しのような黄金色、熟した果実のような橙色、その全部が混ざり合って夢みたいに揺らめいている。まっすぐ見つめられて頬が熱くなるのがわかった。咄嗟に手のひらで顔を覆う。もう耳の先まで熱いから意味がないかもしれない。
「わ、わたし、変な顔してました?」
「……変ではなかったけれど、少し疲れているみたいに見えたから。疲れたときには甘いものを食べるといいって聞いたよ。糖分を摂取することで、低下した血糖値を正常に戻して疲労を回復させたり、エンドルフィンの濃度を高めて幸福感を得ることができる」
「えんどり……何です?」
「エンドルフィン、幸せホルモンというやつだね。脳内麻薬などとも呼ばれる」
「麻薬!?」
思わず飴の袋をぎゅっと握ってしまう。彼は「ただの俗称だよ」と軽快に笑った。『残念賞』の意味も知らないのに、かと思えばこうして急に難しいことを言う。子どもなのかおとななのか、よくわからない。
「……あのね、今日は部屋に飾る花を買いに来たんだ。最近ずっと天気が悪いから、少しでも雰囲気を明るくしたくて」
「でしたら、向日葵の鉢植えはいかがですか? お手入れは必要ですけど、切り花より断然長く楽しめます」
「……初心者でも大丈夫かな」
「日当たりとお水に気をつけていれば、ちゃんときれいに咲きますよ」
壁の設えられた棚には鉢植えの花たちが行儀よく並んでいる。その中からわたしは濃いオレンジ色の花をつけた三号サイズの鉢を取った。初めてで、お部屋にちょっと飾るならこれくらい小ぶりな鉢がいいだろう。片手で持てるくらいの大きさだから、ベッドサイドやダイニングテーブルにも飾ることができる。
「ミスサンシャインという品種です」
「……可愛らしい名前だね」
「ふふ、元気いっぱいって感じですよね」
「……うん。とても素敵」
カウンターに置いた向日葵を彼はしげしげといろんな角度から観察すると、満足そうに頷いた。気に入ってもらえたようでほっとする。おすすめした花を買ってもらえるのは嬉しい。自分の〝好き〟が誰かの〝好き〟に触れる瞬間はとても幸せだ。
持ち帰ってすぐ飾りたいというので、複雑なラッピングはせず、お手入れの説明書とおまけの肥料を添えて慎重に手提げ袋に入れた。この向日葵が今日から彼の部屋に飾られると思うと、なんだか誇らしいようなくすぐったいような、言葉にできない気持ちになる。
「……そういえば、今日でスタンプカードがいっぱいになるのだけど」
「あ、そうでしたね。今日、何かと交換されますか?」
「……そうだね。どれにしようかな」
「切り花か、千円以内のミニブーケも大丈夫です」
形の良い顎に指を当て、彼は思案するようにぐるりと店内を見渡した。
店内のどれでも、と言うと、大概のお客さんは一本でも華やかに見えるボリュームのある花か、ブーケを選ぶ。今日だったら百合やグラジオラス、トルコキキョウなどがきっと好まれるだろう。涼しげな青いカンパニュラのブーケも人気かもしれない。
けれど、彼が選んだのはまったく別の花束だった。ふわふわと小さな白い花をたくさんつけた、繊細なレースのような花。かすみ草だ。
「あの、もっと華やかなお花じゃなくていいんですか?」
思わず尋ねていた。かすみ草は知名度も人気も高い花だけれど、単体で主役になることはほとんどない。メインにするには地味すぎるのだ。一本だけだと寂しく見えてしまうから、当店では数本を束ねて売っている。それでも他の花の隣に並ぶとどうしても控えめに映ってしまう。
「……どうして?」
「わたし自身は大好きな花なんですけど……かすみ草って、単体だとちょっと地味に見られがちというか、あまり主役に選ぶ方がいないので」
「……そうかな。私は、とても可憐で美しいと思ったよ」
優しい声で彼が言った。
そっとカウンターに置かれたかすみ草の花束を見る。細く枝分かれした茎の一本一本まで、弾けるようにたくさんの白い花が咲いている。百合や薔薇の鮮烈な白とはちがう、春の始めに降る雪のように、軽やかで柔らかい白。
地味で控えめで、だけどわたしは昔からこの花が好きだった。店の片隅でじっと誰かを待っていたこの花を、彼が見つけてくれたことが嬉しかった。
「……プレゼントにしたいんだ」
