降る福音9

「……え。ナマエさん、お休みなの?」

そう言って、彼はきょとんと目を丸くした。
とある暑い日の午後だった。日差しが強くて、ひいひい言いながら店頭の花を中へ避難させていたところに、彼はやってきた。黒いキャップを目深にかぶり、長い髪をうなじの辺りでゆるく結っていた。見覚えのないお客さんだった。

「ええ。風邪をひいたみたいで、昨日から。何かご用事でした?」
「……いや。急ぎではないから、大丈夫」

彼は左手に提げた紙袋にちらりと視線を向けた。そうやって目を伏せると、涼しげな目元を縁取る睫毛の長さがよくわかる。こんなに麗しい男の子、一度でも来ていたら忘れるはずがないのだけど、と思案して、私はふと思い当たった。

「もしかして、あなたが〝なぎささん〟?」

ぱっと彼が顔を上げた。ふたつの瞳でまじまじと私を見て、まばたきをする。外見はおとなびているのに仕草だけが幼くて、なんだか不思議な男の子だった。

「……私を知ってるの?」
「そうかなって思っただけ。ナマエちゃんがいつも『なぎささんが、なぎささんが』って言っているから」

実際は、私が半ば無理やり話を聞き出しているだけなのだけど。

当店唯一のアルバイト店員であるミョウジナマエには、どうやら最近いいお友達ができたらしい。春先の、まだ桜も咲かない頃だった。本人は隠しているつもりみたいだったからしばらく知らん顔をしておいたけれど、本当はすぐにわかった。だってもう雰囲気が全然ちがったのだ。笑い方も、話し方も、視線の感じも。それまで休憩中ですらほったらかしにしていたスマホはいつもエプロンのポケットに忍ばせているし、髪型や爪のお手入れを気にするようになったし、帰り際にはいい香りのするハンドクリームまで塗っちゃったりなんかしている。何もなかったらかえっておかしいくらいの変化だった。
まるで花開く直前の蕾みたいに、ふっくらと柔らかい、優しい空気が彼女を取り巻いていた。ナマエちゃんと知り合ってからずいぶん経つけれど、そんな彼女を見たのは初めてだった。

それにしても、と私は改めて〝なぎささん〟を見上げた。すらりと背が高く手足は長く、帽子で顔が半分隠れた状態でさえ、彫刻のように整った造形が見て取れる。これはこれは。

「ほんとにイケメンだったわあ」
「うん? ……ええと、それは誉め言葉だね。どうもありがとう」
「あはは、面白い子ね」

私が笑うと、彼は不思議そうにちょっと首を傾げた。よく澄んだ瞳が日差しを捉えてきらきらと光る。何の嘘も衒いもない、まっさらな眼差しだった。そうか、こういう子だからナマエちゃんも気を許したのかもしれないと、なんとなくわかった。

「……ナマエさんの具合、悪いの?」
「少し熱があるの。二、三日休めば元気になると思うけど」

本人は出勤すると言い張ったのだけど、「お客さんに移したら大変だよ」と諭したらおとなしくなった。とりあえずの薬と食料は置いてきたが、ちゃんと寝ているだろうか。家事なんかしてなきゃいいけど。

「……そう」と彼は呟くように言った。均整のとれた眉間にわずかに皺が寄っている。無表情なようでいて、よくよく見れば案外に表情豊かだ。いま何を思っているのか、手に取るようにわかる。

「ナマエちゃんのことが心配?」
「……そう、だね」
「だったら連絡してあげて。きっと喜ぶから」

かえって熱が上がっちゃうかもしれないけど、少なくとも元気は出るだろう。復帰したらどうからかってあげようかな、なんて意地悪なことを考えていると、彼は何かを思いついたように「花を買ってもいい?」と言った。花屋に来ておいてまるでついでみたいに言うものだから、つい笑ってしまいそうになる。

「もちろん、花屋ですもの。どちらにいたしましょうか?」
「……そうだな。じゃあ、これを」

店先に並んだ色とりどりの花の中から、彼が選んだのはピンク色の薔薇の花だった。フェアリーエデンという、比較的新しい品種だ。花の中心に向かって白からピンクへと色づいていくグラデーションが美しい。

「……ピンク色の薔薇の花言葉は、確か『感謝』と『幸福』だったよね」
「あら。よくご存じで」
「ナマエさんに教えてもらったんだ。花のひとつひとつに意味があることも……誰かの幸せを願って、それを贈ることの歓びも」

