寒がりの心臓

新年を迎えた翌日の晩だった。静寂を切り裂くようにいきなりインターフォンが鳴り、何かと思えばドアスコープの向こうには巴日和が立っていた。

「えっ、何事」
「寒い寒い寒い! 早く中に入れて!」

控えめに開けたドアの隙間から、冬の夜風とともに長身がするりと滑り込んでくる。冷たく乾いた空気のにおいで眠気が一気に醒めた。

「どうしたの、実家に帰ってたんじゃなかった?」
「抜け出してきた。……ねえこの部屋寒すぎるね⁉ 人間の暮らす部屋じゃない!」

狭いアパートの玄関をあっという間に占拠した彼は、それでも飽き足らず家主のわたしをぐいぐいと奥へ押しやってくる。柔らかそうなマフラーに埋もれた鼻先は真っ赤で、肌が白いから余計にその血色が鮮やかに見えた。ずかずかと部屋に上がり込み、日和くんはテーブルの上からエアコンのリモコンを取って勝手に温度を上げる。短い電子音が三回鳴ると、それまでゆるい風をたらたらと吐き出していたエアコンが急に目覚めたかのように唸りを上げた。

「ちょっと。節電」
「それどころじゃないね! 節電なんかよりぼくをあたためることのほうが大事でしょ⁉」
「ええ……?」

横暴すぎる。なけなしのお給料でやりくりしているしがないOLの身にもなってもらいたい。冬場の光熱費はばかにならないんだぞ。……という文句はどうにか喉の奥に押し込めた。寒がりのこの人が、こんな真冬の夜更けにひとりきりでわざわざやってきたのだ。恋人として少しは労わってやらなければならない。

震えている肩にとりあえずブランケットをかけてやって、キッチンでお湯を沸かす。ホットレモネードを淹れて部屋に戻ると、日和くんのコートとマフラーはきちんと壁のハンガーにかけられ、彼自身はソファにお行儀よく腰かけていた。見慣れない暗色のスーツに身を包んだ姿はいつもよりずっとおとなびている。きっと彼のためだけに仕立てられたのだろう上等のそれは、長い手足を過不足なく覆い、柔らかな鎧のように見えた。

「まだ三が日も終わらないのに、おうちにいなくて大丈夫なの?」
「いいの。ぼくは気楽な次男坊だからね、少し顔を出してにこにこしておけば、それでぼくの仕事はおしまい」

かちりと締められたネクタイをゆるめながら日和くんが言った。
そんなものか、と思いながらレモネードのマグを差し出す。

平々凡々の家で生まれ育った私には、上流階級の暮らしのことはいまいちわからない。そもそも正月だからといって人をたくさん呼んでパーティーを開く世界があるということも、日和くんから聞いて初めて知ったのだ。「それって、みんなですごろく大会とかするの? それとも花札?」と真面目に尋ねて大笑いされたのはいつのことだっただろう。

「あっ! またインスタントのレモネードだね!」
「うるさいなあ。庶民の家にはこれしかありません。飲まないの?」
「しょうがないから今日はこれで我慢してあげるね」

彼の華奢な手には大きすぎるような気がしたマグカップを、日和くんは危なげない手つきで受け取る。そういう一瞬一瞬の出来事によって、わたしはこの人が自分とは違う生き物であることを思い出す。
作りものめいた横顔で、彼はぼんやりと遠くを見つめていた。いつもうるさいくらいにおしゃべりなのに、こういうときの日和くんはやけに口数が少ない。そっと手を伸ばし、ゆるやかに波打つ髪に触れた。月の光に似た色のそれはふわふわ柔らかくて、まだほんのりと冬の夜を孕んでいる。ゆっくりと、わたしの手の温度を馴染ませるように指を滑らせる。

