またね、というその言葉通り、それから彼はたびたび店にやってくるようになった。
二回目は最初の日からちょうど一週間後だった。律儀にもスタンプカードをきちんと持参した彼は、わたしが「2」のマスに判を押すところをとても嬉しそうに眺めていた。スタンプカードというものを自分で持つのが初めてらしかった。その日は、すずらんと薔薇のテーブルブーケを買ってくれた。
三回目も四回目もその次も、彼は毎回ちがう花を買っていった。いつもお客さんのいないタイミングを見計らったかのようにふらっとやってきては、わたしにあれこれと花のことを質問し、店の隅々までじっくり眺めて一番気に入った花を選んでいく。あるときは一輪だけだったり、隆々と葉の茂った枝ものであったり、またあるときは両手に一抱えもある豪華な花束だったりした。そのどれもを彼は宝物みたいに、長い腕に大事に収めて帰っていった。
彼と話すのは楽しかった。まるで真新しいスポンジがぐんぐんと水を吸い込むように、彼は教えたことを全部きっちりと覚えていった。わたしはバイトを上がると毎日のように図書館に通った。彼の質問にもっと上手に答えられるようになりたくて、図鑑や園芸書をいくつも読んた。
知らないものを知りたい。そう言った彼の横顔がずっと胸の奥に残っていた。あのまっさらな眼差しに応えたかった。そんな風に思わせる真摯さが彼にはあった。
「……じゃあ、今日はアジサイにするよ」
「ありがとうございます」
梅雨入り間近の肌寒い日、午後一時を少し回った頃に彼はやってきた。
黒いキャップを目深にかぶり、長い髪はうなじのあたりでゆるいシニヨンにまとめられている。最近はずっとこの恰好だった。初めて見たとき、髪型変えたんですね、と言ったら、彼は「変装だよ」と悪戯っぽく笑っていた。〝変装〟したところで水際立ったスタイルの良さや独特の不思議な雰囲気はまったく隠せていない。これが芸能人のオーラというやつなんだろうか、と帽子の下から覗く銀色の髪の先を見つめて思う。星の光を集めて束ねたらこんな色のブーケになるのかもしれない。
「……私の顔に何かついている?」
「い、いえ。すみません」
ぼんやり見つめていたら目が合ってしまい、慌てて首を振った。お客さんのことをあれこれ詮索するのはよくない。
「アジサイ、何種類かありますけどどちらにしましょう?」
「……色によって意味があるのかな」
「花言葉ですか?」
「そう、花言葉。色や本数によって意味が変わると、前に教えてくれたよね」
ゆっくりと、記憶の縁をなぞるように彼が言う。
薔薇の花は九十九本で永遠になる。そう彼に教えたのは二度目の来店のときだったと思う。花言葉というものを知らなかった彼は、謎かけ? と不思議そうに首を傾げていた
花には、ひとつひとつに込められた言葉がある。色や品種によって異なることもあるし、本数で意味を変える花もあった。有名なのは薔薇の花で、一本の『ひとめぼれ』から始まり、九十九本で『永遠の愛』になる。だからプロポーズや愛の告白のシーンで好まれるのだと、花束をラッピングする間の暇潰しにそんな話をした。
――永遠に続くものって、本当にあるのかな。
真っ白な薔薇の花を見つめて、ぽつりと彼は呟いた。その声は凪いだ水面に雫がひとつ落ちるみたいに、ほんの小さく空気を揺らした。
肉体が失われても、その人の声やかたちを思い出せなくなっても、残るものはあるのかな。静かにそう続けた彼にわたしは何も言えなかった。伏せられた長い睫毛の奥の瞳に浮かぶ色をわたしは知っていた。散ってゆく桜をただぼんやりと見つめていた、あの春の日と同じだった。
「アジサイは咲く場所によってその色を変えることから、全般的に『浮気』や『移り気』といったちょっとネガティブな花言葉が有名です。けれど色別に見ると、青は『知性』や『神秘』、ピンクは『強い愛情』、白は『寛容』といったポジティブなものもあるんですよ。小さな花が集まって咲いているように見えるので、『家族団欒』という意味も持つ品種もあります」
しゃべりながらこっそりと隣を窺う。彼は時折頷きながら、わたしの話を真剣な顔で聞いていた。宝石みたいな目に翳りがないのを見ると、どこかほっとした。
「……白いアジサイは初めて見たな」
彼が見ていたのはアナベルというアメリカ原産の真っ白なアジサイだった。一般的なアジサイは、育った土壌の酸度によって色を変える。酸性の土では青色、アルカリ性の土では赤やピンク色に育つ。けれどこの品種は、赤や青に発色するための色素を最初から持っていない。だからどこで咲いたとしても純白のままなのだ。
「……花に意味を求めるなんて、人間は面白いよね。花は何も知らず、生まれた場所で咲いているだけなのに。ただそこに美しくあるということの他に、意味なんて必要ないと私は思う」