薄い唇がふっと綻ぶ。小さな花が咲き零れるみたいにささやかで、優しい笑顔だった。

「他にもあるわよ、ピンク色の薔薇の花言葉」
「……そうなの?」
「『かわいいひと』」

ちょっと含みを持たせて言ってやったのに、彼は照れるどころか「……ふふ。それはとても素敵だね」なんて言って微笑んだ。お手上げだ。逆にこっちが恥ずかしくなってしまう。ナマエちゃん、こんなツワモノを相手にして大丈夫なんだろうか。顔を真っ赤にして慌てる彼女の姿が容易に思い浮かぶ。おかしくてまぶしくて愛おしくて、勝手に頬が緩んだ。

「なぎささん。気を悪くしないでね」
「……何?」
「ナマエちゃんに新しいお友達ができたって聞いて、本当はちょっと心配してたの。どういう人なんだろうって。あの子、あんまり自分のこと話さないし、困っても誰にも頼ろうとしないから」

私がナマエちゃんと知り合ったとき、彼女はまだ中学生だった。春からひとり暮らしをするのでアルバイトをさせてほしいと、あどけない顔で精一杯におとなぶって言った彼女の姿をまだ覚えている。一緒に暮らそうと申し出たこともあったけれど、ナマエちゃんは頑なに首を縦に振らなかった。
心細くないはずがないのに、ひとりで平気だと言って笑ってしまえる子だった。誰かに甘えたくてもその方法がわからないのだ、きっと。ずっとそうやって生きてきたから。

「……でも、最近のあの子、すごく楽しそうにしてる。あなたのおかげかな」

今日、この人に会ってわかった。ナマエちゃんの纏う優しい空気は、この人のそれに似ている。分けてもらったんだ、と思った。あの子が彼に何かをもたらしたのと同じように、彼もまたあの子に大切なものをくれたのだ。そして、あの子はそれを受け入れた。そのことが私はとても嬉しかった。

「さてと。お花、何本お包みしましょうか」
「ええと……八本、かな」
「ふうん。九本にしなくていいの?」

からかい半分で言ってみる。どうせ彼には通用しないだろうけど、と思って隣を見れば、やけに神妙な顔をしているので面食らってしまった。形の良い顎に指を添え、薔薇の花をじっと見つめたあと、彼はゆっくりと顔を上げた。

「……そうだね。じゃあ――」

 

 

ピピピ、と電子音が鳴った。襟元から取り出した小さな画面にはデジタルの数字が並んでいる。三七.八。

「……下が、った……」

吐く息が真夏のつむじ風みたいに熱い。でも一時間前までは三十八度だったから、熱が下がったことにはちがいなかった。ほんのちょっとだけど。
布団に潜りこんだまま、手探りでベッドサイドのペットボトルを引き寄せる。今朝、店長が置いていってくれたスポーツドリンクは、あと二口も飲めばなくなってしまいそうだ。もっとたくさん持ってきてもらえばよかった、といまさら思ってももう遅い。
あの雨の日から数日経ち、わたしは熱を出して寝込んでいた。いままで無欠勤だったことが密かな自慢だったのに、バイトもついに休んでしまった。

「……情けない」

凪砂さんに風邪をひかせたら、なんて心配してたくせに、自分がひいてしまうなんて。
喉に流し込んだドリンクはすっかりぬるくなっていて、火照った身体を冷ましてはくれない。それすらも飲み干してしまうと急に心細くなった。熱を出すなんていつぶりだろう。店長は「ゆっくり休みなさい」と言ってくれたけれど、ひとりきりで静かな部屋にじっと寝ていると、自分だけが世界から取り残されたような不安に駆られる。
もぞもぞと寝返りを打つと、テーブルに置いた小さな箱が目に入った。凪砂さんがあの日、持ってきてくれた北海道のお土産のチョコレート。もったいなくて開けられず、でもふとしたときに存在を確かめたくなって、つい視線をやってしまう。雨に濡れて少し皺の寄ってしまったその箱を見ると、不思議と心が落ち着くのだった。