「……なあに?」
「別に、なんでもないよ」

何か言いたげにこちらを見た日和くんは、でも結局口を噤んでレモネードを一口啜った。ふ、と小さな溜息が漏れ、エアコンのぬるい風に混ざって消えていく。

「……家のことは兄上に任せておけば大丈夫だね。兄上さえいれば、みんなは満足するからね。でも、きみにはぼくがいてあげないと」
「よく言うよ」
「だって、寂しかったでしょう?」

こつん、と硬い音とともにマグカップがテーブルに戻される。影がさして、視線を上げれば透き通る紫色がすぐ目の前にあった。ひどく切実な眼差しだった。口ではえらそうなことを言いながら、ふとした瞬間、こうして道に迷った子どもみたいな目をしてわたしを見る。ずるい男だった。ずるくて、器用なくせに不器用で、強くて弱い生き物だった。

「……うん。寂しかったよ」

囁くように答えれば、美しい瞳が安堵したようにふっとやわらぐ。いくらか血色の戻った唇でわたしのそれに軽く触れて、日和くんは満足げに笑った。
何も確かめる必要なんかないのにな、と思う。わたしには日和くんが一番に大切で、必要で、いつだってここで彼だけを待っている。急に押しかけて来られたって、エアコンの温度をいくら上げられたって、どんな憎まれ口を叩かれたって、変わりはしない。それは生きるために呼吸することとおんなじくらい、わたしにとっては当たり前のことだった。そうと知っていてもなお言葉や形が欲しいとねだる、この人の寂しさが愛しかった。

「あーあ、年末からずうっと働き通しだったから疲れちゃったね! 休憩休憩」
「あ、ちょっと。スーツ脱がないと皺になるよ」
「あとで」

日和くんはソファの上でごろんと仰向けに寝転んで、わたしの太腿に無遠慮に頭を預けた。確かな重みとぬるい体温が伝わってくる。柔らかな前髪をそっと掻き分け、丸い額に触れた。わたしをまっすぐに見上げてくる表情は普段よりずっとあどけなくて、胸の底をくすぐられるような心地がした。

「きみの作る庶民っぽいお雑煮が食べたいね。ご馳走はもうお腹いっぱい」
「一言余計なんだよなあ」
「で、明日はおしるこがいいね!」
「泊まっていくつもり? 七種くんに怒られない? わたしが」
「今日は実家に泊まっている予定だから問題ないね」
「しれっと大胆なことするよね、たまに」
「ねえ」

日和くんの頭を撫でる手を、彼の存外に大きな手が絡め取る。手首から甲へと滑らせた指先で、彼はわたしの薬指にそっと触れた。皮膚の感触を、その奥の骨の形を、確かめるように丁寧に撫でていく。
そのときの日和くんの顔をどんな風に表せばいいだろう。たとえば透明な氷柱から滴り落ちる真新しい雫の玉や、まだ足跡のない雪原を照らす朝の光や、冬を超えてゆっくりと綻び始める花の蕾みたいな、そういう切なくて美しい色をしていた。何を言われたわけでもないのに、なぜだか胸が熱くなって泣きたくなった。薬指は心臓に繋がっている、という話を思い出す。こんな風に撫でられるんだったらハンドクリームくらいちゃんと塗っておけばよかった、なんて間抜けなことを考えて、わたしはようやく涙を零さずにいられた。

「こういうお正月も、悪くないね」
「来年はちゃんと連絡してから来てよね」
「あはは、来年も待っててくれるの?」
「……うるさい」
「帰るおうちを同じにすれば、もう待たなくてよくなるね」
「なにそれ」
「何って、わからない?」

薬指をぎゅっと握り込まれ、うまく息ができなくなる。にやりと笑う口元が腹立たしくて無理やりにキスをした。唇をくっつけたまま鼻を啜り上げると、閉じた瞼の向こうで日和くんの笑う気配がした。うなじに回された手はもうすっかり熱くなっている。冷めかけのレモネードだけがわたしたちを見ていた。

寒がりの心臓