芒星の切先

鼻先をふわりと漂う香りに目が覚めた。
すん、と小さく息を吸う。苦味とスパイスの混じったような独特の匂いは、私が眠っているシーツに染みついたそれとおんなじだ。ぼんやりする頭をもたげ、掃き出し窓へと視線を向ける。汚れたガラスの向こうに明け方の空と彼の背中が見えた。

「村井くん」

からからと窓を開けて顔を出した私を、彼は煙草を咥えたままで振り返った。薄明の中、彼の唇の先でちろちろと小さな炎が蛍のように光っている。それは彼が息を吸うたびにひときわ強く燃え上がって、まるで彼と一緒に呼吸しているみたいだった。

「悪い、起こした?」
「ううん。……そんな格好で寒くないの?」
「寒くねーよ、まだ夏だろ」
「十月はもう夏じゃないと思うよ」

私が言うと、村井くんはからりと軽快に笑った。よく引き締まった上半身が朝の空気に晒されている。私はその隣に立って、手摺り越しにすっかり見慣れた景色を眺めた。群青色に包まれた街は、まだまどろみの中にある。

この安アパートの部屋にはいつだって煙たい匂いが染みついている。なのに私は彼が部屋の中で煙草を吸うところを一度も見たことがなかった。それを尋ねると彼は決まって「たまに外で吸うと気持ちいーんだよな」と言って私の頭を乱暴に撫でた。

「コーヒー飲むか? まだあったけーぞ」
「うん、ありがとう」

手渡されたマグカップは、両手で持っても余るくらいの大きさがある。相変わらずずっしりと重たくて笑ってしまう。これは去年、私が彼のために作ったものだ。百均のコップが壊れたと騒ぐ彼に「じゃあ代わりのものを作ろうか」と持ちかけたのは私のほうだった。絵画科の彼と工芸科の私、共通の友達を通じてたまに立ち話をするほかには取り立てて接点もなかったのに、思えば最初から私はこの人に惹かれていた。

「……おいしい」
「いつも通りお得パックのインスタントだけどな〜」
「でも、おいしいよ」
「俺も飲む」

村井くんは顔を背けて煙を吐くと、私の手からカップを取り上げた。私は彼の伏せられた睫毛や整った横顔の輪郭や、そっとマグカップを包む骨張った指を見つめた。普段から粗野な言動の目立つこの人が、案外に丁寧な手つきでそれを扱うところを見ているのが好きだった。

「村井くん」
「んー?」
「広島、楽しかった?」

彼の瞳がほんの僅かに揺らぐ。それは一瞬のことで、すぐに薄明かりに紛れて見えなくなった。いつも真夏の太陽みたいに強く光っているその目をやわく細め、村井くんはいまだ濃い青を残す西の空を眺めた。

「まあなー。今回は八虎たちもいて賑やかだったし」
「……そっか」
「次はお前も来る?」

いいとこだぜ、と今度は私のほうを向いて彼は言った。
彼らが広島から帰ってきて二か月も経つというのに、お土産だってもらったのに、村井くんが私にその夏の思い出を語ることはついになかった。ふう、と吐き出された紫煙が私とは反対の空に向かって薄く流れていく。彼の指先で明滅する小さな火へ、私は手を伸ばした。

「ねえ、私もそれ吸ってみたい」
「は? ばっか、やめとけって、」

ちゃぷんと波打ったコーヒーがこぼれてベランダに歪な模様を描く。煙草を遠ざけようとする村井くんから無理やりに奪い取り、見よう見まねで吸い口に唇を寄せた。思いきり息を吸うと、あの匂いそのままの苦味が口の中いっぱいに広がる。喉が焼けるように痛くなって私は盛大に咳き込んだ。なんだこれ、ちっとも美味しくない。

「あーあー、だから言ったのに」

大丈夫かあ? と私の顔を覗き込んで村井くんはおかしそうに笑った。そうして大切なものを触るときみたいにひどく優しい手のひらで、私の背中を何度もさすった。

燃え尽きそうな煙草が私の手から離れていく。それを灰皿に押しつけてから、彼はいまだにむせている私の顎を掬って強引にキスをした。さっきと同じ味なのに、彼の唇から与えられたというだけで急に甘ったるく感じるのがおかしかった。

「……もっと、して」
「あんまエロいこと言うなって」
「ん、」

ねだった通りに、さっきよりも深く長い口づけが降ってくる。甘くて優しくて、少し苦い。

この人はたぶん、ちゃんと私を私として好きでいてくれている。私を通して誰かを見ようとすることも、私に誰かを重ねようとすることもない。私はそれがどうしようもなく寂しくて悔しかった。これから先、どんなにこの人の隣にいても、どんなに体を重ねても、どんなに言葉を交わしても、彼の心の中の一番柔らかい部分はもう果てしなく遠い場所にあって、私には永遠に触れることさえ叶わない。

唇を離して、吐息の混ざる距離で見つめ合う。真夏の太陽みたいな彼の目は今、こんなにも私でいっぱいなのに、きっと最後にはどこか遠くを向いてしまう。私ではない誰かへ捧げる花束をその胸に抱えて。

「……ナマエ?」

そっと、彼の腕に触れた。なだらかに盛り上がった筋肉の上を走る精緻な線。針と墨で描かれたその模様を指の腹でなぞると、村井くんは焦れったそうに身じろぎをして私の手を絡め取った。

「お前って、いまだにすげーおっかなびっくり触るのな」
「……だって、なんか痛そうで」
「いつもあんなにガシガシ爪立ててんのに?」

不敵に笑った唇が再び近づいてくる。目を開けたままそれを受け入れると、彼の瞳が燃え上がるように一気に熱を帯びた。

「……なあ、起きたついでにもっかいシよ」
「え」
「お前、ヤってるときだけ俺のこと『八雲』って呼ぶだろ。あれけっこう好きなんだよな」

熱い手のひらが私の腰をするりと撫でる。たったそれだけで絆されてしまう私は本当に取るに足らない女だ。だけどいつか、その刺青みたいに、煙草の香りみたいに、あの子みたいに、私だってこの人の中に一生残る何かになってみたかった。

煙たい匂いのするシーツに二人して倒れ込み、夢中になってキスをした。邪魔くさい服は全部取り払って、きつくきつく肌を重ねて。過去も未来も関係ない、今だけは、今だけで、この部屋を塗り潰してしまいたかった。

「ねえ」
「あー?」
「好きだよ、八雲」

薄らと汗ばんだ頬に手を伸ばす。確かなその温度に、不意に泣きたくなった。

「……知ってるよ、ばーか」

どうか、神様。
濡れた眦を乱暴に拭っていく指先が、いつまでも私を離さないでいてくれますように。

芒星の切先