熱を持った両手をぎゅっと握り合わせる。この部屋に凪砂さんがいたこと、狭いソファで身を寄せ合って座っていたこと、あのとき話したことも、全部が夢みたいなのに、彼の手のあたたかさだけははっきりと覚えていた。手を繋いでいるだけで、まるで優しく抱きしめられているみたいに安心したことも。
不意に涙が出そうになり、慌てて目を擦る。久しぶりに体調なんか崩したせいで心まで弱っているのかもしれない。とにかくいっぱい寝て早く治すしかない。そう思って目を閉じたとき、枕元でスマートフォンが震えた。

「店長……?」

画面には店長の名前が表示されている。どうしたんだろう。何か急ぎの用事だろうか。通話ボタンを押して「もしもし」と応じると、少しの間をおいて「……もしもし?」と男の人の低い声が聞こえた。

「……ええと、ナマエさん?」
「へ?」
「私、凪砂」

跳ね起きた。空になったペットボトルが床に転がり落ちて乾いた音を立てる。でもそんなものに構っていられなかった。

「な、えっ、凪砂さん⁉ どうして……」
「……いきなりごめんね。店長さんの電話を借りたんだ。ナマエさんとお話したくて……あ、いま『ミモザ』にいるのだけど」

凪砂さんの声の後ろから、店長の豪快な笑い声が聞こえる。それでようやく何が起きたのか理解した。あの人の面白がりそうな状況だ。どうせ「ナマエちゃん、心細いだろうから電話してあげて」とかなんとか言い出したのもあの人のほうだろう。次に出勤したときにからかい倒されるところまで容易に想像できて、頭が痛くなる。

「……ナマエさん、体調は大丈夫? 風邪をひいたって聞いて、心配で」

たったいま大丈夫じゃなくなりました、と言いたいところだったけれど、わたしはつとめて平静を装って「ありがとうございます」と答えた。本当は、熱のせいだけじゃなく、身体が熱かった。

「まだ少し熱があるけど、寝てればすぐに治ると思います」
「……そう、よかった」

凪砂さんの声はひどく優しかった。電話越しだからいつもより近くで喋っているみたいに聞こえて、どきどきする。

「……何か必要なものはない? 届けにいくよ」
「え⁉ そんな、悪いですよ」
「ちょうど、借りた服も返そうと思って持ってきてるんだ」

そんなの気にしなくていいのに。凪砂さんはやっぱり凪砂さんだ。きっときれいにお洗濯までして、きちっと畳んで持ってきてくれたのだろう。ただの安物のスウェットなのにな、と申し訳ない気持ちになっていると、電話の向こうで小さく息を吸う音がした。

「……私、君の力になりたいんだ」

どきりとした。不意に胸を貫かれたような心地がした。風邪くらいで大袈裟ですよ、なんて茶化すこともできないくらいに、凪砂さんの声は真剣だった。どうしてそんなに切なそうに言うのだろう。それとも、わたしの心が弱っているから都合よくそう聞こえるだけ? いまのわたしはふつうじゃないから、だから、そんな風に言われたら。

「もし私にできることがあるなら、教えてほしい。どんな些細なことでも構わないから」
「……だ、だめですよ、そんなこと」
「どうして?」
「だって、そこまでしていただく理由が」
「私が、そうしたいから。……それだけではだめ?」

ときどき、凪砂さんは魔法が使えるんじゃないかと思うことがある。言葉ひとつ、指先ひとつで、わたしの心をとかしてしまう不思議な力。わたしが必死に守ってきた境界線のようなものを、この人はいつだって簡単に飛び越える。わたしのちっぽけな嘘も臆病も、何でもないことみたいに笑ってくれる。だから信じたくなる。だから、手を伸ばしたくなる。

「……じゃあ、飲み物、を」
「……うん」
「スポーツドリンク、お願いできますか……?」
「……スポーツドリンクだね。何か食べられそうなものはある?」
「プリンとか、ゼリーとかなら……」
「わかった。すぐに行くから、待っていて」

ふわりと笑う顔が見えた気がした。
電話を切った途端、身体から力が抜けて、再びベッドに倒れ込む。どうしてそんなに優しくしてくれるんですかって、訊きたかったのに訊けなかった。それを訊いてしまったらもう後戻りできなくなると思った。
熱を持ったスマートフォンをスワイプして、ここ数日何度も見たページを開く。きらびやかな衣装を纏った四人組の姿がぱっと現れた。楽園の名を冠すそのユニットの中心には、凪砂さんがいた。

