降る福音2

三月にもなれば花屋の店先はもう春一色だ。
チューリップにフリージア、スイートピーに桜。ブリキのバケツにお行儀よく収まった花たちを見渡し、深呼吸をする。胸いっぱいに甘酸っぱい香りが満ちて、やがて水仕事で冷え切った指先にまでじんわりと広がっていくような気がした。外はまだまだ寒いけれど、ここにはもう爛漫の春野原が広がっている。

「ナマエちゃん、外に黒板出しといてくれるー?」

店の奥から店長の声がした。姿は見えなくとも、バックヤードをせわしなく動き回っている気配が伝わってくる。花屋のくせに朝に弱い彼女はいつも支度がぎりぎりで、開店間際の当店は毎日が戦いだ。

「はあい」
「あっ! ゴミ袋切れてるの忘れてた!」
「昨日買っておきましたよー」
「ナマエちゃん最高!」

バタバタとコンクリートを叩くスニーカーの音に負けないよう返事をしつつ、わたしは店の出入り口近くに立てかけてあるスタンド式の大きな黒板を持ち上げた。腰ほどの高さもあるそれをよいしょと抱え、開け放った硝子戸をくぐる。近頃はすっかり日の出が早くなり、店の目の前を横切る遊歩道にはすでに柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。

春に咲く花の名を冠したこの店で、わたしは高校生の頃にアルバイトを始めた。最初は週に二日、学校が終わってからの数時間だけのシフトだったけれど、めでたく高校を卒業した去年からは週五日、早番の日には朝八時から午後六時まで、遅番の日は正午から夜九時の閉店まで働いている。もっとも、店長がこの調子なので遅番のシフトは滅多にないのだけど。

「これでよし、と」

定位置に黒板を設置し、数歩離れて見栄えを確認する。お店の看板代わりのこの黒板には、毎日、その日の一押しの花をわたしが選んで紹介文を書く決まりになっている。花言葉や名前の由来、神話や逸話などのエピソードを添えておくと、案外それを目印に立ち止まってくれるお客さんも多いのだ。

「はー、やっと荷物積み終わった」

一息ついていると、車のキーを片手に店長が出てきた。凝りをほぐすように肩をぐるぐると回している。

「お疲れさまです」
「三月だからかなあ、やたら配達多くて困っちゃう」
「この時期、卒業やら異動やらで贈答品が増えますもんね」
「経営者としては嬉しいんだけどねー」

足腰にこたえるのよねえ、となおも肩をほぐしながら店長が続ける。老人のようなことを言うけれどこの人はまだ四十代だし、重い鉢植えを持ってすいすい階段を駆け上がれることだってわたしはちゃんと知っている。

「じゃあ配達行ってくるねー。お店番よろしく」
「はい、いってらっしゃい」
「ナマエちゃん、すっかり頼もしくなって。助かるわあ」
「もう。また調子いいこと言って」
「あはは」

からりと笑う顔はまるで向日葵みたいだと、いつも思う。
わたしがアルバイトに入るまで、この店はほとんど店長ひとりで切り盛りしていた。小さな店で、お客さんの出入りする店舗スペースだけでいうと、ほんの五坪ほどしかないのだった。いまだって本当はバイトなしでもやっていけるのだろうけれど、彼女は何も言わずにわたしを働かせてくれている。

配達用のミニバンで出かけていった店長を見送り、九時を回ったのを確認して店を開けた。平日の朝、しかもオフィス街でもないので、こんな時間にやってくるお客さんはほとんどいない。それでも毎日毎日きっかりと開店時間を守るのもまた、この店の数少ないルールのひとつだった。
今日も今日とてお客さんはいないけれど、やることは接客だけではない。手始めにわたしは来店スタンプカードの準備に取りかかった。お買い上げ一回ごとにスタンプをひとつ押していき、十個貯まると店内の好きな花と交換できる、という仕組みだ。その最初の一マスにあらかじめスタンプを押しておくのだ。

出入口の見えるレジカウンターに立ち、花の形のスタンプを次々に押していく。当店では季節ごとにカードのデザインを変えていて、三月から五月は春のカード。淡いグレーの台紙に野の花のイラストがプリントされている。四季の中でわたしの一番のお気に入りだった。

「……うん?」

しばらく夢中でスタンプを押していると、ふと視界の端で何かが光ったような気がした。顔を上げれば、開けっ放しの出入口の向こうを誰かが横切っていくのが見えた。すらりとした長い脚がゆるやかなリズムで歩き去る。どうやらお客さんではなかったようだ。けれどなんだかやけに気になって、わたしは急いでスタンプカードを片づけると外へ出た。

赤茶と白の煉瓦が敷かれた遊歩道はゆったりと道幅が広く、道沿いにずっと遠くまで桜並木が続いている。あと数週間もすればこのあたり一面がピンク色に染まり、花見客でそれはそれは賑やかになるだろう。いまはまだようやく蕾をつけ始めたばかりというところで、人通りはまばらだ。

