降る福音1

硝子のかけらのような人だった。

轟々と春の嵐の吹き荒れる午後のことだった。満開を迎えた桜の花びらが一斉に狂い降り、辺り一面を覆い尽くしていた。まるで薄紅色の永遠の中に取り残されたように、その人はただひとりきりでそこに立っていた。
最初は女の人だと思った。けれど近づいていくとすぐに、わたしよりもずいぶん背の高い男の人だとわかった。肩口で緩く束ねられたしろがねの長い髪が、鈍い日差しを受けてぼうっと淡く光っていた。鮮やかな青色の上着にそれはよく映えて、晴れた海原に立つ白銀の波のように見えた。

その人は何をするでもなく、ぼんやりと宙を見上げていた。延々と連なる桜並木には溢れんばかりの花が咲いているというのに、その愛で方もわからないというようだった。同じ角度で顎を上げたまま微動だにせず、ただ銀色の髪とそこに結ばれた細いリボンだけが、生ぬるい風に吹かれてあちらこちらへと頼りなさげになびいていた。
銀糸の隙間から、ゆっくりと瞬きをする長い睫毛が見える。その横顔がなぜだかひどく寂しそうで、気がつくとわたしは声をかけていた。

「あの、どうかされましたか」

切れ長の目元が振り向き、わたしを捉える。はっとするほどきれいな人だった。

「……私に、話しかけている?」

自分で声をかけておきながら、返事があったことにわたしはうろたえた。均整のとれた唇から発せられた声は存外に低く穏やかで、けれど不自然に無機質だった。

夢の中で神様と話しているみたいだ。
こんなに近くに立って正面から目を合わせても、それほどに彼には現実味がないのだった。互いに決して交わることのない別々の世界にあって、その狭間で奇跡的にこうして言葉を交わしている、そんな不思議な感じがした。

「あ……す、すみません、いきなり話しかけて。ずっとここにいらっしゃるようだから、何かお困りなのかと……」

しどろもどろになって答えると、彼は「……ああ」と吐息のような声を漏らした。ひとたび絡まった視線はまた逸らされ、鼈甲色の瞳が緩慢に頭上を見上げる。その白い頬に、薄紅のかけらがそっと触れては落ちていく。

「……道が、わからなくなって」
「え」
「……帰ることができない、ので、花を見ていた……いました」

抑揚の欠けた声で彼が言う。
道がわからないとは、つまり、迷子ということだろうか。わたしはまじまじと彼の横顔を見つめた。顔つきや体格からしてそう幼くはなさそうだし、そもそも制服を着ている。きっとわたしと同じ高校生だろうに、迷子なんて。だけど嘘や冗談を言っているようにも見えない。

「え、っと。よかったら、わかる場所までご案内しましょうか?」
「……君が?」

ぱっと、彼の瞳がこちらを向いた。透明な眼差しにどきりとする。なんて無垢な目をする人なのだろう。いつも接している同年代の男の子たちとはまるで違う。恥じらいも衒いも何もない、たとえるならまだ善悪さえも知らない赤ん坊みたいな。……そんなこと、こんな立派な男の人に思ったら失礼だろうか。

ほんの少しの沈黙の後、「……ああ、でも」と彼は残念そうに眉を下げた。そこでわたしはようやく、自分が彼にすっかり見惚れていたことに気がついた。

「……知らない人には、ついていくなと言われています」
「そ、そうですよね」

すみません、と肩をすぼめる。別に下心があったわけでもないのに、この瞳を前にすると、なんだかひどく恥ずかしいことをしてしまったような気持ちになった。

それにしてもどうしよう。このまま立ち去るのは薄情な気がするし、警察を呼んだほうがいいのかな。それともわたしの携帯電話を貸しておうちに連絡してもらうべきか。わたしがあれこれ逡巡している間も、彼はじいっとこちらを見つめている。どうにも居心地が悪くてわたしはさり気なく視線を逸らした。わたしたちの間に降る沈黙と同じだけ、足元には淡い色の花びらが積もっていく。

(不思議な人だなあ……)