「……茨さんって、男の人だったんだ」

そんなことで安堵している自分がおかしかった。後戻りなんて、もうとっくにできなくなっている。
もしもこの気持ちを伝えたら、凪砂さんは何て言うだろう。そんな夢物語みたいなことを考える。夢でもいいから、もう一度、手を握ってほしいなあ。だんだん重たくなってくる瞼をゆっくりと閉じて、柔らかな暗闇の中、光る銀色の髪の先をわたしはずっと追いかけた。

『ミモザ』を後にして車に戻ると、後部座席では七種茨が一心不乱にラップトップのキーボードを叩いていた。三十秒でも時間ができたら仕事をしてしまうのが彼の持病だ。「お待たせ」と声を掛けつつ隣に乗り込めば、彼はぱっと顔を上げて「これはこれは閣下」と恭しくのたまった。その間にも指先は忙しなく文字を打ち込み続けている。

「〝花屋の君〟には会えたので?」
「……ううん。昨日から体調を崩して、お休みしているみたい」
「はあ。それは残念でしたな」
「……うん。だから、これからお見舞いに行こうと思って」
「はあ……、……はあ!?」

カタカタカタと絶え間なく続いていたタイプ音がぴたりと止む。「仕事、もういいの?」と訊いたら睨まれた。

「まさかとは思いますが、彼女の自宅へ、などとは言いませんよね」
「……大丈夫。彼女の了解は得たし、夕方の打合せまでにはちゃんと戻るよ」
「住所をご存じで?」
「……うん、一度行ったことがあるからだいたい覚えてる」
「はあ!?」
「さっきから『はあ』しか言っていないよ、茨」

笑いかけてみても、茨の眉間の皺はやわらぐどころかどんどん深くなっていく。いつかそのまま形状記憶されてしまいそうで、時折心配になる。

「ちょっと待ってください。いま、行ったことがあると仰いました? 一般人の女性の自宅に? 自分、そんな話まったく聞いていませんが」
「言っていなかったからね」

そこで茨はパタンとラップトップを閉じた。これは「詳しく話せ」という意味。そしてだいたいの場合、はぐらかすと怒るし、全部をつまびらかに話すともっと怒る。何年か一緒にいてそう学んでいるので、私は彼の求めに足る部分だけを過不足なく抜き出して説明した。たまたま二人でいたときに雨に降られ、濡れてしまった私を気遣って彼女が自宅に招いてくれたこと。着替えとドライヤーを借りたこと。その恩があるので、今回は自分が彼女の役に立ちたいのだということ。

「……というわけで、飲み物と食べ物を買っていきたいから、どこかのコンビニで降ろしてくれる?」
「何が『というわけで』ですか! まったくあんたって人は……!」

特大の溜息を落とし、茨は皺の寄った眉間を指先でぐにぐにと揉んだ。それでも皺は取れない。すでに形状記憶されてしまったのかもしれない。

「残念ですが閣下、見舞いは許容できかねます」
「……なぜ?」
「ご心配なのでしたら、事務所の者に行かせましょう。何が必要なんです? 薬? 食料品? お望みの通りにご用意いたしますよ。それでいいでしょう?」
「……私は、自分で行きたいのだけど」
「ご自身の立場をお忘れのようですね。あなたは天下の『Eden』のリーダーであり、コズプロの顔。万が一、一般人の自宅に出入りしているところなど目撃されたらどうなります? くだらないスキャンダルに足元を掬われいる暇は、我々にはないんですよ」

わかったらさっさと要望を言ってください、と茨はスマートフォンを取り出した。ナマエさんの家に見舞いの品を届けるスタッフをさっそく手配しているのだろう。こういうときの茨の動きは本当に素早い。すべてお膳立てしてしまって、相手を丸め込むのが彼の常套手段だった。

「好奇心旺盛なのも結構ですが、余計なことは考えないでくださいね」
「……好奇心、ね」
「好奇心は猫をも殺す、です。いまのうちに首輪でもつけておきましょうかね。だいたいあなたはいつも脇が甘い。もっとトップアイドルとしての自覚を持ってください。そんなことだからまんまとあんな写真を……」
「……写真?」
「おっと失敬。何でもありません、お忘れを」

こほんと咳払いをして、彼は再びラップトップを開いた。これは、これ以上追及するなという意思表示。写真というのが何なのかは気になったが、この状態の茨には何を言っても効果がない。それに、いまはそれよりも大切なことがある。

