降る福音10

ドアチャイムの音で目が覚めた。ぴんぽーん、なんて可愛らしい音じゃなく、風邪で喉がガラガラのときに歌う鼻歌みたいな、けっこうひどい音だ。この部屋に入居したときから調子が外れたままのそれにわたしはもう慣れてしまったが、店長はここへ来るたび「音痴なチャイムねえ」と言って笑う。

あれ、どうしてチャイムが鳴るんだっけ……店長、来てくれるんだったっけ……と寝ぼけた頭でひとしきり考える。とろとろした眠りが纏わりつき、なかなか瞼を開けていられない。ああそうだ、凪砂さんがお見舞いに来てくれるんだった。わざわざ電話までくれて、凪砂さんって本当に優しい……、……凪砂さん?

瞬間、ぱちんと泡が弾けるように覚醒した。
慌ててベッドから起き上がり、布団の上に放ってあったカーディガンを手繰り寄せる。やってしまった。いつの間に眠っていたんだろう。それほど長い時間ではなかったと思うけれど、やけに深い眠りだった。きっとあの穏やかな声が子守歌みたいになっちゃったんだ。

手櫛で気休め程度に髪を撫でつける間に、もう一度チャイムが鳴る。もっとちゃんとした格好に着替えておくつもりだったのに、もちろんそんな余裕はない。スマホをカーディガンのポケットに突っ込み、素足のままベッドを降りると、思いのほか冷たいフローリングの感触に背筋がふるりと震えた。まだ熱があるみたいだ。ずっと寝込んでいたせいで、玄関までの数メートルを進む足取りも覚束ない。
凪砂さんにうつしたら大変だし、せっかく来てもらったけれど今日は玄関先で少しお話するだけにしよう。それで、元気になったら改めてお礼をさせてもらおう。そうだ、前に店長が買ってきてくれた隣町のパティスリーのチョコレート。あれをお返しにしよう。

取り留めもないことをつらつらと考えながらドアを開ける。外の日差しがまぶしくて目を細めた。ぶわりと風が舞い込み、エアコンの冷気を散らしていく。

「お待たせしま――」
「あ、本当にいるじゃん。ナマエ」

そこに立っていたのは、凪砂さんではなかった。

「ウケる。マジでこんなボロアパートに住んでるんだ」

真夏の太陽を照り返す、磨き上げられた革靴。仕立ての良いスーツ。かっちりと着込まれたシャツの白い襟の上で、小さな顔が好青年然として微笑んでいる。

「……なん、で、ここに」

かろうじてそれだけを絞り出す。びっしりと汗をかいた手のひらでドアノブを強く握りしめた。そうしていないと、いまにも身体中から力が抜けてくずおれてしまいそうだった。
どうしてこの人がここにいるのだ。この家の場所は、知らせていなかったはず。

「高校時代の後輩に訊いて回ったよ。『ナマエが困ってるって聞いて心配で』って言ったら、みんな親身になって情報集めてくれた。俺って人望あるからさ」

先輩が愉快そうに目を細めて笑う。

「――『乱凪砂』だと思った?」

頭のてっぺんから、すうっと血の気が引いていった。
どうして、どうして。さっきからそればかりが渦巻いて、思考回路はちっとも働いてくれない。

「嬉しそうな顔でドア開けちゃってさあ。これから来る予定なの? 楽しみに待ってたんだ?」
「な、なんの話、ですか」
「テレビもないようなこんなボロい部屋によく来てくれるね。優しいんだな、トップアイドルって」
「……っ、帰ってください!」

思いきり閉めようとしたドアは先輩の革靴に当たって止まった。なおも両手でノブを引っ張るけれど、熱のせいかいつも以上に力が入らない。「痛いよ」と笑いながら彼は片手で易々とドアを開け放った。ふらついたわたしの肩をもう一方の手が受け止める。ぞっとするほど優しい力だった。