「じゃあ、リボンをかけますね。どの色がよろしいですか?」
「……君はどれがいいと思う?」
ブーケの持ち手に結ぶリボンは四色用意しており、ネイビー、ボルドー、オリーブ、グレーから選んでもらうことになっている。
「えっと。花が白いのでどの色でも合うと思います。お贈り先の方の好きな色とか」
「……うーん、わからないな」
「女性ですか、男性ですか?」
「女性だね」
瞬間、なぜか胸の奥がちくりと痛んだ。何でもないようなふりで「安直ですけど、ボルドーにしておきますね」とリボンを手に取る。
そうか、花を贈るような女性がいるんだ。当たり前か。こんなに素敵な人なんだから、そういう相手がいても何もおかしくなんてない。
「お待たせしました。どうぞ」
何度か失敗しながらどうにかリボンを結んだ花束を、彼はいつも通り丁寧に受け取って「ありがとう」と微笑んだ。
この花の向こうに、彼は誰を見ていたんだろう。きっと家族やただの友達じゃないのだろうと思った。ただの花屋の勘だけれど、たぶん間違っていない。見も知らぬその人のことがほんの少し羨ましかった。だってこんなに優しい顔で想ってもらえるのだから。
「喜んでもらえるといいですね」
「……うん、そうだね」
花束と引き換えに、十個のスタンプが貯まったカードを受け取る。春のカードは終了したので、次は夏のカードだ。まだ何も押されていないまっさらなカードを差し出そうとしたとき、目の前で小さな花が揺れた。
「……じゃあ、これは君に」
「へ……?」
さっき彼の手に渡ったばかりのかすみ草の花束が、今度はわたしに向かって差し出されていた。わけがわからず、花と彼の顔とを何度も見比べる。彼はおかしそうに目を細めて笑っていた。いたずらが成功した子どもみたいだった。
「たくさんの『幸福』が、君に訪れますように」
かすみ草の花言葉――感謝と、幸福。
おずおずと受け取った花束は羽根のように軽くて、心までなんだかふわふわする。思えば花は売るばかりで、もらう側になったことは数えるほどしかなかった。こんなに嬉しいものなのだ。何か気の利いたことを言いたいのに、どんな言葉にしたらいいのかわからない。
「……喜んでもらえたかな」
「はい、あの、でも、こんな……わたしがいただいていいんでしょうか」
「……私がそうしたいと思ったから、受け取ってくれると嬉しいな。これはお店のルールに反している?」
「そんなことは、」
「あともうひとつ、お願いがあるのだけど」
彼はほんの少し腰を屈めて、わたしの目を覗き込むように視線を合わせた。カウンター越しなのに、いつもより距離が近づいた気がしてどきりとする。彼のキャップの鍔が額に触れてしまいそうで、でも息を止めたまま一ミリも動けなかった。
「……君の、名前を教えてくれる?」
彼の瞳の中に光が散って、きらきらと瞬いている。小さな花が弾けるように。
「……ミョウジ、ナマエです」
「……ナマエさん」
ゆっくりと、確かめるように彼が繰り返す。新しい花の名を覚えるときとおんなじだった。大切に、心にしまい込むみたいに、そっと優しく呼ぶのだ。
「あの、」
「……うん」
「なぎさ、さんは」
「……うん」
「……どんな字で、書くのですか」
初めてだ、お客さんに名前を訊くなんて。誰かにとってただの〝お花屋さん〟以上の何かになってみたいと思うなんて。なんとも身の程知らずな、だけど抗いようもない感情だった。わたしは、この人のことをもっと知りたいと思っている。
「……夕凪の『凪』に、砂浜の『砂』で、凪砂。乱凪砂」
美しい音のひとつひとつが、まあるい真珠のようになって耳の横をころころ転がり落ちていく。
「凪砂さん……」
口にした瞬間、その名前が初めてくっきりと形を持った気がした。その美しい名前と彼の輪郭がぴったり重なって、わたしの胸の中に像を結んで、それはきっといくら目を閉じても何度眠って起きても決して消えることはないのだろうとわたしは予感していた。
「……またね、ナマエさん」
揺れる銀糸の髪の先が流れ星みたいに見えた。外がやけにまぶしいと思ったらすっかり雨がやんでいて、さっきまで渦巻いていた陰鬱な気持ちまでもが雨雲と一緒にどこかへ行ってしまっていた。頬が熱い。これも脳内麻薬の効果なのかな。