「……茨は、これを好奇心だと思うの?」
「逆にお訊きしますが、それ以外の何だというのです? 失礼ながら、自分には閣下が事務所外で初めてできたお友達に興味をそそられていらっしゃるだけにしか見えません。やたらと遊びに行きたがるのも、お見舞いなどど言って世話を焼こうとするのも、自我の芽生え始めた子どものすることと一緒です。ただのお遊びですな」

お友達。お遊び。そんなきれいな言葉で済むなら、それもよかったのかもしれない。
膝の上に置いた花束をそっと抱え直す。甘酸っぱい花の香りが胸を締めつけた。たとえばあのとき、こんな風に抱きしめることができていたのなら、彼女があんなに泣くこともなかったのだろうか。

「……そんなに純粋なものではないよ、いま私の腹の中にあるのは。もっと貪欲で、浅ましく、ときに狂暴ですらある」
「何が仰りたいのです?」

興味のなさそうな声で茨が言った。私は自分の皮膚の内側に目を凝らす。始まりは形のない靄のようだったそれは、いつしかはっきりと輪郭を持って、私の身体の中心に居座っている。触れるたびに少し痛んだり、ときには鮮烈な光を放ったり、制御できないほど暴れ回ったりする、その感情の正体。

「……つまるところね、私は彼女を独占したいんだ」

茨はこちらを見ない。私は構わずに続けた。

「彼女に触れるのも、笑わせるのも、何かを分け合うのも、すべて私でありたいと思う。私でなければ意味がないんだ。他の誰にも、何にも奪わせたくないし、守らせたくもない。彼女が元気で幸せでいてくれればそれでいいなんて、そんな美しいこと思いもしない。なんてひとりよがりで欲深いんだろうね。……これは本当に、ただの好奇心?」

いつの間にかタイプ音が止んでいた。茨はラップトップに手を置いたまま私を見た。まるでこの世の終わりのような顔をしていて、少し愉快だ。彼の青い瞳に、私はどんな風に映っているだろう。いまだ無垢で無知な子どもだろうか。それとも気まぐれで無鉄砲な獣だろうか。

「……それ、本気で言ってます?」
「……本気だよ。心の底からね」

あの男と一緒にいる彼女を見たとき、身体の奥底からどろりと何かが湧き上がってくるのをはっきりと感じた。怒り、妬み、憤り、あらゆる黒々としたものを集めてぐらぐらと煮立たせたような、吐き気を催すほどの激情だった。
恋だなんて可愛らしい名前をつけたのは一体誰なのだろう。彼には、彼女には、この気持ちが宝物みたいにきらきらして見えたのだろうか。あるいは、ただそう信じていたかったのだろうか。

「……人間の感情というのは本当に複雑で、ままならないものだね。それゆえにとても面白い」
「あーはいはいもう結構です。胸焼けがする!」

茨がいらいらとキーボードを叩いたと同時、私のポケットでスマートフォンが震えた。取り出してみると、ナマエさんからメールが届いている。何か必要なものができたのだろうか。急いで開いたところで、指が止まった。

「……茨。いまから言う場所へ車を向かわせてくれる?」
「あのですね閣下。自分の話、ちゃんと聞いてました? 何度も言わせないでくださいね。見舞いは、」
「なんだか様子がおかしい」

メールには件名もなく、『やっぱり今日は来ないでください。迷惑です』という素っ気ない一文だけが書かれていた。隣から茨が怪訝そうに覗き込んでくる。

「ほら、言わんこっちゃない。先方もこう言ってることですし、やはり今日は」
「……これはナマエさんの言葉じゃない。少なくとも、彼女の意思で送ってきたものではないと思う」
「……はあ?」

嫌な予感がした。茨はわけがわからないというように眉を顰めている。でも、説明している時間はなかった。

「茨。すぐに車を出して」
「だから急に何を、」
「お願い」

まっすぐに目を見て語りかければ、彼は観念したように「……ああもう! わかりましたよ!」と叫んだ。

「行けばいいんでしょう、行けば!」
「……ありがとう、茨」

記憶を頼りに告げた住所を、茨が的確に変換して運転手に指示してくれる。他人の心からの頼みを無下にできない甘さも、彼の愛しいところだ。

「この貸しは仕事で十倍にして返してもらいますからね!」
「……うん、もちろん」

走り出した車の窓を流れる景色がひどく悠長に見える。赤信号の待ち時間が永遠のように長く感じたのは、生まれて初めてだった。