「あれ。おまえ、もしかして具合悪い?」
「……平気です。触ら、ないで」
「無理すんなって」
「何しに来たんですか」
「ひどいな、そんな言い方」

ちっともひどいなんて思ってもいないような声で彼は言った。いますぐにこの手を振り払いたいのに、身体が動かない。
先輩は、凪砂さんが〝乱凪砂〟だと知っている。それをわざわざ言うためだけにここへ? そんなはずがない。この人が目的もなく自ら他人の家に足を運ぶなんて、まずありえないことだ。じゃあどうして――ああ、考えがまとまらない。どす黒い雨雲みたいな悪い予感ばかりが募っていく。

「いいこと教えてあげようか」

わたしの耳元にそっと顔を近づけて、先輩は囁くように言った。甘ったるい声が、耳から入り込み身体の内側を伝い落ちていくような錯覚に陥る。ぞくりと背筋が粟立った。

「写真撮ったんだよね、俺」
「え……?」
「おまえらが仲良く手繋いで走っていくところ」

あの日の、写真。
足元が音を立てて崩れ落ちるような気がした。あのとき、凪砂さんは帽子をかぶっていなかった。わたしに貸してくれたから。いつも冗談めかして「変装」なんて言っていたあれは、凪砂さん自身を守るためのものだったのだ。どうして気が回らなかったんだろう。あんな人混みの中に飛び込んでくること自体、彼にとっては大きなリスクだったのに。

「SNSでちょっと匂わせたら週刊誌からDM来てさ。写真、買い取らせてくれって」
「そんな、」
「そりゃ一大スキャンダルだもんな。このままここにいれば、もっと決定的な場面も撮れそうだし」
「……っ」
「『来るな』って、早く言ってあげたほうがいいんじゃない?」

ポケットの中のスマートフォンを強く握りしめる。いますぐこの手を振り切って部屋に逃げ込めば。誰かに助けを求めれば。――だめだ。その間に写真を流されてしまったら取り返しがつかなくなる。凪砂さんだってもうここへ向かっているはずだ。この人の目に、彼を触れさせたくない。

「……どうして、こんなこと、するんですか。わたしのことが嫌いなら、構わなければいいのに。凪砂さんは関係ないのに」
「嫌い? そんなわけないじゃん。好きだよ。だからわざわざ教えにきてあげたんだろ」

嘘だ。この人はただ自分の思い通りに動くおもちゃがほしいだけ。自分の手放したものが、誰かに拾われて大事にされるのを許せないだけ。この人にとって周りの人間はみんながらくただ。だから平気で傷つけるし、誰かが大切にしているものさえゴミみたいに捨ててしまえる。

震える手でメール画面を立ち上げた。怒り、恐れ、悲しみ、そのどれで自分の身体が震えているのかわからない。全部かもしれなかった。でも一番腹立たしいのは、こんな人相手に何もできない自分自身だった。

「……これを送ったら、写真、消してくれますか」
「あー、うん? まあそうだね」

アイドルでいることが楽しいと凪砂さんは言った。あの笑顔が忘れられなかった。わたしの出会った凪砂さんはアイドルの乱凪砂ではなかったけれど、彼の奥深くにはいつもそれがあって、彼を輝かせ、彼を彼たらしめていた。それがどんなに尊いことか、それを奪うというのがどれほど罪深いことか、きっとこの人が知ることは一生ないのだろう。

「消すって約束してください」
「はいはいわかったよ」
「本当に?」
「ほんとほんと」
「絶対ですか」
「しつこいな、わかったって」

先輩が苛立ったように言う。本当は何回だって確認したかったけれど、「嘘だよ」と言われるのが怖くてそれ以上は訊けなかった。

呼吸を止めて、ゆっくりと送信ボタンを押す。わたしの書いた短い一文はあっという間に電子の波に乗り、凪砂さんへ届けられる。呆気ないものだった。本当に伝えたいことを言葉にするのはいつだってひどく難しいのに、指先だけならどんな嘘も簡単につける。