彼の手がゆっくりとアジサイを持ち上げる。青々とした茎の先から水が滴って、コンクリートの床に染みを作った。
わたしは花を持つときの誰かの手を見るのが好きだった。抱きしめるようにぎゅっと握る人、慣れない手つきで恐る恐るさわる人、友達と肩を組むみたいに親しげな人。彼はどうだろうか。慈しむように守るように、そっと優しく触れる指先を見る。この人には、白い花がよく似合う。
「……たぶん、ですけど」
いつの間にか雨が降っていた。しとしとと静かに降り注ぐ雨が、桜並木の鮮やかな深緑色をうっすらとした灰青に塗り替えていく。雨音の他には何も聞こえなかった。世界にふたりきりみたいだった。
「人は臆病で不器用だから、言葉にできない想いや願いがたくさんあるから……だからきっと、それを花に託すんだと、思います」
水と土の匂いが濃く立ち込めている。白い花にくちづけるように近づいていく横顔をただ見つめた。そのままひとつに溶けて消えてしまいそうに美しかった。
「……うん。その弱さや愚かさは、私も嫌いじゃない」
彼がふっと微笑んだ。止まっていた時間がゆるやかに動き出すように、雨音が少しずつ遠のいていく。短い通り雨だったようだ。薄く日の差し始めた通りを見やってほんの少し名残惜しい気持ちになった。
アジサイをブーケにしてほしいと言われたので、アナベルを主役にルリタマアザミとユーカリを足して小さな花束を作った。いつも彼は持ち帰った花をどうしているのだろう。誰かに贈るのか、飾って一緒に眺めるのだろうか。家族や――もしかしたら、恋人と。
「あ、次でスタンプ十個目ですね」
「……本当だ」
九つ目のスタンプを押したカードを彼に返す。
「次回以降、店内のお好きな切り花と交換できますよ」
「……どれでも?」
「はい、どれでも」
「……わかった。考えておくよ」
また来てくれるんだ。その日が待ち遠しいと思った。次はどんな花を選ぶんだろう。彼の気に入る花があるといい。楽しそうに弧を描く鼈甲の瞳を見ながら、次までにもっとたくさん勉強しておこう、と密かに誓った。
「例の彼、また来てた?」
彼が帰って一時間ほどした頃、店長が配達から戻ってきた。今日は隣町の華道教室から教材用の花卉の注文がたくさん入り、朝に市場で買いつけたものをその足で配達していたのだった。
「来てました。どうしてわかったんですか?」
「なんか嬉しそうだから」
「わたしが?」
「他に誰がいるのよ」
おみやげ、と小さな箱を渡される。隣町の有名なパティスリーのチョコレートだった。「お客さんいないから、こっそり食べていいよ」と囁く彼女からは微かにカカオとオレンジの香りがする。車の中で食べてきたな、この人。
「イケメンなんだっけ」
「まあ、はい、そうですね……」
イケメン、なんて俗っぽい言葉はあんまり似合わない気がする。けれど容姿が整っているのは事実なので否定はしなかった。
最近よく来てくれるお客さんがいるということは店長に伝えていた。わたしが以前にも増して花のことをあれこれ尋ねるので彼女が不思議がって、わけを話したのだった。そういうときの店長は本当に目敏く、わたしはこの人の前で隠し事ができない。
「いいなあイケメン。私も会ってみたい。今度は私のいるときに来てもらってよ」
「そんなことわたしに言われても……」
わたしだって彼がいつ来るのかわからない。彼の来店のタイミングは不規則で、朝一番の日もあれば、閉店間際のこともあった。芸能のお仕事をしているなら、きっと決まった時間に決まった場所を訪れるのは難しいんだろう。彼とは何度も言葉を交わしているけれど、結局は店員とお客さんの間柄でしかなく、あまり立ち入ったことを訊くのは憚られた。彼がどこに住んでいてどんな仕事をしているのか。次はいつ来てくれるのか。名前だってちゃんと知らない。
それに、なんとなくだけれど、彼とのあの時間はまだふたりだけのものにしておきたかった。
「知ってる? カカオの学名、『テオブロマ・カカオ』っていうらしいんだけどさ、ギリシャ語で『神様の食べ物』って意味なんだって」
たいそうな名前だよねえ、と笑う店長に空返事をしながら、手の中で所在なくチョコレートの箱をもてあそぶ。吸いつくようにしっとりとした手触りが心地よかった。黒い紙に鈍い銀色の箔で刻印された店名の凹凸を、指の腹でなぞる。
「……神様」
そう、神様みたいな人だった。光り輝くように美しくて、ただそっと微笑むだけですべてを手に入れてしまいそうな、不思議な人。だけど彼を形作るのはそういうきれいなものだけではない気がした。寂しそうな横顔を思い出すと、胸の奥を細い針で引っ掻かれたような痛みが走る。
次に会えたら、名前を訊いてみようかな。
箱を開け、つややかなチョコレートを一粒、口に含む。甘ったるさを拭うように溢れ出すオレンジの香りが鼻先を抜けていった。