降る福音ep

三月の終わり、『ミモザ』の硝子戸の向こう側は一面、薄紅色に染まる。
通りを吹き抜ける風はまだ少し冷たくて、それでもどこか心が弾む新しい季節の訪れを感じる春の夜。店の狭い更衣室にある小さな鏡と、わたしはずっとにらめっこをしている。

「……なんか、前髪がおかしい気がする」

水替え作業のときに何かの弾みで濡らしてしまったのだろうか。今朝念入りにセットしてきたのに、やっぱり一日仕事をするとそのままとはいかない。

「……店長、この店ってヘアアイロンとかありましたっけ……」
「あいにくうちは美容室じゃないんだよねえ」

店舗スペースでは店長がレジの締め作業と格闘している。傍らには分厚い領収書の束。ダメ元で声をかけてみたものの、案の定顔も上げずに返事をされた。わかる、月末の閉店後は忙しい。年度末ならなおさらだ。だけど、わたしはわたしでひとつの緊急事態なのだった。

「見てくださいこの前髪、これ変じゃないです?」
「だいじょーぶだいじょーぶ、可愛い可愛い」
「全然見てないじゃないですか!」
「心配ないって。凪砂くんは何でも可愛いって言うもの」

う、とわたしが呻き声を上げると、店長はしてやったりという顔で笑った。ようやくこっちを見たというのにその顔はないでしょう。「そうですけど、」「認めるんだ」「いや認めるっていうか」「あーやだあノロケちゃって」と、今度はちっとも話を聞いてくれなくなった。わたしがムキになればなるほどこの人は面白がるのだ。だけどこういうときの店長はとても嬉しそうな顔をしていて、それを見るとわたしは本気で怒れなくなってしまう。

「惚気とかじゃ……!」
「あ。ほら、噂をすれば」

カラン、とドアベルが鳴った。途端に心臓が大きく跳ねる。
いつもの黒いキャップと、黒いシャツ。去年より少し伸びたしろがねの髪は、今日もゆるくシニヨンにまとめられている。特別飾り立てているわけでもないのに美しいこの人は、本当にわたしの恋人なのだろうか。お付き合いを始めて何か月も経つけれど、いまだに信じられない気持ちになってしまう。

「……こんばんは、ナマエさん」
「こ、こんばんは」

凪砂さんは長い脚でわたしの前までやってくると、優雅に微笑んで「今日も可愛いね」とのたまった。薄々わかっていたことだけれど、この人は息をするように誉め言葉を浴びせてくる。厄介なのはそれが社交辞令でもなんでもなく、本当に心からそう思っているらしいことだった。美しい人の目にはこの世のすべてが美しく見えているにちがいない。

「……じゃあ、行こうか」

差し伸べられた大きな手を取る。そうすると途端に世界が輝きだして、前髪がおかしいことなんかすぐにどこかへ行ってしまう。我ながら単純なものだった。店長もたぶん、それをわかっているからいつも真面目に聞いてくれないんだろう。

店から一歩外に出ると、青々とした春の香りがいっぱいに満ちていた。
夜の遊歩道を行き交う人たちは桜を見上げるのに夢中で、凪砂さんの存在に気がつくこともない。わたしたちのデートはたいてい夜だった。月明りを映して輝く彼の瞳が、わたしはとても好きだった。

「きれいですねえ」
「……本当だね。とても幻想的」

控えめにライトアップされた桜並木を、わたしたちは手を繋いでずっと歩いた。初めて彼に出会った日のことを思い出す。降りしきる桜の雨と、そのさなかにひとりきりで立っていたこの人の姿を。

「凪砂さん」
「……うん?」

わたしが立ち止まると、彼も足を止めた。まっすぐな眼差しを受け止める。わたしの好きな、透明な光を湛えた瞳。

わたしの寂しさに気がついてくれたように、わたしもこの人の寂しさに寄り添うことができるだろうか。それを埋められなくても構わない。そんな大それたことは願いもしない。ただ、この人がひとりぼっちで道に迷ってしまわないように、手を繋いでいたい。

「――大好きです、凪砂さん」

これからも、そばにいさせてください。
背伸びをして、冷えた唇にくちづける。彼は硝子玉みたいな瞳をまあるくして、それから美しく微笑んだ。桜の花びらが一面に降り注いでいる。わたしたちはもう一度、しっかりと手を握って、また歩き出す。