「おまえ、泣いてるの?」
「……泣いて、ません」
「可哀想に。芸能人なんかと釣り合うわけないのに、勘違いして期待しちゃったんだね」

先輩が頭を撫でようとしてくるのを、今度こそ思いきり払い除けた。
凪砂さん、いまどこにいるだろう。わたしのメールに気づくだろうか。気づいてほしい気持ちの裏側に、ほんの少しだけ、どうか気づかないでと浅はかな祈りがちらつく。悲しそうに眉を下げた顔を思い浮かべたら息が詰まった。
あの人は優しいから、わたしが少しでも臆病を覗かせれば心配してここへ来てしまうだろう。そうしたらきっとわたしは後悔する。だからこれでよかったのだ。そう思うのに、胸が引き裂かれるように痛い。

「わたし、言う通りにしましたよね。写真を消してください。いま、ここで」
「怒るなよ。そんなに好きだったんだ、あいつのこと」

好きだった。大好きだった。
最初から、夢みたいな恋だとわかっていた。漫然と過ぎていくだけのわたしの人生に、気まぐれに舞い降りた神様のような人。わたしたちは別々の世界の端っこ同士で、奇跡のように出会っただけだった。この時間が永遠に続くわけじゃないってことも、手を伸ばしたって届きやしないことも、ちゃんとわかってた。でも、それでも。

一等星みたいに透明な彼の光が好きだ。春風みたいな声が、日だまりみたいな優しさが好きだ。宝石の瞳も、星屑の髪も、ちょっとマイペースなところも、ぎゅっと握ってくれた手の熱さも、全部大好き。どうか曇らないでいて。いつだって明るいところにいて。ずっとずっと笑っていて。

「消してください」
「やだよ」
「消して!」

先輩の上着のポケットから覗くスマートフォンに向かって手を伸ばした。難なくかわされ指先が空を掻く。それでも、もう一度、もう一度とばかみたいに繰り返した。わたしの力でこの人に適うはずがない。そんなのわかってるけど、もうわたしにできることはこれくらいしか残されていなかった。

「消して、お願いだから」
「おまえ、熱で頭バグってるんじゃない? ほら、中で休もう。看病してやるから」
「やだ、いやだ、お願い」

手首を掴まれる。先輩の手がやけに冷たい。ちがう、わたしが熱いんだ。頭の芯のほうがずっと燃えているみたいに熱かった。あとからあとから涙が溢れてくる。まるで栓の壊れた水道だ。ぼろぼろと泣きながら、必死に手をほどこうと振り回した。傍から見たらどんなにか滑稽だろう。夏の日差しに照らされたコンクリートに、わたしの涙がいくつも落っこちて吸い込まれていった。きっとすぐに乾いて、跡形もなくなる。

「おい暴れるなって、」
「何をしてるの」

低い声が空気を揺らしたのは、そのときだった。
ぼやけた視界の中で、しろがね色がきらきらと光っている。まばたきもできなかった。

「なぎさ、さん……」

会いたかった。会いたくなかった。相反するふたつの感情が濁流のように身体の中を駆け巡る。どうしてここにいるのか。わたしのメールを見たのか。見たのならなぜ来てくれたのか。何ひとつ言葉にできずにいるうちに、彼は足早にこちらへ近づいてきて、先輩をまっすぐに見据えた。

「……その人を離して」
「……ああ、誰かと思えばあなたですか。すみません、ナマエは体調が優れないようなので、部屋で休ませます。今日はお引き取りを、」
「聞こえなかった? その手を離せと言ったんだ」

怒気を孕んだ声で凪砂さんが言った。こんなにも荒々しい口調で話す彼をわたしは見たことがなかった。いつも透き通って凪いでいる瞳に、いまは燃えるように激しい光を湛えている。先輩の手がひくりと跳ねてわたしから離れた。赤くなった手首には鈍い痛みが残っていた。

