※結ばれません。
通り雨のような男だった。
「なあアンタ、煙草持ってねえか」
深夜の、人っ子一人いない小さな公園で、その男は私に声をかけた。低く深く、少し掠れた声だった。
ナンパの類か、はたまた変質者か。どちらでも別によかった。まずもって、こんな時間にこんな場所でこんな風に寂しくブランコに腰掛けている私自身、傍から見れば相当にやばい女だという自覚はあった。
「あいにく持ってないですけど、買ってきましょうか?」
顔も上げずに私は答えた。砂を踏みしめて近づいてくる足音がぴたりと止まった。
「……お金ならあるので」
ついでに時間も、誰かにくれてやりたいくらい。付け足すと、その人はふっと息を漏らして笑った。
ざりりと靴底を鳴らして私の目の前に立ったのは、見上げるほどに背の高い男だった。くたびれた上下のスウェットにぼさぼさの黒髪もさることながら、口元の傷痕がやたらと目を引いた。私のような世間知らずの女の目にも、一見してカタギの人間ではないとわかる。なのに、頼りなく明滅を繰り返す街灯の明かりの下、ギラギラと光を放つふたつの切長の瞳があまりに美しくて、私はブランコを漕ぐのをやめてただその目を見つめ返した。
「じゃあ、どっちも頼むわ」
そう言って、男はにやりと唇を歪ませた。
男はトウジと名乗った。どういう字かと尋ねると、どうでもいいだろ、と至極面倒そうに一蹴されたので、それ以上触れることはやめた。
トウジさんは、彼に関して名前以外の一切を教えてくれなかった。代わりに私は、訊かれてもいないのに私のことを話した。婚約者に捨てられたこと。結婚のために貯めておいたお金と、彼を驚かせようとこっそり契約していた二人暮らし用のマンションを持て余し、途方に暮れていたこと。
誰でもよかったのだと思う。虚しく空っぽになった自分を埋めて欲しいなんていう気はなくて、ただ誰かに手酷く傷つけられたかった。そうすればきっと、どこが痛かったのかさえわからなくなるだろうと、浅はかな期待をしていた。
「寂しいのか?」
コンビニの横の喫煙所で私が買った煙草をふかしながら、トウジさんは言った。挑むような目をしていた。ずるい男だと思った。
「……そうですね」
私は答えた。マンションへ向かう道すがら、私より二回りも太い腕にそっと指を這わせた。彼は何も言わずに、喉奥で小さく笑った。
しばらく一緒に暮らしても、トウジさんの素性は全くと言っていいほどわからなかった。普段は昼過ぎまで寝ていて、私が作り置いた食事をとって、合鍵を持ってふらりと出かける。もっぱらパチンコか競馬でお金を擦り潰し、酒と煙草と女の匂いをふんだんに纏って帰ってくるのだけれど、ぷっつり途切れるように何日も姿を見せないこともよくあった。
私は近所の百円ショップで小さなホワイトボードを買った。安っぽいプラスチックでできたそれを冷蔵庫の扉に貼り付け、食事を用意してあること、お金が足りなくなったらクローゼットの金庫から取っていいこと、暗証番号はxxx、などと書き置きをした。そうしておけばまた帰ってくるような気がした。なんの根拠もなく。帰ってくるという言い方はおかしいのかもしれない。けれど、ただ淡い願いを込めるような気持ちで、私は彼がいなくなる度、そのホワイトボードにメッセージを綴り続けた。
ある晩、それは例によってトウジさんが四日ぶりに帰ってきたときのこと、満足のいくまで私を抱き潰した彼に、問うたことがある。
「ねえ。トウジさんは結婚したことあるんですか?」
何の気なしに出てきた質問だった。一人で過ごすには広すぎるこの部屋で、いくつも夜を越えた後だったせいかもしれない。どうでもいいだろ、とはぐらかされると思った。だから、「ある」と短く答えが返ってきたとき、私は少し動揺した。
「奥さん、いま何してるの?」
「……さあな」
呟くように言った彼の横顔を見て、ああ、と思った。この人にも、荒野で生きる獣のようなこの人にも、こんな顔をさせる誰かがいたのだ。
「……好きだったんですねえ」
溜息にも似た声で囁いた私に、トウジさんはもう答えなかった。ただそのざらりとした舌で私の唇を塞いで、そのまま夜は溶けていった。
次の朝、目覚めると彼はいなかった。いつもとは何かが違っていた。自分に女の勘なんていう大したものが備わっているとは思えなかったのだけれど、このときばかりはすぐにわかった。
無性に喉が渇いて、水を取り出すために冷蔵庫に向かう。見慣れたホワイトボードが目に入り、息を止めた。
『伏黒甚爾』
走り書きのような文字なのに、妙に達筆なのが笑えた。冷蔵庫の扉にそっと手のひらを当てる。微かなモーターの振動と、残り火のような温かさに目を閉じた。
「……あーあ」
これ、もう一生消えないやつじゃん。
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ワンライに投稿したお話を加筆修正したものです。
Title by 誰花