わたしの恋人はアイドルである。
巨大アイドル事務所の中でも『ビッグ3』などと呼ばれる看板ユニットの一角、そのリーダーとして君臨する文句なしのトップアイドル。長い髪は夜空を切り裂く彗星の如く、鋭い眼光は磨き抜かれた刃の如く、深い歌声は滔々と流れる大河の如く。ステージに立つ彼はさながら美しき孤高の獣だ。何者をも寄せつけない、圧倒的な強さと輝きを放っている。
――はずなのだが。
「うーん……」
リモコンの一時停止ボタンを押すと、画面いっぱいに映った白髪の男はぴたりと動きを止めた。スポットライトの中で鮮やかに舞うしろがねと、その隙間から覗く大胆不敵な表情、誘うようにこちらへ差し伸べられた指の一本までもが官能的で、見る者の目を一瞬で釘付けにする。
「……どうかした?」
ふと声がして振り返れば、画面の中にいるのと同じ顔が不思議そうにわたしを見つめていた。ソファに寝そべったままちょっと首を傾げる仕草は何ともいとけなく、まるで幼子か小動物を見るような愛しさで胸がきゅんとなる。
両腕に抱え込んだ膝を解放し、わたしはラグの上を這うようにして彼の元へとにじり寄った。かれこれ一時間もずっと同じ姿勢で座っていたから、つま先がじんと痺れている。どうにか膝立ちになって手を伸ばし、白い頬に触れた。しっとりとなめらかで、あたたかくて柔らかい。
「凪砂くん。チョコついてる」
「……ん、ありがとう」
唇の横に残った焦茶色を指で拭ってやれば、「読書に夢中で気づかなかった」と彼は穏やかに目を細めて笑った。テーブルの上には食べかけのチョコレートドーナツを載せた皿と、うずたかく積まれた本の山がある。
少し前まで、この部屋にある活字といえば漫画本か雑誌くらいのものだった。なのに気がつけば小難しそうな書物でわたしの本棚はじわじわと侵食されつつある。地層がどうたら化石がどうの、宗教と歴史がなんちゃらといった、難解で豆粒みたいな文字のぎっしり詰まったそれらがわたしは大の苦手だったが、凪砂くんの持ち物であるということだけで特別に存在を許している。
彼の手の中にある分厚い一冊を見やる。長い指で大事そうにめくられ、真剣な眼差しを一身に浴びるそいつがちょっと妬ましい。この人は、放っておくとひとりきりでどこまでも好奇心の海へ潜っていってしまう。
「……何?」
「本当に同一人物かなあ」
傷ひとつない頬を両手でそっと挟んで、やわく押し潰してみる。高級なマシュマロみたいにふわふわの肌は、何の抵抗もなくわたしの手のひらの輪郭に沿って形を変える。
されるがままに頬を揉まれながら、凪砂くんは目線だけでテレビのほうを見やった。自分の顔がどアップでカメラに抜かれているというのは一体どんな気分なんだろう。わたしだったら毛穴まで見えそうでいやだ。もちろん凪砂くんの鼻の頭にはそんなものひとつも見当たらない。
「……ああ。この前のライブの映像、観てくれたんだね」
「観たよ。とってもかっこよかったです」
「嬉しいな」
「だけど、あれは本当に凪砂くんなのかなっていつも不思議な気持ちになるの」
「……そう?」
琥珀を溶かして蜂蜜を混ぜて煮詰めたような瞳が、ゆるやかに二度、まばたきをする。じいっと何かを待っているみたいにわたしをまっすぐ見つめてくる、この目が好きだ。
「だって、こんなに柔らかくて可愛いのに」
「……頬の柔らかさと可愛らしさに、明確な相関関係はないと思うけれど。ああでも、一般に『ゆるかわ』と言われるキャラクターたちが総じて柔らかそうな見た目をしているのは、興味深いね」
わたしにとっては、ゆるかわな凪砂くんがステージの上であんなに強気で色っぽくなっちゃうことのほうがよっぽどキョーミ深い。
「凪砂くんって」
「……うん」
「実は双子だったりする?」
むに、とさらに力をこめて頬を押してみると、凪砂くんがちょっとばかり眉を顰めた。もしかして痛かっただろうか。ごめんね、と慌てて引っ込めようとしたわたしの手を凪砂くんの大きな手が絡め取る。
「……私は、私ひとりだよ」
「そうだけど、だってあまりにも普段とちがうから」
わたしの会う凪砂くんはいつも物静かで、歴史と書物をこよなく愛し、甘いものが大好きな、ちょっと口下手で可愛い人なのだ。あんな風に雄々しくてセクシーな凪砂くん、わたしは画面の中でしか見たことがない。
「だからちょっと信じがたいっていうか……」
「……じゃあ、確かめてみる?」
「え? ……わっ!?」
ぐるんと世界が回った。否、わたしの身体はティッシュペーパーのようにひらりとひっくり返されてソファに転がっていた。さっきまでここに寝そべっていたはずの凪砂くんはわたしの上に覆い被さっている。白い髪が雨みたいに降ってきて、視界が暗くなる。
「な、凪砂く」
「わからないというのなら、」
骨張った指がするりとわたしの頬を撫でた。本をめくるときの仕草とは全然ちがう、明らかな温度と湿度を孕んだ指先だった。瞬間、身体の奥のほうから、ぶわっと熱が湧き上がってくる。射るような眼差しに貫かれ、息が止まった。
「その身に教え込んでやろうか――甘やかな快楽の味を」
吐息の混ざる距離で彼が囁く。今度こそ心臓が止まるかと思った。凪砂くんの指は頬から顎へ、そして首筋を辿って鎖骨へと淀みなく滑り降りていく。触れられたところがびりびり痺れて、どんどん皮膚が溶け落ちていくみたいな心地がした。やっぱりこんなのおかしい。だって、だってついさっきまであんなに可愛い顔していたのに。ほっぺにチョコつけて笑ってたのに。なのに。
「……ふふ、どうだった?」
ふに、と優しく頬をつままれてようやく我に返った。言葉を失ってはくりと口を開けたわたしを見下ろし、凪砂くんが満足そうに目を細める。
「君の愛する凪砂くんは私ひとりだけだって、これでわかってもらえたかな」
「わ、わ、わかりました……! わたしが悪かったです……!」
「そう。よかった」
「わかったのであの、そろそろどいてもらって……」
「じゃあ、次は君の番」
にっこりと、それはそれは美しく凪砂くんは笑った。蜂蜜よりもっと甘ったるい何かを湛えた瞳が近づいてくる。どんなに精密なカメラでも、この色はきっと映し出せやしない。
「――私のために、可愛く鳴いてくれるね?」
返事は呼吸ごと呑み込まれる。重なった唇はあたたかくて、チョコレートの味がした。
わたしの恋人はアイドルだ。そして、ときどき猛獣である。