「こいつが転びそうになったんで、支えてやってたんですよ」
「……でも、泣いている」
「だったら何?」

先輩はあからさまに不機嫌そうに眉を顰めた。愛想を貼りつけたような笑顔がみるみる剥がれ落ちていく。この瞬間がわたしはいつも怖かった。でも、凪砂さんは先輩を睨んだまま一歩も動かない。

「あなたはナマエの何です? ただの友達でしょ?」
「……そういう君は、一体何?」
「ナマエの彼氏ですよ。これは恋人同士の問題なんで、ただのお友達は黙っててもらえますか」
「……本当なの? ナマエさん」

まっさらな眼差しがわたしを貫く。肯定も否定もできなかった。だって、この瞳の前でわたしは嘘をつけない。
凪砂さんは、全部わかっていてここへ来たのだ。それを嬉しいと思う自分に愕然とする。この期に及んで、わたしはまだちっぽけな恋を捨てきれない。そのせいでこの人を巻き込んでしまうというのに。

「だいたい、芸能人のくせになんでこんな地味なヤツにこだわるんです? 可哀想に、あなたが気まぐれに構ったせいでナマエはすっかり勘違いして、」
「芸能人かどうかは関係ないよ。私は、ナマエさんに会いたくてここへ来た」

凪砂さんが一歩、わたしに近づく。ふわりと優しい香りがして、また涙が出そうになった。目が合う前に唇を強く噛んで俯く。そうしなければきっと余計なことを言ってしまうと思った。

「……ナマエさん」
「……か、帰って、くださ……」
「本当にそう思っている?」
「……」
「私の目を見て」

あたたかい手がそっと頬に触れ、涙の跡を拭ってくれる。ゆるゆると顔を上げれば、夕凪の海のように美しい色の瞳がわたしを見ていた。

「……君は、私を諦めてしまうの?」
「……っ」
「私は、君を諦めたくない。君が手を伸ばしてくれるなら、何度だってそれを掴んでみせるよ」

まばたきもしないのに涙が零れた。せっかく凪砂さんが拭ってくれたのにな、と思っている間にも次から次へと溢れてくる。静かに降り注ぐ夏の雨みたいに、透明であたたかい。

「――だから、教えて。君は何を望む?」

この瞳の前で、わたしは嘘をつけない。やっぱりこの人は魔法が使えるにちがいない。まっすぐな眼差しで、春風みたいな声で、日だまりみたいな優しさで、凪砂さんはいつだってわたしの心をあっという間にとかしてしまう。

ゆっくりと手を伸ばして、彼の手に触れた。骨の形を、皮膚の感触を、彼の輪郭を確かめるようになぞり、ぎゅっと握る。そうして、大きく息を吸った。

「……わたし、わたしは、凪砂さんと一緒にいたいです……諦めたく、ない……っ」

からからに掠れて、なんとも恰好の悪い声だった。心臓がどきどきとうるさく鳴っている。生きていると叫ぶみたいに。

「……うん、わかった。あとはまかせて」

やわく目を細めて凪砂さんは笑った。息を呑むほどきれいな笑顔だった。

そのとき、アパートの階段を軽やかに駆け上がってくる足音が聞こえた。スチールのステップをカンカンと鳴らして現れたのは、眼鏡をかけた男の人だった。さらさらの赤い髪にはどこか見覚えがある。彼は「やあやあ皆さんお揃いで!」とにこやかに近づいてきたかと思うと、いきなりぴしっと踵を揃えて美しい敬礼をした。

「コズミックプロダクション所属、『Eden』の七種茨と申します。当事務所の副所長も務めております。以後お見知りおきを」

あ、そうか、とわたしは内心で納得した。凪砂さんのユニットのメンバーで、いつも彼を迎えに来ているという、あの。

「はあ⁉ どうして七種茨までこんなところに」

先輩が素っ頓狂な声を上げる。茨さんは涼しげな瞳で彼を一瞥すると、「ああ、あなたが噂の」とにっこり笑った。愛想の良い笑顔は先輩もなかなかのものだけれど、茨さんのそれは比べ物にならないほどに完璧だった。