だから、すぐに光の正体を見つけることができた。
心臓がどくんと大きく跳ねる。あの日と同じように桜の木を見上げる横顔。波打つ白銀の髪が朝の日差しを反射して輝いていた。きらきらと、光の弾ける音が聞こえたような気がした。

「――〝なぎさ〟さん?」

無意識のうちにその名が唇から零れ落ちて、わたしは慌てて口元を手のひらで覆った。けれど心の中では間違いないと確信していた。
記憶の中よりも少し背の高い彼が、ゆっくりと振り向く。宝石みたいな瞳がわたしを捉えた。吸い込まれそうなほど透き通ったその色に、息を呑む。

「……えっと。こんにちは」
「えっ!? あっ、こ、こんにちは!」

声が上擦った。まさか丁寧な挨拶が返ってくるとは思わず、面食らってしまったのだ。いけない、これではまるで不審者だ。

「あ、あの、すみません怪しい者では」
「君は……もしかして、ファンの子?」
「え」

わたしの心配に反して、彼に驚いた様子や警戒する様子はなかった。ただ不思議そうに目を瞬かせ、わたしの頭からつま先までをじっくりと観察するように眺めた。まさに〝観察〟という言葉がぴったりな、何も嫌味なところのない視線だった。

「……ごめんね、プライベートでファンとあまり気軽に触れ合わないようにって言われているんだ。ここで会ったことも、内緒にしてくれると嬉しい」

彼がすまなさそうに眉を下げる。わたしは気の抜けた声で、はあ、と返すほかなかった。プライベートとかファンとか、もしかしてこの人、芸能人か何かなのだろうか。

まじまじと見れば見るほど、確かに彼は整った容姿をしていた。背丈もあり、すらりと手足が長く、モデルさんや俳優さんだと言われれば納得してしまう。わたしはその手の話題にとんと疎く、芸能人といえば店のバックヤードに貼られている色褪せたポスターの中の、一昔前のアイドルスターの名前くらいしか知らなかった。それも店長から教わったのだ。

「あの、ちがうんです。わたし、すぐそこの花屋の店員で」
「……お花屋さん?」

わたしの指さした方向へ、彼はくるりと視線を巡らせた。

「……ああ、さっき通りかかったよ。とてもいい匂いがした」
「あ、ありがとうございます」

彼がにこりと微笑む。小さな花がふっと咲き零れるみたいに可憐な笑みだった。
あれ、とわたしは思った。この人は本当に、あの日に桜の下で出会った彼と同じ人だろうか。さっきは確信すら抱いていたはずなのに、ちょっと自信がなくなってきた。だってあの人はこんな風に自然に笑っていなかった。

「……そうだ。お花屋さん、この辺で猫を見なかった?」
「ね、猫? ですか?」
「うん。私、散歩していたのだけど、途中で珍しい尻尾の形をした猫を見かけて、追いかけてきたんだ」

それで気づいたら知らない場所にいて、とおっとりした口調で続ける。

「つまり、迷子なんです……?」
「……うん、そう。だけどもうすぐ迎えが来るから、大丈夫」

迷子だというのにずいぶんと楽しそうだ。ふわふわと風に乗って漂うたんぽぽの綿毛を想像し、慌てて頭を振る。

「……ねえ、お花屋さん。せっかくだから少しお店に寄らせてもらっても構わないかな。迎えが来るまで、ただぼんやりしているのも退屈だから」
「も、もちろんです、ぜひ」

猫はもういいみたいだ。どうぞと促すと、彼は「ありがとう」と嬉しそうに言ってまた笑った。じんわりと、内側から明るさやあたたかさの滲み出すようなその笑い方は、彼にとてもよく似合っていた。

「……ところで、君はファンの子ではないんだよね。どうして私の名前を知っていたの?」
「え、えっと。覚えていらっしゃらないかもしれないですけど……」

店への短い距離を並んで歩きながら、言葉を選びつつ答える。何年か前、道に迷っていた彼に声をかけたこと。とてもきれいな人だったので印象に残っていたこと。期待していたわけではないけれど、案の定、彼は覚えていない様子で、端整な眉を困ったようにちょっと下げてわたしを見た。間近にすると、信じられないくらいに顔が整っていることがあらためてよくわかる。見つめ合っていたら照れてしまいそうでわたしはすぐに視線を逸らした。

「……ごめんね、覚えていないみたい」
「いいんです! 本当に一言か二言、お話しただけですし」

もしかしたら人違いかもしれないし、とは恥ずかしくて言えなかった。

「……言い訳みたいになってしまうけれど、あの頃の私は、俗世のことにほとんど関心がなかったから」
「ぞくせ……?」

不思議な物言いに聞き返したときにはもう店の目の前で、彼はさっそく「ここだね」と先んじて扉をくぐってしまっていた。薄々そんな気がしていたけれど、この人、ものすごくマイペースな人だ。

「しばらく店内を見せてもらっても平気?」
「ええ、ゆっくりご覧になってください」

おとなが四、五人も入ればぎゅうぎゅうの狭い店内を見渡し、彼は高い鼻をすんと鳴らした。初めてやってきた場所を興味津々に探る犬のようで、大柄な見た目にそぐわない可愛らしさが微笑ましい。