浮世離れしている、とはきっとこういう人のことを言うんだろう。わたしはいつか訪れた美術館で大事に大事に飾られていた硝子細工を思い出していた。特別に設えられた部屋で、適切な温度と湿度に管理され、厳重なケースに守られ、誰も触れることを許されない。ひどく美しいのに、見つめているとどこか寂しい気持ちになる。

「……あの。頭」
「へ?」
「……ええと、動かないで」

不意に、わたしのつむじ辺りに向かって彼が手を伸ばした。その動きがまるでスローモーションみたいにはっきりとよく見えた。彼の腕は硝子よりもずっとすんなりとしなやかに動き、青いジャケットの袖に浮かび上がる柔らかな皺の一筋まで、すべてが計算し尽くされたようにきれいだった。その一瞬、わたしたちの世界は確かに交わっていた。

「……ついていた」
「えっ! あ、ありがとうございます……」

ゆっくりとこちらへ向けて開かれた大きな手のひらには、桜の花が一輪乗っていた。彼がほんのわずかに目を細める。わたしはその瞳から目を逸らせなかった。世界がたちまち輝きを増したように明るくひらけた気がした。雲が切れて光が差して、まぶしいスポットライトのようになって、目の前の彼を照らしていた。

「あ、あの、お花」
「……うん?」
「お花、好きですか?」

わたしが尋ねると、彼はきょとんと目を丸くして、それから唇の端をほんのちょっと持ち上げた。

「……好き、は、わからない。けれど、美しいと、思う」

それが彼の笑顔なのだと気がつくのに少し時間がかかった。覚えたての笑い方を一生懸命になぞっているみたいなそのぎこちなさが、かえって痛いほど胸を打った。
風が強く吹いて、彼の手から小さな花を攫っていく。髪が乱れ、わたしは一瞬目をつむった。もう一度目を開けたら幻みたいに消えているんじゃないかと思ったけれど、その人は変わらずそこに立っていた。夢のような人なのに、この人は確かに自分とおんなじ人間なのだ。そんなばかみたいな感慨を抱いた。

背後で車のエンジン音がしたのはそのときだった。それはあっという間にわたしたちの隣までやってくると、同時に弾けるような明るい声がした。

「凪砂くん!」
「……日和くん」

高級そうな黒塗りの車の後部座席の窓が開き、そこから男の子が顔を出した。まぶしい金色の髪をした、おとぎ話に出てくる王子様みたいな人だった。

「まったくもう、探したね! 今日は新しくできたカフェに一緒に行く約束だったのに、急にいなくなっちゃダメだね! 悪い日和!」
「……ごめんね。散歩をしていたら、道に迷ってしまいました」
「きみが凪砂くんを保護してくれたの?」

アメジストの瞳がくるりと動いてわたしを見る。ぽかんとして二人を見つめていたわたしは、一拍遅れて慌てて首を振った。

「えっと、わたしは何も」
「どうもありがとう! この子、目を離すとすぐにふらふらとどこかへ行っちゃって、毎回見つけるのが大変なんだよね」

つむぎくんに見張っておくように言っておいたのに! と王子様は頬をぷっくり膨らませた。そうするとおとなびた顔立ちが途端に崩れて、拗ねた子どものようになった。ころころとよく表情の変わる人だ。

「さあさあ早く乗って! 急がないと日が暮れちゃうね!」
「……うん」

白銀の髪がわたしの脇をすり抜けていく。この王子様が彼の家族なのだろうか。兄弟にしてはあまり容姿が似ていないけれど、と思いながら所在なく突っ立っていると、車に乗り込む寸前、彼がふっと顔を上げてわたしを見た。

「……えっと。さようなら」
「は、はい! お気をつけて」

パタン、と厳かに閉まったドアの残響を残し、車はあっと言う間に遠ざかっていく。エンジン音がすっかり聞こえなくなってしまうと、あとにはただ静かな春の景色だけが残った。花枝の擦れ合うさざめきが、潮騒のように耳の奥に響いていた。

「……〝なぎさ〟さん」

美しい人。不思議な人。透明で、少し冷たい、硝子のかけらのような人。

降る福音