「モラハラ元彼クソ野郎殿ですか。いやあ、この度はうちの乱がお世話になったようで」
「なっ……急に出てきて何ですか、その言い草は!」
「まあまあ、お話は後ほど事務所でゆっくりお伺いしましょうね。車を待たせておりますので、どうぞこちらへ!」
「は、ちょっ、何を」

何事か喚き立てる先輩を茨さんが引きずるように連れていく。先輩も小柄なほうではないのに、まるで子どもみたいにあしらわれていた。こちらを振り向いた先輩と目が合う。わたしは無言で見つめ返した。

「閣下。お忘れ物はこちらに置きますからね」
「……ああ、ありがとう茨。忘れたわけじゃないのだけど、急いでいたから」
「まったく、大事なものはちゃんとご自分で持っていてくださいね」
「ごめんね」
「はあ。心にもないことを」

短い会話の間にも、茨さんと先輩の足音はどんどん遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなると、急に力が抜けてわたしはその場にへたり込んでしまった。「ナマエさん、大丈夫?」と凪砂さんが覗き込んでくる。
知らなかった。ずっと心のどこかでわたしを縛っていたあの人の背中が、あんなに小さかったなんて。

「凪砂さ、ごめん、なさい……」
「……どうしたの?」
「写真、あの人に撮られて」
「写真?」
「わたしと一緒にいるところ、撮られてて、週刊誌に売るって……だからわたし、」
「……ああ、なるほど」

凪砂さんは納得したように呟いた。まるでずっと解けなかった謎かけの答えに辿り着いたみたいな調子だった。どうしてそんなに落ち着いていられるんだろう。ごめんなさい、と繰り返すわたしの背中を大きな手がそっと撫でてくれる。

「……大丈夫。そんな写真は存在しない。彼のハッタリだよ」
「でも」
「私の言うことが信じられない?」

凪砂さんは悪戯っぽく笑って言った。そんなことあるわけない。この人を信じないで、他に何を信じるというのだろう。小さく首を振ると、彼はわたしの背を撫でる手を止めて「ちょっと待っていて」と立ち上がった。

「……九十九本には、まだ足りないのだけど」

ふわりと、甘酸っぱい花の香りがした。戻ってきた彼の手には、溢れんばかりに咲き零れる薔薇の花束があった。

「君に、伝えたいことがあるんだ」

おとぎ話の王子様みたいに、凪砂さんは恭しく跪いてそれをわたしに差し出した。おんぼろのアパートの玄関先で、わたしはくたくたの部屋着姿で。笑ってしまうほどおかしいのに、何もかもがきらきら光って見えた。

「……私は、これからもアイドルでいることをやめない。私にとってそれは、生きることと同じだから。……けれど」

十二本の薔薇の花が夏風に揺れる。その色を写し取ったように、凪砂さんの白い頬が薄紅色に染まっていた。

「何者でもない私を、君は見つけてくれた。だから私は――ひとりの女性を愛する人間として、これから先も君のそばにいる。そう誓うよ」

やっと止まったはずの涙がまた溢れ出した。この気持ちを形にしたくて懸命に言葉を探すけれど、とても見つかりそうにない。だから代わりに涙が出るんだ、と思った。降り積もっていっぱいになって、溢れた分は涙になるのだ。夏の日差しの下でも乾ききらないくらいにたくさんたくさん、わたしは泣いた。

「……君が困ったとき、悲しいとき、寂しいとき、一番に頼ってもらえる存在になりたい。約束なんかなくても、誰の許しがなくても、真っ先に君のところへ走っていける権利が欲しい。他の誰かじゃだめなんだ。私のこの手で、泣いている君を抱きしめたい」

夢みたいな恋だった。きっと叶うことなんてないと思っていた。なのに、いつの間にかわたしはこんなにも欲張りになってしまった。この人に触れたい。そばにいたい。信じていたい。そう望むことを、許されたい。