「……君ひとりでお店をやっているの?」
「いいえ。店長がいるんですけど、いまは配達に出ています」

答える間にも彼の関心はもう目の前の花々にすっかり移ってしまっている。「この花は何?」と尋ねられたのは今日入荷したばかりのスイートピーだった。蝶々のようにひらひらした花弁が優美で、知名度も人気も高い花である。品種によって香りが異なることを伝えると、彼はそれぞれに鼻を寄せて熱心に香りを確かめていた。

「……これは?」
「ラナンキュラスです。花びらがシルクみたいにすべすべなんですよ」
「へえ……こっちは?」
「これはキンギョソウ。泳ぐ金魚のような花姿から名づけられました」
「面白いね。……これは、チューリップ?」
「正解です。こちらは最近開発されたばかりの新品種で、『春のワルツ』といいます」
「……君は物知りだね」
「い、いえそんな」

率直な誉め言葉を投げかけられ、どぎまぎして「花屋なので」などと面白くもない返事をしてしまった。花屋が花のことに詳しいのなんて当たり前だ。わたしなんか店長に比べたらまだまだ勉強不足で、少し花に詳しい人ならお客さんでも知っているような知識しかない。それでも子どもみたいに無邪気に頷いてもらえるのは嬉しかった。

「……外はまだあんなに寒いのに、ここにはもう春が来ているんだね」

彼の長い指が横髪をそっと掻き上げる。まぶしそうに細められた瞳は、痛いほど無垢に透き通っている。
ああやっぱり、とわたしは思った。この人は、あの日の彼と同じ人だ。こんな風に優しく笑う人だったのだ。
あの日、桜の花を美しいと言った彼は、どこかこの世との繋がりが希薄に見えた。まばたきの合間に輪郭がほどけて、春の光に紛れて消えてしまいそうな、そういう儚さを纏っていた。『俗世に関心がなかった』というのも本当だったのかもしれない。

「あそこの、黄色い花は何?」
「えっ! ど、どれですか!?」

ぼうっと見つめていた横顔が不意に振り向いたので、咄嗟に大きな声が出てしまった。「……大丈夫?」と不思議そうに尋ねてくる彼に曖昧な笑みを返して誤魔化す。まさか、あなたに見惚れていましたなんて言えるはずがない。

「……あの粒状の花なんだけれど、面白い形をしていると思って」
「あ、あれはミモザです」

彼が指さしたのは、店に入ってすぐの一角にこんもりと飾られた黄色い花だった。明るい色合いで人目を惹き、活発な印象を与えてくれるので、毎年この時期には店頭の目立つ場所にたくさん並べている。彼は吸い寄せられるように歩いていって、ペーパーで包装されたミモザを一枝、そうっと取り上げた。壊れ物に触れるときのように優しい仕草だった。

「……この店の名前と同じだね」

まるで、光の束を胸に抱いているみたいだ。薄日が差し、彼の髪をきらめかせる。「……ミモザ」と、ゆっくりと飴玉を転がすようなリズムで彼が呟いた。

「外の黒板にも紹介されていた」
「よくご覧になってるんですね」
「……物事を観察するのが好きなんだ。ぼやぼやとよそ見をするなってよく叱られてしまうけど、この世には私の知らない美しいものがまだたくさんあるから。私は、それを知りたい」

少年のようにきらきらした瞳だった。ミモザを大事そうに抱えたまま彼はレジカウンターに歩み寄ると、「これをいただくよ」と言って上着のポケットから財布を取り出した。

そうだ、彼はお客様なのだった。慌ててカウンターの中へ駆け込み、レジを打つ。ミモザの枝先に保水フォームを添えてビニールを巻き、お渡しする準備を整えていると、どこからか低い振動音が聞こえた。彼のスマートフォンだ。

「……もしもし、茨?」

たどたどしい手つきで通話ボタンを押して、彼が答える。〝いばら〟さん――女の人だろうか。薔薇の花みたいできれいな名前だ。

「ああ、うん、私は大丈夫……ごめんね、また迷子になってしまって……いまはお花屋さんにいるよ。きれいな花を買ったんだ。あとで茨にも見せてあげるね」

ふふ、と吐息で笑って彼はすぐに電話を切った。

「お迎え、もう到着しそうです?」
「……うん。すぐそこの交差点で待ってるようにって」

包み終えたミモザを渡すとき、指先同士がほんの少し触れ合った。陶器のように滑らかに見えるのに、彼の肌はふわりとあたたかくて柔らかかった。

「……ありがとう。君のおかげで素敵な時間を過ごせたよ」
「こ、こちらこそ」

さっき触れた指が、カウンターの上からスタンプカードを一枚攫っていく。ミモザの形のスタンプを押した、春の花の散りばめられた淡いグレーのスタンプカード。

「……またね、お花屋さん」

春風みたいな声だった。彼の背中で白銀の髪が波のように揺れるのを、わたしは夢を見るみたいに見つめていた。外はあんなに寒いのに、桜の蕾はいまだ固く閉ざされたままなのに、確かに春はすぐそこまでやってきていた。