「――君が好きだよ。私を、君の恋人にしてくれる?」

そんなの、答えなんてわかりきっている。
そっと頷けば、腕の中の花束ごとぎゅっと抱きしめられた。あったかい。頭がふわふわして何も考えられない。ただただ凪砂さんの鼓動の音をずっと聞いていた。この瞬間が永遠になってしまえばいいのに、なんて柄にもないことを考えた。

「……これって、夢ですか……?」
「……夢だったらよかった?」
「……や、です」

小さく笑い合って、触れるだけのキスをする。幻になって消えてしまわないように、彼の背中をめいっぱいに抱きしめ返した。
どこからか潮の匂いがする。燃えるような夕空が美しい、夏の午後のことだった。

 

 

「……そういえば、あれって茨でしょ?」

読書の最中にふと思い出して、隣で熱心にスマートフォンをスワイプしている横顔に問いかけた。

「あの人が言っていた、週刊誌」

茨は顔も上げず、「何のことですか」と素っ気ない返事だけを寄越す。

ラジオ番組の収録を控え、楽屋で時間を潰しているところだった。相方はどんなときでも情報収集に余念がなく、いまもSNSで『エゴサーチ』をしているらしい。先日発売されたばかりの、このあとのラジオでも流れる予定の新曲の反応は上々のようで、今日の彼の眉間はなめらかなものだった。ただ、こういうときの茨は話しかけても空返事ばかりでつまらない。

「……ナマエさんが言うには、私と彼女が一緒にいるところを撮った写真を、高値で買い取ってくれるという話だったらしいけれど」
「素人の撮った低解像度のブレブレ写真ごときに、一体いくら出すつもりだったのでしょうねえ。さぞ景気のいい会社なんでしょう。羨ましい限りです」
「私は、茨が持ちかけたんだと思ったよ」

そこで初めて、画面をスクロールする茨の指の動きが一瞬止まった。眼鏡の奥の瞳は変わらずタイムラインを追っている。物凄いスピードで流れていく情報の濁流の中に、彼にとって価値のあるものはどれほど見つかるのだろう。

「……君は、得意の情報収集でいち早くSNS上の不穏分子を発見し、週刊誌記者を装ってコンタクトした。本物のメディアが目をつける前に。写真を高額で買い取ると言って釣り出して、最終的には何らかの条件で縛るか、応じないなら封殺するつもりだった。ちがう?」
「……よくできたお話ですね。推理小説の読みすぎでは?」

顔を上げた茨の視線が、私の手の中の文庫本を一瞥する。「やっとこっちを見たね」と笑いかけると、苦虫を嚙み潰したような顔をした。さっきまでなめらかだった眉間にはもう皺が寄っている。機嫌を損ねてしまったかな、と多少の反省をしたが、茨は溜息をついただけで小言の類は返ってこなかった。

「まあ、万が一そのような代物が流出したとして、どうとでも誤魔化しは利きますよ。逆手に取ればいい宣伝にもなりますしね。我々の敵ではありません」
「頼もしいね」
「閣下こそ、不穏なことをお考えだったのでは?」
「……まあ、私にも多少の権力があるからね」

冗談のつもりで言ったのだが、茨がものすごい顔でこちらを見てくるのが面白かったので真面目な振りをしておいた。
こんな風に穏やかな日々が、これからも続いていくことを願う。私にも、彼女にも、愛しい仲間たちも。

「……さてと、時間だね。行こうか」
「えらく前のめりですね。やる気を出してくださるのは大いに結構ですが」
「このあと、行くところがあるから」

ラジオの収録は二時間。予定通りに終えれば、閉店時間には充分に間に合う。
本を閉じてテーブルに置き、ソファから立ち上がる。付き従うように茨が後ろに続いた。廊下へ出たところで私は少し立ち止まって、彼の隣に並ぶ。茨は怪訝そうに眉を顰めて私を見上げている。

「……茨、ありがとう」
「……ですから、何の話ですか」
「今度、茨にもお花を買ってくるね」
「謹んで辞退します」